現実
―――何時の間に。
気づけば、そこにいた。体に刻まれた刻印が無理矢理体を再生し、生かそうとしている。そのおかげでフェードアウトする筈だった意識はギリギリのところで食らいついている。だけど死んでいない……それだけ。そうとしか言えない状態の体を前に、
天使は俺を守るように断っていた。
「灰色さんを、いじめないで」
「別に虐めてるわけじゃねえぜ?」
拳鬼ははあ、と溜息を吐いて乱れた髪を後ろへと流す。その後でもはやぼろ雑巾という言葉がふさわしい此方の姿を指差す。
「俺は純粋にソイツを尊敬してるんだ。今の世の中、世界を相手にして女を1人守ろうとするなんて中々出来る事じゃねえぞ。その裏に何らかの思惑があったとしても……そいつは俺に、
特級の敵として認定されるというのは、言葉以上の重みがある。
特級とは人類の科学力が、凡人の辿り着く事の出来る最高位の実力者だ。その数も世界全体を見て3桁も存在しないだろう。個人が軍隊に匹敵する力を持ち、単独で大企業との戦争を実行する事の出来る人型兵器。それこそ特級という領域にある存在だろう。
単体である以上、出来る範囲は決まっているだろう。だがそれを抜きにしても戦力として人類最上位にある存在が敵として認定する事は人という身からすれば偉業に等しい事実だ。本気で戦うに値するという認定は、人の中でも抜きんでた何かを持つという証明である。
だがそれは同時に、死刑宣告でもある。
単独で大企業と戦える存在が殺しに来る事実は、確実な破滅を意味する。
「灰色は間違えた。お前を庇うんじゃなくてどっかの企業と組むべきだった。そうすりゃあ多少はどうにかなっただろう。だけどそうしなかった、お前を守る為か、なんかの目的があったのか……どっちにしろ、お前という存在を独占する事は許されなかったんだよ」
だからこうなると言った。だがその言葉に天使はうううん、と頭を横に振った。
「それは屁理屈。悪いのは貴方たち。酷い事する人たちが悪いに決まってる。灰色さんは何も悪くない」
「違うな、弱い事が悪いんだ。賢くないのが悪いんだ」
「違う。本当に罪深いのは自覚していて変わろうとしない者。貴方たちは悪である事を自覚しているのにそうである事を肯定している……悪いのは、貴方たち」
普段らしからぬ言動とその鋭さに、言葉が出せないにも驚いていると、拳鬼の目がしっかりと天使の存在を捉え、静かに拳を構えた。
「お前……なんだ……? 中身、どうなってるんだ、お前は―――」
「―――」
沈黙。住宅街から離れて駅前の繁華街、普段なら人がたくさんいるであろうこの場には今は俺達3人の姿しかなかった。全員逃げたか、或いは隠れてこの状況を伺っているのか。出来る事なら今天使がどんな表情を浮かべているのかを教えて欲しかった。
だがそんな俺の意志を無視して、拳を構える相手の姿に力が入る。
「何にせよ、簡単に壊れない事が解ってるなら取るべき行動は1つだけだ。お前が何をし、どう学習し、どう強くなろうが俺には興味はない。だが1撃、それで全て終わらせれば後は関係がない。それでこの仕事は終わる」
拳鬼に力が籠るのと同時に体が薄いオーラを纏い出す。それが何らかのエネルギーである事は読めるが、どの系統の技術であるかは理解出来ない。或いは特級の特権としてどこぞの企業から手に入れた専用の力なのかもしれない。
それに対応するように天使がこの1分、1秒の全てを吸収して成長する。広げていた腕を下ろすと四肢で獣のように構えると、背部から生えている翼を現実化させる。それまで虚数の存在だといえていた翼が実体を与えられて羽ばたき、空間に揺らめきが生まれる。
本能で、或いは直感的に自分の力への理解を深める。アクセスする。可能性を拡大する。人外の理解能力、圧倒的人とステージの異なる能力、ありえない程の適応力。一瞬経過するだけで戦闘という概念に適した存在へと天使が昇華されて行く。
「―――だめ」
それを喉だけ再生を完了させた俺が、止める。天使の、そして拳鬼の動きが止まる。
「それ、は、よくない」
天使が振り向かず、拳鬼の視線が此方へと向けられる。両腕両足よりも喉を優先して再生した為、体が動かないが、声はギリギリで出る。
「きみは、そんな事に、囚われるべきじゃない」
ダンジョンの中で現れた天使。宝箱から出てきた存在。人を超えたスペック。圧倒的なまでの学習能力。これだけで彼女がどういう存在なのかは大まかに推察できる。
きっと、彼女は戦う為に生まれてきたのだろう。
その力は、そして秘められたものは、圧倒的だ。今の勢力を上書き出来る程に神秘で満ちている。
「生まれは選べない、けど、何に、なるかは、選べる」
己の生まれた理由がどうしようもないカスみたいな母親のエゴイズムが原因だったとしても、自分がどうなろうとするかは自分次第だ。宝箱から与えられた天使はきっと、このダンジョンの謎を攻略する為の鍵とはなるだろう。
だが、
「そうなる必要は、ない。君は、君のままでいい」
そんな怖い姿をしているよりも、何時も通りの能天気な姿の方が俺は好きだ。最後まで出ない言葉を意思に込めると、ゆっくりと天使の羽が現実からその実体を消し去って行き、再び観測の出来ない光へと変わって行く。
抑え込めた、その事実にほっと息を吐く。
あのまま彼女に戦う事を許していたら、もう二度と元には戻れない……そんな気がしていた。それだけに彼女を言葉だけで止める事が出来てほっとする。
だがその一瞬を突いて拳鬼の手刀が天使を叩いた。
「あっ……」
「ふぅ、なんとか無力化出来たか」
軽く首筋に一撃叩き込んで意識を落とされた天使が倒れる前に片腕でその姿を掴み、拳鬼が天使の姿を近くの瓦礫の上へと下ろす。そのまま此方へとやってくると、見下ろしてくる。
「やるなぁ、色男」
「どうも」
見下ろしてくる拳鬼はどことなく楽しそうだが、同時に残念そうな表情も浮かべている。恐らく止めろと言った所で無駄だろうから、ここからはもう足掻く事もせずに見上げている。
「ここでお前を殺す事を本当に惜しく思ってるけど……まあ、仕事だからな」
「お互い辛いね」
「お前程じゃねえとも」
そう言って互いに視線を見合わせて軽く笑う。
お互いに恨みの様なものは存在しなかった。怒りはないし、悲しみもない。この世界ではよくあr事の1つだ、悲劇なんて。企業の横暴に踏み潰される命なんて腐る程ある。俺もその一つに今、追加されそうだというだけで。
そして恐らくこの男も、そうやって命を潰すのも初めてではないのだろう。
「言い残すことはあるか?」
男の問いに、笑みを浮かべて答える。
「頭、潰すならしっかりと潰せよ。起きたら今度はJPアプリケーション潰してでも取り返しに行くからな」
「解った、心臓貰ってくな」
「ごあっ」
言葉と共に手刀が胸に突き刺さった。体の内側をまさぐるように動き、胸の奥、人が欠かしてはならないものを掴むと、激痛を響かせながらそれを引きずり出した。グロテスクとさえ表現できるそれを胸から引きずり出すと、目の前で握りつぶして手を振った。
「じゃあな、灰色の嵐。会い方が違えば楽しく遊べたんだろうがな……」
残念そうに呟くと気絶した天使を拾い上げ、歩き出す。その姿へと向かって声を放つ事も、追いかける事も出来ずに、ゆっくりと黒く染まって行く視界の中、視線を天使へと向けて合わせる。俺の彼女に対するこの感情は何なんだろう。
どうして彼女をこんなにも気に掛けるのだろうか。
どうしてこんなにも彼女を―――。
徐々に、徐々に死の淵へと意識が滑り落ちて行き。
やがて、全てが黒く染まった。
「うおっ―――マジで死んでる。写真撮ろ」
駅前の繁華街、時間を考えれば人で溢れている場所は少し前まで、人の気配が欠片もなかった筈だった。
上級相当と特級の殺し合いなんて特大イベント、頭探索者でもなければ現場から逃げるのは当然の事だろう。繁華街にまで戦闘が及んだ瞬間、賢い住人たちは逃げ出した。そして戦闘が終わった今、その現場を野次る為だけに戻って来た。
「ぼっろぼろだな……」
「あんだけカッコいい事言って負けてるんだからやっぱ企業に逆らうべきじゃないんだよ」
「馬鹿だよなあ、さっさと渡せばよかったのに」
「独り占めしたかったんだろ。あんなに可愛いんだし家で好き勝手してたんだろうよ」
「あーあ、勿体ね」
「馬鹿な奴」
「よっわ」
好き勝手な言葉が零れ落ち、洪水の様に溢れかえる。当然、実力の差というものは見れば解る。だが死体に残るものなんてなにもない。死体は言葉を返さない。だから好きかって言える。超ぢょいサンドバッグだと言わんばかりに鬱憤が晴らされる。
戻ってきた人たちは遠巻きに眺め、口々に愚かしさを語るが絶対に近づく事はない。死しても今にも起き上がって殺しに来そうな気迫がその姿にはあった。四肢は使い物にならず、胸には心臓を引き抜いた穴が、顔は半分焼け爛れている。
それでもなお、近づく事が出来ない程に強者を思わせる圧がその姿にはあった。
「……早く死体処理してくれないかなあ」
「なあ、ここら辺の修復誰がやるんだ?」
「国か企業じゃね? さっさと直して欲しいよな。メーワクなんだよな、暴れられると」
好き勝手語る者共の中から、一人の少女が前に出てくる。車やバスの残骸が転がるクレーターの中心部、死体へと近寄って行く。
「おい、アンタ危ないぞ」
誰かが声をかけるが、それを無視して少女は近づく。そして地面に横たわるぼろきれの様な姿を見下ろすと、小さく言葉を零す。
「―――灰谷さんみたいに強い人でも、企業に逆らうとこうなるんだ」
諦め、絶望の様な色を濃く感じさせる声は希望を失っている様にさえ感じられる。クラスメイトの死体を前に呆然とした声を零した少女は―――東条サキは諦めの籠った溜息を吐いた。自分の未来を想像し、これからどうするべきなのかを考えて。
ここには何も残らなかった。そう思って去ろうとした瞬間、
『Could you help me?』
ホロウィンドウが、浮かび上がった。
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