第38話


15



「起きてください、串田さん」


 その声が鳴河のものだと認識した四、五秒後。俺は自分の置かれている状況を思い出して意識が完全に覚醒した。


「か、会長は……っ? いつつっ」


 寝ている状態から上半身を上げると右側頭部に痛みが走る。

 そうだ。俺は走る勢いはそのままで木に激突したのだ。その際のファーストペインは去ったが、遅れてやってくるセカンドペインと温湿布を貼られているかのような熱さが、俺を苦しめる。


「大きな声を出さないでください。会長なら左のほうにいます」

「え?」


 慌てて首を巡らす俺は、ライトの光を確認する。

 距離は二十メートルあるかないか。思った以上に近くて鼓動が跳ねた。


「周囲を念入りに確認しながら、でも着実にこちらのほうに向かってきています」

「こ、ここにいるのが分かっているのか」

「分かっていたらまっすぐに向かってきています。私たちが走っていたときの音で、この直線上のどこかにいると判断しているのだと思います」

「くそ……」


 ある程度走ってから、そのあと抜き足差し足で歩いて場所を移せば良かったのだろう。しかし俺が木に激突したせいで、走り終わった地点に身を隠すことになってしまった。だが、今からでも間に合うかもしれない。 

 それを伝えると鳴河は、


「串田さん一人で逃げてください」

「何言ってんだよ。お前も一緒に決まってるだろ」

「そうしたいのはやまやまなんですが、無理なんです」

「何でだよ?」

「実は私は私で足を挫いちゃって、動けそうもないんです。だから一人で逃げてください」

「もしかして俺が転んだそのときか? 俺がお前の手を引っ張っていたから、そのときじゃないのか」

「……いえ、違います」


 そうなのだと確信した。

 鳴河が足を挫いたのは俺の所為。だったら尚更、彼女を置いていくなどできない。いや、一人で逃走するなど端から選択肢の埒外だ。そして選択肢は一つしかない。


「鳴河、バッグから包丁を出せ」

「包丁、ですか」

「このままだと見つかる。だから早く包丁を出せ」」 

「……分かりました」

「あ、暗いから刃に気を付けろよ」


 意図を理解した鳴河から俺は包丁を受け取る。

 黙って殺されてなるものか。樽井会長がアダン・ウェバーとして俺達を殺しにかかってくるなら、受けて立つしかない。


 樽井会長はまだこちらに気づいていないが、俺は樽井会長の位置を知っている。そのアドヴァンテージを生かさない手はない。つまり先手あるのみ。こちらから攻撃を仕掛けるのだ。

 殺しはしない。致命傷に至らない程度に斬って樽井会長の動きを封じるだけだ。

 なのに――、


「できますか? 串田さん」

「やるしかないだろ。このままじゃ二人とも殺されてしまう。だから、俺のほうからやるしかない」


 包丁を持つ手が震える。当たり前だ。殺しはしなくとも今から人を斬ろうとしているのだから。これは正常な身体的反応なのだ。


 だがダメだ。こんな状態では樽井会長に行きつく途中で包丁を落としてしまう。うまく斬りつけるところまでいったとしても、軽傷を与えるだけで反撃されてしまうかもしれない。そもそも致命傷に至らない程度、且つ軽傷以上の攻撃などという、そんな器用なことができるのか。


 無理だ。

 できない。

 止めるか。

 ならほかの方法を。

 いや、選択肢はこれしかない。

 ここでやらなければ、俺と鳴河は殺されるかもしれない。


 ――やるしかない。


 俺は包丁の柄を両手でぐっと握りしめる。

 決意のおかげなのか震えが収まる。心成しか側頭部の痛みも和らいだ。


「行ってくる。お前はそこにいろ」

「いますよ。まだ動けませんから」


 そうだった。


「本当に行ってくる」

「気を付けてください。串田さん」


 俺は行動に移す。

 作戦らしきものは特にはない。迂回するように樽井会長に近づき、隙を見て斬りつけるだけだ。気を付けるべきはただ一つ。樽井会長に気づかれないこと。


 樽井会長は変わらず周辺をライトで照らしながら、鳴河のいる場所に距離を詰めてきている。何かをぶつぶつ口にしているが聞こえない。

 かなりの角度で迂回をしているので、まずこちらまでライトの光が届くことはないだろう。この調子で迂回し続けて死角となった背後から斬りつければ、この作戦は成功するはずだ。


 その背後へと俺は到着する。一切、後ろを警戒しない樽井会長。その彼は途中で止まっていたこともあり、鳴河の発見すらできていない。最悪、鳴河が見つかって樽井会長が走り出さないかと危惧していたが、幸いにもそうはならなかった。


 すんなりと行き過ぎて拍子抜けするほどだが、まだ最後の大仕事が終わっていない。樽井会長を斬りつけて行動の自由を奪わなければならない。

 斬りつける場所は決めている。太ももだ。太ももを深く切りつければ、少なくとも走ることは難しくなるはずだ。そうすれば鳴河を背負って逃げ出すことだってできる。


 俺は再び、包丁の柄を力いっぱい握りしめると、背中を見せる樽井会長へと詰め寄る。慌てずに。転ばずに。音を立てずに。まるで忍者のように。


 樽井会長の声が聞こえる。

 斬りつける体勢に入ったところではっきりと聞こえた。


「串田君、鳴河さん、出てらっしゃい。さっきから言ってるでしょ。もう――は終わりだって」


 保っていた決意にひびが入る。


 今、なんと言った?

 会長は〝もう、何が終わり〟だと言ったんだ?

 もしかして、撮影が終わりだと口にしたんじゃないのか?


 弾指の間だった。俺がそこに至る過程の一切合切を切り捨てて、明解な二者択一で一方を手に取ったのは。

 それが正しい行いだったのかも分からず、ただ切望だけを胸にしながら俺は立ち止まった。立ち止まってしまった。


 樽井会長が振り返る。

「やだ、串田君、そんなところにいたの。もうは終わり。いい声で啼いて頂戴ネ」


 マチェットが振り下ろされる。

 咄嗟に防御姿勢に入る俺。

 キンっと金属音がして、マチェットの軌道がずれる。

 両手で持っていた包丁がマチェットの攻撃を防いだのだ。


 なんという幸運だろうか。しかし二度の幸運は期待できない。

 俺は背後に飛びのくと、包丁を構えた。


 虚しく散った切望と己の愚かさに死にたい気分にもなったが、本当に死にたいわけではない。樽井会長を本来の樽井会長に戻せる可能性もどうでもよくなった。向こうが殺す気でくるならこちらも殺る気でいくしかない。

 腹を括るというのが、本気で分かったような気がした。

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