第2話


 じぃっと見て回る。ふと、足が止まった。

 かつて私にギター雑誌を買うきっかけをくれたアーティストが持っていたギターに、すごくよく似たギターがあった。瞬間、これにしよう、と思って値段を確認して、やっぱやめよう、と思った。これから就職してもらうだろう初任給よりも高かったのだ。

 さすがに今これを買ったら、明日死ぬ前に、今日後悔しそうだと思った。だからやめた。

「あの、これっぽいやつで、安いやつないですか?」

 さっきの店員さんを捕まえて、聞いてみた。店員さんは、それなら、と似たようなギターをふたつ見せてくれた。

 あたしはぐるぐる考えた。どの選択肢が一番、私が後悔しない選択肢だろうか、と。

 店員さんは高い方を売りたそうにしていたけれど、私の反応がふわふわしていたせいか、安いほうを推し始めた。私はふわふわぐるぐる考えて、高い方を買うと言った。店員さんは、小さな雷に打たれたように、身体を一瞬、びくりとさせた。


 ギターを手に入れた。これで明日死んじゃっても、私は後悔しないはず。そう思ったのだけれど、欲というものはぶくぶくと膨らんでいくものらしい。

 ギターを手に入れた今、私はステージに立ってみたくなった。

 別に、武道館とかじゃなくていいのだ。そのへんの小さなライブハウスで、赤飯に混ざってる豆粒みたいにぽつぽつとしかお客さんがいなくてもよくて。

 ただ、憧れたアーティストみたいに、ギターを抱えてスポットライトを浴びてみたいと思ったのだ。


 思い立ったが吉日。SNSをチェックした。バンドメンバー募集をしている投稿を漁った。

 好きなアーティストが似ているアカウントを見つけると、即――と言ってもメッセージを考えるのに何時間もかかったんだけど――応募したいと連絡をした。


 その人と都会のカフェで待ち合わせた。やる気を見せたくて、ちょっとカッコつけたくて、だから背中にピカピカのギターを入れたペラペラのギターケースを背負っていった。

 その人とは、飲み物の好みが合った。ちょっと未来に期待した。

 ふたり分のミルクティーが届くと、一口飲んで、本題に入った。


 いざ本題、となると、急にカフェの空気がピリッと痛くなった気がした。

 話をすればするほどに、その人との熱量の違いを感じたり、自分自身の会話の引き出しの少なさを感じたりした。

 ただただ打ちのめされる、拷問の時間みたいになっていて、終わるころまでに飲み切ることができなかったミルクティーを最後の最後に飲み干すと、「もう二度とミルクティーなんか飲まないもん」ってくらい、おいしくないって思った。

 その人は「検討してお返事します」と言ってくれたけれど、返事が「これからもよろしく」ではなく「さようなら」であることくらい、私にはよく分かっていた。


 悩む。ギターを買うのはまあいいとして、バンドメンバー募集にまで手を出さなければよかっただろうか、と。

 後悔しないように、明日死んじゃってもいいようにと行動して、今、後悔の渦にのまれた。


 空を見た。ニョキニョキと高層ビルが乱立していて、アレをひたすらにのぼったら、雲に手が届く気がした。

 のぼろうとしなければ、雲に手が届くはずもない。けれど、のぼろうとしたならば、もしかしたら、手が届く。

 雲にだって、きっと。

 そう考えて私は、ここ数日の自分を褒めることにした。もう、後悔の渦にはのまれない。私は、すごく頑張った。明日死んじゃっても後悔しないようにと、前を向いて生きることを頑張った。だから、それで、いいじゃないか。


 大学を卒業し、予定通りと言っていいだろう、ただの会社員になった。そして今ではすっかり社会人らしくなったと思う。

 別にやりがいがいっぱいというわけでもないけれど、明日もちゃんと生きられて、ちょっとなら贅沢できるくらいのお金を貰えているから、それなりに満足してる。

 だからかどうだかわからないけれど、気づいたら転職しないまま4回も新人を受け入れた。


 バンドに入っているわけでも、路上に立つわけでもないけれど、せっかく買ったのだからと、仕事が終わると夜な夜なひとり、ギターを弾いていた。どれだけ下手くそだって、弦が弾ける音を聴いていると、癒された。

 これがなかったら私は、予想通りに違う会社に移ってたりして。そんなことを考える日も、そこそこある。


 さすがに素人だって、何年も夜な夜な弾いていたら、大好きな歌を弾き語れるようになっていた。

 弾き語れるようになって、それがだんだん、自分目線ではあれ様になってくると、また欲がぶくぶくと膨らんだ。

 ――やっぱり、ステージに立ってみたいかも。

 しかし、学び多き経験は、私を猪にしなかった。

 ――って言ったって、ステージに立つ術なんてないし。そもそも、ステージを追いかけるほど、演奏することに熱くなれると思えないし。


 これは、ただの、趣味だし。


 私は、欲を粘土みたいにして、捏ねて伸ばして、形を変えた。

 そして、ステージに上がることを諦めて、ステージを観に行くことにした。音楽でひとつになる世界に、行くことにした。


 明日死んじゃうとして、最期に刻む一番フレッシュな記憶が、音に包まれた記憶であったなら。

 すごく幸せだと思ったのだ。



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