逃走するマグカップ
楠 悠未
前編
──弘樹、結婚するって。
友人の梓から届いたメールの一文を読んだ瞬間、千夏の視界はぐらりと歪み、胸はキュッと絞られたように痛んだ。平静を保とうと息を細く吐き出す。まさか元カレの結婚にこれほどまでに心を乱されるとは思ってもいなかった。
千夏が弘樹と別れたのは、もう二年も前のことだ。お互いの仕事が忙しく、すれ違いの日々が続いた末の破局だった。別れた直後は心にぽっかりと穴が空いたような寂しさがあった。四年半という決して短くない時間を一緒に過ごしてきたのだ。思い出は山ほど詰まっている。それらは些細なことで記憶から溢れ出しては何度も千夏の頬を濡らした。それでも、時間の力は大きい。仕事に打ち込んだり、友人と出かけたりしているうちに弘樹がいない日常は当たり前になった。そして、寂しさも恋しさもだんだんと薄れていったのだった。
だから今更、元カレの結婚に動揺するなんてありえなかった。
梓への返信は一旦保留することにしてスマホをベッドに放り投げる。
「未練ではない」
言いながら立ち上がり、窓を開けて新鮮な空気を吸い込む。十二月にしてはそれほど冷たくない風が千夏の髪を揺らした。
「コーヒー飲もうっと」
キッチンへ向かい、ケトルのスイッチを入れてお湯を沸かす。気持ちを落ち着かせたいとき、千夏はいつも温かいブラックコーヒーを飲む。千夏にとってコーヒーは精神安定剤とも言えた。
「だって別れてから二年も経ってるんだよ?」
食器棚から取り出したマグカップは、丸っこいフォルムと淡い桜色が可愛くて、特に気に入っているものだ。
「弘樹が私より早く結婚するなんて思ってなかったから驚いただけ」
豆から挽くか、インスタントにするか悩んで手軽な方を選ぶ。インスタントの粉をティースプーンで山盛りすくう。そしてマグへ移そうとして、粉を盛大にこぼしてしまった。
「断じて未練なんかじゃない」
濡れ布巾で粉を拭き取りながら、千夏はぐだぐだと話し続ける。
「お幸せにって心の底から祝福してるし」
今度はこぼさないように、慎重に粉を入れようとした。が、しかし、マグの位置がひょいっとずれた。
何かがおかしいぞ、と千夏は思った。でもまぁ気のせいかもしれないと、もう一度粉を入れようと試みる。するとマグはひとりでに動き、ズズズっと避けるではないか。
「えぇ……? 勝手に動いてる??」
今度はマグの持ち手を掴もうとするが、やはりマグは千夏から逃れるように素早く距離をとった。
「なんで逃げるの!?」
千夏が声を上げると、マグはビクッと飛び上がった。大きな声に驚いたらしい。なんだか申し訳なくて千夏は「ごめんごめん」と謝った。そのあと、ぷるぷると小刻みに震えるマグをじっと観察してみる。手や足が生えているわけではなさそうだ。付喪神が宿るほどの古いものではないはずだが、どうやらマグは意志を持つようになったらしい。
「私は今ね、コーヒーが飲みたいの。お願い。大人しくして」
努めて優しい声を出してみるが、マグは警戒を緩めず、千夏との距離を縮めてはくれない。
ゆっくりと手を伸ばす。マグは逃げる。手を伸ばす。やはり逃げる。
「わかった。わかりました。コーヒーを飲むのは諦めますぅ」
そう言って千夏はくるりとマグに背中を向ける。マグは明らかにホッとした空気を発している。
「……と見せかけて、キャーッチ」
油断を誘うという些かセコいやり方で隙を突いて飛びかかかるも、マグはひらりと躱わし、千夏のトラップを物ともしない。陶器のくせになんて軽やかな身のこなし……! と千夏は驚嘆する。
千夏がマグを追いかけるので、マグもぴょんぴょんキッチンを縦横無尽に逃げ回る。日頃の運動不足が祟ったせいか、この程度の追いかけっこで千夏の息はぜいぜいと荒いものになった。
「そ、そんなに激しく動き回ったら、欠けちゃうじゃないの……っ。私、あんたのこと気に入ってるんだよ……!」
肩で呼吸をしながら、情に訴えてみるも効果はなさそうである。そのとき、インターホンが鳴った。休日の午前中にと指定していた荷物が届いたようだ。
「そ、そこで大人しくしてなさいよ……っ」
千夏は人差し指をびしっと突き出してマグに言いつけると、よそいきの笑顔を貼り付けて玄関の扉を開けた。配達員との応対中もチラチラとマグの動向を窺う。マグがコトコトと移動しているのが見えた。
「ありがとうございましたー!」
無事荷物を渡した配達員はにこやかな笑顔で頭を下げるが、千夏は見ていない。
「ちょいストーーーーップ!!」
千夏の叫び声に、扉を閉めかかっていた配達員はピタリと動きを止めた。マグも驚いてその場で跳ねる。
「え? はい……あの、まだ何か?」
扉の隙間から配達員は怪訝な顔を覗かせながら尋ねるので、千夏は慌てた。
「あっ! 違います違いますすみません。うちのマグが……って言ってもわかんないですよね。すみませんありがとうございましたー!!」
戸惑う配達員をよそに、千夏は強引に扉を閉めて荷物を玄関に置いたまま、マグを追いかける。
「動くな言うとるやろがーい!!」
そんな剣幕で来られたら、マグではなくても逃げ出したいであろう。
千夏はドタドタと追いかける。体力はまぁまぁ限界であった。もうコーヒーなんて飲めなくてもいい。せめて大人しく捕まって、食器棚に収まってほしかった。
マグはテーブルからクッションへ、そしてベッドの上へと逃げ回る。そして、マグはついに窓際に追い詰められた。
「ふっふっふっ。もう逃げられはしないわよ。さぁ、大人しく捕まるのよ!!」
柔らかいものを揉むようないやらしい手つきで千夏はじりじりマグに詰め寄る。マグはピタリと窓に張り付いたが、何を思ったか突然、くるんくるんと回転しながら横移動を始めた。マグは千夏が先ほど開けた方の窓に向かっている。そして、網戸に突進。
「え、待って。マジでそれだけはやめてよ。お願いだから」
千夏の切実な声はマグには届かなかった。マグは網戸を突き破り、ベランダへ。
「網戸になにしてくれとるんじゃーーー!」
しかし、悲劇はこれで終わらない。
ここは二階である。にもかかわらず、マグは躊躇いもなく飛び降りてしまったのだ。
「いやぁぁぁ、死んじゃいやぁぁぁ! 私のマグぅぅぅ」
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