第47話 お別れです(別視点)

 身体を包み込む温もりを感じながら、リュミエールは目を開けた。


 今まで自分が何をしていたのか分からない。記憶は遠く、霧がかかっているかのようにぼんやりとしている。


 横になっていた身体を起こそうとしたとき、


「あら、目を覚ましたの? リュミエール」


 女性の穏やかな声が、耳の奥を震わせた。


 顔を見上げたその先には、リュミエールと同じ、水色の髪を上にまとめた美しい女性がいた。まるで翠光石というエデル王国では高価とされている宝石をはめた様な、美しい翠色の大きな瞳を細め、愛おしそうにリュミエールを見下ろしている。


 リュミエールは知っていた。

 目の前の女性を。


 忘れるわけが、ない――


「おかあ、さ、ま……?」


 母と呼ぶと同時に、何故か胸の奥から熱いものがこみ上げた。もう一度、母を呼ぼうと唇を開くが、喉が震えて言葉にならなかった。かわりに目の奥がジンッと痺れ、瞳が潤んだ。


 リュミエールは母親に手を伸ばすと、深い藍色のドレスに身を包んだ胸に抱きついた。


「おかあさまっ……おかあさまっ‼」


 母を呼ぶ度に、胸が苦しくなる。

 母にしがみ付くたびに、心の奥が揺さぶられる。


 母を傍に感じるだけで、涙が溢れて止まらなくなる――


「ふふっ、どうしたの、リュミエール? まるで私がいなかったかのように、しがみついてきて……」

「だって、おかあさまはいなくなりました。わたしの、せい、で……」

「何を言っているのですか? 私はいつでもあなたの傍にいますよ」


 リュミエールが混乱していると思っているのか、母親の手が、自分と同じ水色の髪を優しく撫でた。


 まるで、泣いている幼子を宥めるように。


 ――いや。


 母に縋り付くリュミエールの手が小さい。手だけでなく、身体も五歳ぐらいの子どもと同じぐらいの大きさになっている。

 上でひとまとまりにできる長さだった髪の毛も、今は、丁度肩の下辺りまでしかなく、頭を動かすと、頬の近くでサラッと揺れた。


(あれ? わたしのかみのけって、こんなにみじかかったっけ?)


 心の中で呟く言葉も、どこか幼く、考えもまとまらない。

 だが、


「私の可愛いリュミエール。どうかもっと近くでお顔を見せて?」


 疑問を抱くリュミエールの頬を、母親の両手が包み込み、顔を近づけた。


 美しい翠色の瞳と唇が、笑みを形作っている。母親は微笑みながら、リュミエールの頬を伝う涙を指で拭った。


「リュミエール、もう泣かなくていいのよ。お母さまは、ずっとあなたと一緒にいますからね」

「ずっと……? ずっといっしょにいてくれる、の?」

「ええ、もちろんです。可愛いあなたを置いて、一体どこに行くというのでしょう?」


 縋り付くように確認するリュミエールに、母親は少し揶揄うように茶目っ気たっぷりに片目を瞑り、娘を抱きしめた。


 母の反応に、リュミエールは釣られるように笑い、母の胸に身体を預けた。


 だが、涙が止まらない。


 大好きな母親と、これからずっとずっと一緒にいられて嬉しいはずなのに、涙は絶えず流れ頬を伝っていく。

 心が酷く揺さぶられ、胸の奥が苦しくなるのも、治まらない。むしろ、酷くなっているように思えた。


 まるで、リュミエールに警告するかのように……


(いったい、どうしたんだろう……わた、し……)


 流れる涙を服の裾で拭いながら、リュミエールは母親を見上げた。


 母親は先ほどと変わらず、幼いリュミエールを見下ろしながら笑っている。


 その笑顔が何かと――重なった。


 森の中。

 渡された果物。


 リュミエールの背中に寒気が走った。全身の肌という肌が粟立ち、痺れに似た刺激が腕や足を通り過ぎる。


(わたし、しってる……このおかあさまの、えがおを、どこかで、みた……)


 しかし、記憶の大切な部分がぼやけていて、どうしても思い出せない。


 そのとき、リュミエールを抱きしめていた母親の腕に力がこもった。愛しい子を包み込むような優しい力が、次第に相手を締め付けるような強さへと変わる。


 小さな身体が母親の両腕に締め付けられ、リュミエールは小さな悲鳴をあげた。苦しみから逃げるため、母の腕と胸の間で身じろぎをする。


「お、おかあ、さ、ま……くるし、い……」


 しかし母の腕から力は抜けない。なのに、リュミエールに語りかける声は、先ほどと変わらず温かくて優しかった。


「リュミエール、お母さまはあなたと一緒にいますよ。ずっと……」


 何とか顔をあげて母を見上げると、母は先ほどと同じ笑顔を浮かべながらリュミエールを見下ろしていた。だがその笑みはピクリとも動かなかった。


 それを認めた瞬間、母親の笑みが不気味な仮面のように思えた。


 同時に、思い出す。

 母親が浮かべる笑みを、いったいどこで見たのかを――


 毒が入った果物を食べさせられて苦しむリュミエールを見下ろし、笑っていたときと同じ表情。


(わたしは、おかあさまに、ころされそうになった……)


 それをきっかけに、リュミエールは全てを思い出した。


 今、リュミエールの目の前にいるのは、母の幻影だ。

 恐らく、狭間の獣と混じり合った憎しみが、母の形をとって表れているのだろう。


 幼かった身体が今の姿へと戻る。だが大人の体格に戻っても、リュミエールを抱きしめる母親の腕から抜け出せない。必死で身体をねじり、何とか隙間を作って抜け出そうとしたが、僅かな隙間すら出来ないのだ。


 決して崩れない笑みを貼りつかせた母親に向かって、リュミエールは叫んだ。


「止めてください、お母さま! あなたは……あなたはもう亡くなっています‼」

「亡くなる? 何を言っているの、リュミエール? あなたの大好きなお母さまは、ここにいますよ?」


 そう言って、母親がリュミエールの身体をギリギリと締め付けた。


 あまりの苦しさに意識が遠のきそうになる中、リュミエールの脳裏に、母と過ごした日々が浮かび上がった。


 自分が物心ついたときには、母の心はすでに病んでいた。

 リュミエールに辛く当たったかと思えば、部屋から出さないほど執着した。


 物を投げ、手をあげて、身体を傷つけた次の瞬間、可哀想だと涙を流しながら、手当をした。


 世界で美しい人間を鏡で訊ねたとき、たまたま後ろに立っていたリュミエールが映ったせいで、自分の娘を、父を惑わす悪女だと罵った。


 狂っていく母の傍から、どんどんと人が離れていった。

 残ったのは、幼いリュミエールだけだった。


(お母さま……あなたは、とても悲しい人……です。ですからせめて私だけは、あなたの傍に……)


 だからどれだけ辛くとも、母に寄り添った。

 母の心に寄り添おうとした。


「リュミエール」


 名を呼ばれ、リュミエールの心臓が跳ね上がった。

 作り物のように変わらない笑みを顔に貼り付けたままではあるが、翠色の瞳には光がなく、濁っているように見えた。


 先ほどとは全く違う、有無を言わせぬ威圧感を込めて言葉を口にする。


「あなたは、どこにもいかないわよねぇ? お母さまを置いて、どこにも行かないわよねぇ? お父さまのように、消えたりしないわよねぇ?」


 母親の幻影が自分を求めている。

 死んでもなお、呪いとなって狭間の獣と混ざり合い、リュミエールを縛り付けようとしている。


 そこまで自分を望んでいるのなら――


(いっしょに、いてあげたほうが……)


 本当の母親は自分が殺したようなもの。

 ならば今、目の前にいる母親の幻影とともにいることが、死んだ母へのせめてもの償いではないだろうか。


 母の幻影とともにいれば、母親の呪いから解放される。

 自分は罪人ではなくなるのだ、と――


 瞳を閉じる。

 身体を締め付ける母の腕に、自分の身を預けようと力を抜いたそのとき、


”お義母様”


 いつまでも聞いていたくなるほど心地よい幼な声が、リュミエールの耳の奥に蘇った。

 

 閉じていた瞳が、勢いよく見開かれた。

 今の声によって、身を預けようと力を抜いていた身体全体に激しく血が巡る。


”リュミエール”


 今度は、穏やかで安らぎを感じる男性の低い声。

 それを思い出すと、心の奥がキュンッとなり、頬から耳にかけて熱が上がる。


 心から溢れた愛おしさが、力へと変わる。


(そう……だわ。私には、レオン様とビアンカがいる。私が全てをなげうってでも守りたいと願う、愛する家族が……)


 瞳を閉じると、瞼の裏に、レオンとビアンカの姿が浮かび上がった。


 彼らは笑っていた。

 優しい笑顔をリュミエールに向けながら、ビアンカは大きく手を振り、レオンはリュミエールに向かって手を差し伸べていた。


 母親の作られた不気味な笑顔ではなく、心の底からの笑顔を――


 鼻先で、チェリックの香りがフワッと漂った。


「……ごめんなさい、お母さま。私はあなたと一緒にはいられません」


 リュミエールは瞳を開くと、笑顔を貼りつかせた母親に向かって毅然と言い放った。


 今まで僅かにも動かなかった母親の笑顔が、突然豹変した。目頭と口が裂け、バケモノのような形相へと変わる。


 今までリュミエールに対して隠していた恨みが、バケモノという形で現れたのだ。


『どう、して⁉ お前は、いっつもそうだっ‼ どうしてお母さまのいうことが、きけないの⁉』


 リュミエールを締め付ける腕に更なる力がこもった。先ほどまで優しい声だったことが信じられないような、ひび割れた甲高い声がリュミエールの鼓膜を貫いた。


 だがリュミエールは、たじろがなかった。


 自分を絞め殺そうとせんばかりの力も、不快な金切り声も、全てを受け入れてもなお、毅然とした態度を崩さなかった。


 ただ真っすぐ母親に伝える。


「私には愛する家族がいるのです。こんな私を……お母様を殺した私を受け入れ、愛してくれる家族が……」

『いるわけがないだろぉぉぉ‼ 呪われたお前を愛する者など‼』


 母親が激しく首を横に振る。綺麗にまとまっていたはずの髪の毛が解け、首を左右に振る度に乱れたが、何かを思ったのか裂けた口角がニヤリと上がる。


『狭間の獣に取り憑かれたお前などぉ、誰が愛するものかぁ?』


 リュミエールの心を傷つけようとしたのだろう。

 しかし母の言葉を受けても、リュミエールの心には僅かな傷もつかなかった。


「お言葉ですがお母さま。今この瞬間も、私の愛する人たちが……家族が、私を狭間の獣から救う為に、尽力してくださっています。それに家族は言ってくれました。獣を祓い、共に幸せになろうと言ってくれたのです!」

『うるさ、い……うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい、黙れぇぇぇぇ――――っ‼』


 母親の絶叫が響き渡る。

 裂けた口から涎を垂らしながら、リュミエールを睨みつけた。


『呪われろ、これから先もずっとずっと呪われろ‼ お前だけが幸せになるなど、許さないっ‼ 私の前から消えた夫に似たお前が、私の夫を唆した売女のお前が、幸せになるなどぉぉぉぉっ‼」


 もう母の心は完全に壊れていた。発言も支離滅裂になっている。


 たった八歳のリュミエールを、父を唆した売女だと思う程、狂ってしまっているのだ。いや父が戦死したことすら、正しく認識しているのかあやしい。


 哀れだ。


 同情の視線を感じたのか、母親は絶叫した。


『私はずっと一人だったっ‼ 私はなにも悪くない、なのに、誰も私の傍にいてくれなかったっ‼ お前も、私と同じ孤独を味わって死ねっ‼』


 私と同じ孤独――


 その言葉が、リュミエールの中にある母親を救えなかった後悔と同情を消し去った。


「そう……でしたか」


 何故か、ホッとしている自分がいる。

 何故か、諦めている自分がいる。


 今まで母と過ごした辛い日々が走馬灯のように流れて消えたが、何も感じなかった。


 リュミエールの口元に、笑みが浮かんだ。


「私は、ずっとお母さまに寄り添っていたつもりでした。お母さまを一人にしてはいけない、私だけは最後まで味方でいたいと。しかしあなたにとって私は……いない存在だったのですね。いない存在なら……あなたを殺すことも出来ませんね?」


 孤独にさせないため、あれだけ傍にいたのに、母の心に自分はいなかった。

 ただの……憎しみの対象にすぎなかった。


 母からの暴力も暴言も耐えたというのに、自分の気持ちは母には欠片も伝わっていなかっただなんて、滑稽な話ではないか。


(私は……十分にやった。母に寄り添い、自分の出来ることを精一杯やった。もう……いい)


 これからは、リュミエールの傷ついた心を癒やしてくれた、愛する家族のために心を尽くしたい、と――


 だから、


「もうこれ以上、私はお母さまに寄り添うことは出来ません」

『リュミエール‼ 私を捨てるのか⁉』

「私を先に捨てたのはお母さま、あなたですよ」


 母親の裂けた口から、息を飲む音がした。リュミエールを締め上げていた腕から、一瞬力が抜ける。


 リュミエールは一瞬の隙を、見逃さなかった。母親の腕の中で思いっきり身体を捻り、勢いよくしゃがむと、母親の拘束から抜け出すことに成功した。


 リュミエールの身体が母親から離れた瞬間、


『あああああああ、りゅみえーるぅぅぅぅ――――っ‼』


 母親が鬼のような形相を浮かべながら、リュミエールに向かって手を伸ばした。母親の身体が、リュミエールという支えを失った今、底が見えない闇へ落ちていっているのだ。


 しかしリュミエールは手を伸ばさなかった。

 代わりに、別れの言葉を贈った。


「――お別れです、お母さま。さようなら」


 母は、亡くなるべくして亡くなったのだ。

 例えリュミエールが叔父に、毒殺されそうになった真実を伝えなくとも、あの母はきっと別の方法で亡くなっていた。


 だからもう、母親を殺した罪人だと思う必要はない。

 レオンが言ってくれたとおり、リュミエールは幼いこの身を、必死に守っただけなのだから。


 落ちていく母親の姿が消えるその瞬間まで、リュミエールは一時も瞳をそらさず見つめていた。全てが見えなくなると、記憶の中にある母の姿に向かって呟いた。


「私はこれから、私を愛し、私が愛する者たちのために生きます。幸せに、なります――」


 そして瞳を閉じ、自分の中に意識を向けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る