第18話


 返事が殺人鬼からあった。

 それは紛れもなく鳴河が、いつも通りの抑揚のない声で発したものだった。


「……え? い、今なんて」

「はい、カットって言ったんですよ。もうこれでドッキリは本当に終わりです」

「これもドッキリ……?」

「はい」

「お前は鳴河?」

「はい。鳴河です」

「〈審判者〉は映研の誰か?」

「はい。高柳さんです」

「……――なんだよぉぉぉ」


 心身を雁字搦めにしていた緊張感が、波が引くように遠ざかっていく。やがて押し寄せてくる安堵感の波にどっぷりと浸かる俺。


 やはり鳴河殺人鬼版も、あらかじめ決められていたシナリオだったらしい。最初にその結論に行き着いていたのにと顔を歪める。そんな結論を土壇場で否としたのは鳴河の演技だったわけだが、ならば聞かねばならないと鳴河に顔を向ける。

 騙されたという怒りを抑えるほどの純粋な興味を抱きながら。


「はぁ。……で、お前のさっきの奇声、本当に演技なのか? だとしたらお前……」


 そのあとの言葉を躊躇していると、鳴河が化粧マスクとその下の使い捨てマスクを外す。

 化粧マスクを付ける際に邪魔だからなのだろう、露わとなった顔にはトレードマークでもある、どでかい黒ぶち丸眼鏡はない。ゴムバンドに絡まないようになのか、髪の毛も綺麗に整えられていた。


 つまり眼前の鳴河は、意外にもイモ女を返上するかのような可憐な少女だった。


「だとしたらお前、の次はなんですか?」


 鳴河が覗き込むように聞いてくる。


「へ? あ、いやあの、……まあその、なんだ。演技もできるんだなと感心したっていうか。べ、別に褒めてねーぞっ」

「はい、知ってます。串田さんは私のこと快く思ってませんから。扱いもいつも雑ですし。そんな串田さんに一矢報いてやろうと思って今回、会長にお願いしてドッキリを仕掛けさせてもらいました。ごめんなさい」

「お、おう」


 ぺこりと謝る鳴河に何と言っていいか分からず、それだけを口にする。会話のボールは投げたとばかりに鳴河の言葉を待っていると、「そういえば、何か声が聞こえたんですよね」と彼女が呟いた。

「声ってなんだよ?」

「この化粧マスクを着けてすぐに、〝お前じゃない〟って。頭の中に直接響くようなそんな感じでした」

「お前じゃない、か。それだけ聞いても意味不明だな。空耳じゃないのか」

「いえ、確かにはっきり聞こえたんです。なんだったんだろ、あれ」


 鳴河が化粧マスクを見詰めながら空耳説を否定する。


 同じような話を今日どこかで聞いたような気がするが、結局、俺の脳内に記憶として呼び起こされることはなかった。


「ごめんなさい。鍵でしたね」


 鳴河がズボンのポケットに手を入れる。

 話が再び唐突に変わり、俺は「なんの鍵だ?」と聞いていた。


「拘束具の鍵に決まっているじゃないですか」


 俺はそこで、自分が拘束されていることを思い出す。あまりにも拘束が長すぎて、それが自然な状態だと受け入れかけていたようだ。


「そ、そうだったな。じゃあ頼むぞ」

「はい」


 そのとき、拍手をしながら樽井会長が部屋に入ってきた。


「いやいやいやいや、大・成・功ね。鳴河さん、良かったわよ。あなた、いい演技できるじゃない」

「うん。俺も驚いた。美術専任にしておくにはもったいない演技力だと思う」

「そうっすね。あれには僕も驚きました。本当にアダン・ウェバーが乗り移ったかのようでしたから」


 あとに続く〈審判者〉役の高柳と、倒れ役の天王寺もまた鳴河への賛辞を送る。

 鳴河を見れば、顔を赤くして照れていた。


 その表情もまたドキリとさせるような鳴河の女性としての一面であり、俺の彼女への見方が今をもって変容した。つまり、鳴河を女として意識してしまった俺は、今後は彼女をぞんざいに扱わないようにしようと決めたのだった。


「あ」


 その鳴河が口を半開きにして固まる。


「どうかしたのか?」

「鍵なんですけど、天王寺君に渡していたのを思い出しました。天王寺君、持ってる?」


 俺は思い出す。鳴河が樽井会長のスクリプター講座を受講中で鍵を持ってこれないから、天王寺に取りに行かせたことを。どうやらそこで受け渡しが行われていたらしい。


「あ、鍵でしたら城戸さんに渡しましたよ。レフ版の掃除をしたくて、だから城戸さんに変わりにお願いしますって渡したんすけど……あれ、城戸さんは?」


 天王寺のそれで、城戸がこの場にいないことに気づいた。


「綾野と鮫島さんもいないぞ」


 俺がもう二人、名前を上げる。


「鮫島さんなら、鳴河のドッキリが始まる前に帰ったよ。このマチェット借りてるままなんだけど、どうしよう。銃刀法違反で捕まりたくないなぁ」

「あたしが預かっておくわ。あと鳴河さん、そのマスクも」


 高柳と鳴河からマチェットと化粧マスクを受け取る樽井会長。樽井会長は化粧マスクの状態をくまなく確認して頷いたのち、ウエストポーチに入れる。そこに四、五〇センチはあろうかと思われるマチェットも一緒に入れたが、収まりきらないのか柄が飛び出たままだった。


 とそのとき、肉まんじゅうのほう――綾野が遅れて部屋に入ってきた。

 腹をさすっている綾野は、何やら顔色がすぐれない。聞けば、腹が痛くて本日二度目の排泄をしていたようだ。


「そいつは大変だな。ところで城戸は見なかったか?」


 高柳が聞く。


「……き、城戸さんですか。外にはいなかったと思いますけど」

「じゃあ、ここに来る間は」

「……いえ、見てません。き、城戸さん、いないんですか?」

「ああ。一体どこに行ったんだろう」


 高柳が表情に不安の色を浮かべる。


「綾野さん同様にどこかで用を足しているのかもしれません。この近くですと見られる危険性もあるので、少し遠くのほうで」


 危険の対象がここにいる男性陣であるかはともかく、鳴河の言ったことはおそらく正しいのだろう。よって俺達は話をしながら城戸を待ったのだが、一五分経っても彼女は戻ってこなかった。


「ちょっといくらなんでも遅いわね。みんなで探しにいきましょう。日も暮れ始めているし、あんまりゆっくりはしてられないわよ」


 樽井会長の号令で、皆は城戸を探しにいくことになった。皆と言っても、拘束中の俺は当然のことながら、その場に残ることになったのだが。


 五人のメンバーがいなくなると、喧噪が恋しくなるほどの静けさが訪れる。

 どこかでカラスが鳴いたようだが、予想外にいい餌でも見つかったのだろうか。

 埃っぽい臭いが鼻をつく。鼻をこすりたい衝動に駆られたが、身動きできないので諦めた。


「ふう」


 大きく息を吐くと、今日一日のことを振り返った。

 それは主に〈表現ゲーム〉における自分の演技についてであったのだが、すぐにドッキリ撮影時における素の自分の自己採点へと移行していた。


 浅はかな悪知恵だったとはいえ、高柳や樽井会長が褒めてくれた通り、あの状況で冷静の糸を切らずにいられたのは自賛ものだろう。最後の命乞いはどうしようもなかったが、最初からパニックに陥り、泣き叫ぶだけの醜態を晒さなくて本当に良かったと思う。


 もしもその醜態を晒していたら、どうなっていただろうか。 

 映研のメンバー、特に後輩達からの蔑むような視線が脳裏を過る。


 ――串田さん。カッコ悪いです。見損ないました。


 鳴河の冷たい眼差しが身を凍らせる。俺はすぐさま頭を振ると、その映像を霧散させた。

 しかし、樽井会長は今回の映画を公開するつもりなのだろうか。

 いや、撮ったからにはするのだろう。もしかしたら十一月の大学祭でも流すかもしれない。


「マジかよ」


 俺は思わず声を漏らす。

 映画研究会内での視聴は、すでに一回見られたようなものだからいいとして、大学祭での公開となると非常に抵抗がある。鮫島殺人鬼版のあれは演技ではなく素なのだから。丸裸になった自分を見られるようで、これは正直かなり辛い。


 自分の名誉のためにも、〈化粧マスクの殺人鬼〉のみの公開でお願いしますと、会長に頼み込んだほうがいいだろう。

 ドタドタと騒がしい音が聞こえる。どうやら城戸を探しに行った皆が戻ってきたらしい。


 ぞろぞろと部屋に入ってくるメンバー達。


「おう、戻ったか。城戸はいたか? 鍵、早くしてほしいんだけど」


 俺のそれに誰も答えない。

 無言で窓際に向かった高柳が窓に手を当て、項垂れる姿勢を見せる。ほかのメンバーを見れば全員が悄然としてうつむき、あるいは悲痛を思わせる表情を浮かべていた。そこに城戸はいなかった。


「あれ、城戸は? いたんだよな?」


 妙な胸騒ぎを覚えつつ、俺は誰にでもなく聞いてみる。


「……城戸さんは……」


 何かを押し殺したような天王寺の声が沈黙を裂く。

 しかしそのあとが続かず、再びお通やのような重苦しい雰囲気が場を支配した。


「え、何? 城戸はどうしたの?」


 突然、大きな音が部屋に響く。

 高柳が叩いた窓ガラスの音だった。


「誰なんだよっ。一体、彩花を殺したのは誰なんだよっ」

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