第4話 土砂崩れ
靴下から上がってくる冷たさを堪え、豪雨の中をむちゃくちゃに走った。あの家から離れるために、そして何かを振り払うように。
こんな日に狭い裏路地を出歩く物好きは中々いない。だが誰もいないのは分かっていても、背後から掴み掛かられるのではないかと怖くて仕方がなかった。
家からはかなり離れたと思う。足を止め、息を切らしながら建物と建物の間にある細い路へと移動する。両側の建物に覆われるようになっていて雨は落ちてこない。好都合だ。
野良猫が一匹地面に伏せて寝ていた。雨宿りをしているのだろう、襲い掛かってくる様子はない。こちらが地面に座ると、しばらくは警戒するようにジッと見つめてきたが、やがて飽きたのか大あくびをして丸まった。
両腕で身体を抱え、冷静になると共に感覚が帰ってくる。雨の音がさっきまでよりも大きく感じ、ずぶ濡れになった制服が肌に張り付き、急に冷たくなりはじめた。雨の冷たい雫が額からつたい、涎のように私の口元を這う。
「……ぐっ」
生ぬるい液体が食道を流れ、喉を焼きながら口に戻ってくる。次いで酸味が広がり、側溝に向かって咳き込んだ。
粘性の強い何かが少しだけ出たが、すぐに側溝を流れる雨水でどこかへ行ってしまう。口を拭くものもない。ずぶぬれになった制服で口元を拭いた。もう汚しても同じだろう。
呼吸が落ち着くと、地面に座ったまま塀に背中を預けて上を見上げた。空は見えない。
「外行くなって言われてたのに、来ちゃったなぁ……」
乾いた声で呟く。鷲尾の言葉が今になって思い出された。
遠くで雷の轟音が鳴る。それを合図としたように、隣から小さな鳴き声が聞こえた。
猫だった。誰かに餌付けされたことがあるのかすり寄ってくる。みーと鳴いた。
「ごめんね、何にもあげられないんだよ」
言うと共に涙が出てくる。冷えた雫が雨と混ざって頬を流れ落ちていった。
辰巳はもう、お父さんの車で家に着いただろうか。
鷲尾はどうしているだろう。真面目だから勉強か、それともシャワーでも浴びているか。
「私は濡れネズミ…ネコの隣で、ふふっ」
いっそネズミだったらネコに食べられることができたかもしれない。いや、この子は食べてはくれないか。のろまそうだもんな。そう思うと少し笑えた。
これからどうしようかと思う。今の私に行き場などない。
役場に駆け込む? 交番に駆け込む? それでどうなるというのか。向こうも面倒はごめんだろうし、本気で取り合ってもらえるとは思えない。私が懸命に訴えても母はあの男を守るだろう。そうなれば所詮は子供の証言だ。「まぁとりあえず今日の所は……」と家に戻されてしまう。
かといって行く家もない。知り合いの家に上がり込んだとして何をどう説明するのか。説明せず警察や学校に連絡されれば家に戻される。説明してしまえば、私はもう普通の人間とは見られない。イカれた親の子、変人、異常者。どれにせよまともな生活は送れない。
父の家、祖父母の家、遠すぎる。歩いていける距離ではないし、こんな服装でバスや電車を使えば通報される。タクシーでも同じだろう。
八方ふさがりだ。行く当てなどない。
どんな目に遭っても、今の私が戻れる場所はあの家しかないのだ。
「やっぱり、呪われてんのかな」
辰巳の冗談が脳裏をよぎる。あの時は気味が悪いと笑ったが、こんな状況にあるとそう思わざるを得ない。廃神社に吸い寄せられるように入り、声を聞いて、そして今日は襲われかけた。怖いこと、恐ろしいことが続きすぎだ。
「何が不幸にはせぬ、だよ。嘘つきめ」
神社で聞いた不思議な声を思い出し、吐き捨てるように言う。
あの声は確かにそう言っていた。
何が不幸にはしないだ。不幸なことしか起きていないじゃないか。
あそこに行ったら駄目だとは思う。けれどもう行く場所がない。黙って家に帰り慰み物になるくらいなら、神社の不思議な声に身を委ねるのもいいかもしれない。
例え殺されたとしても、自殺よりはましなはず。
「もういいや、どうなったって」
この感情は破滅願望なのだろうか。少し感情が楽になった。
辛くも持ち出した財布を取り出す。
「お父さん…ごめん、私死ぬかもしれない」
渡されたキャッシュカードを取り出して呟き、そして元に戻した。
とにかく誰かに見られても怪しまれない格好にならなければ。傘なし靴なしずぶ濡れ制服は流石にどう見てもおかしい。けれど大雨でお店は閉まっているはずだ。
どうしようかと立ち上がる。歩きはじめると猫がついてきた。何も持ってないのに。
通りまで進むとゴミ捨て場があった。一番外側にある半透明のゴミ袋を見ると、サイズが入らなくなって捨てられたのかスポーツシューズが目に入る。さらに誰かがポイ捨てしたのか、袋にすら入れられていない雨合羽がそのまま傍に捨てられていた。
周りを警戒して誰もいないことを確認すると、私はゴミ袋を鷲掴みにして思い切り引っ張った。袋が伸びて裂ける。強烈な臭いを堪え、なんとかシューズを取り出した。側面がわずかに破れているが、これくらいなら問題ない。
傍に捨てられている雨合羽をひったくると、私は元の裏路地に逃げ込んだ。そこで気が付いたが合羽は少し破れていた。だから捨てられたのだろう。
とはいえ今の私に雨をしのぐ機能はいらない。ぱっと見で不自然でなければいいのだ。
シューズを履き、雨合羽を被った。
ゴミ漁り。これじゃ濡れネズミならぬドブネズミだなと自分で思った。
・・・・・
あの神社にはすぐについた。ただあの日と違うのは、近くに一台のパトカーが停まっていたことだ。石段の前には色付きのテープが張られ、黄色い雨合羽を着た人が通せんぼするように立っている。警官だった。
「あの…神社に行きたいんですけど……」
「え? ああ今は入れないよ、危ないから」
若い警官は交通誘導に使うような赤く光る棒を肩に置くと、親指だけを立てた手で背後の黄色いテープを指した。
「何かあったんですか?」
「土砂崩れで裏の山が崩れてね。社が潰された。まぁ無人だから被害はなかったけどね、二次災害起きるかもしれないから今は立ち入り禁止」
事情を話すと、彼は私を誘導するように棒を振り始めた。
「こんな天気だし出歩くと危ないよ。早く帰りなさい」
人の良い笑みを向けられ、私はその場で立ち尽くした。目を付けられて「ちょっと交番で話でも」となってしまうのは困る。かといって、この先どうすればいいのか思い浮かばない。
――何故去った
頭の中に直接響くような声。ひときわ大きい雷が突き抜けるように響いた。風が狙いすましたように耳の側を通る。
――朋であったのに
今度は頭の中ではない。耳を過ぎる風の中に聞いた。この声だ、空耳じゃない。
目の前の警官は、突然強風が吹きつけてきたことに驚いたのか、手のひらを風に向け、顔に降りかかる雨飛沫を防ごうとしている。
この人には聞こえていない。いやきっと、私にしか聞こえないのだ。
――我に
聞くと同時に、私の中で何かが湧き出した。
眩暈がするほど一度に、怒りが押し寄せてくる。
「ふざけんな……!」
感情が次第に激してくるのが分かった。はりつめられた糸が、ぶちぶちと音を立てて引きちぎられてゆくようだった。
「何が友だ、全部お前のせいじゃないかっ……!」
お前の声なんか聞いたから、全部おかしくなったんだ。
そう思うにつれて、きっと手も足も出せない存在であろう声の主が、いかにも歯痒いのんきな存在に見えてならなかった。
「君? どうした、大丈夫か?」
警官が困惑した表情でこちらを見つめている。
私はそちらに目を向けず、怒りに身を任せて石段に向かって地面を蹴った。
「えっ? あ、ちょっと! こら!」
脇をすり抜けた私に警官は一瞬硬直したらしいが、すぐに手を伸ばしてくる。
空振り。掴まれることはなかった。振り返ることはしない。雨粒が打ち付ける中、石段を駆けあがる。
「待ちなさい!」
後ろから警官の声が聞こえる。流石は警察とでも言うべきか、すぐさま追いかけてきた。
「うわっ!」
追いつかれまいと足を踏ん張ったその瞬間、背後で短い叫びと共に鈍い音がした。
道が直角に曲がる門のようなブロック塀、そこからちらと下を見る。どうやら警官は足を滑らせ激しく転んだようだ。身体を強く打ち付けたのか、ふらつきながら上がってくる。
私は社に向かって全力で走った。どうしてと聞かれても分からない。ただ、進まなければいけない気がしていた。
雨が激しく地面を打ち付ける中、手を清める所を通り過ぎる。一瞬閃光で視界が閉ざされ、内臓に直接響くような雷轟が鳴った。花火大会のフィナーレのように次々と雷が空を揺らし、周囲の音を私から奪ってゆく。
あと少し。そう思った矢先、私の前方に黄と緑の塊が出現した。
色違いの雨合羽が二つだとすぐに分かった。
社に通じる石段の前に二人の男が立っている。背中を押すように雷が背後で響き、雨が一層激しくなった。
――来い、ここじゃ
雨に混じってはっきりと声が聞こえた。私は足を止めなかった。もう戻れない。戻ったら間違いなく家へ戻ることになる。このまま走って行くしかないと本能が告げていた。
遮二無二に突撃する私に気が付いたのは、緑の雨合羽を着た男だった。彼は目を丸くすると同時に、隣の黄色い雨合羽の男を引っ張ってこちらに向かせる。
隅を突破しようとしたが、黄色い雨合羽の男に腕を掴まれた。力強く引っ張られ、その場で急ブレーキでもかけたかのように私はつんのめった。
「何を考えているんだ! 死にたいのか!」
「離せ!」
睨みつけると、黄色い雨合羽の男はどうやら警官らしかった。合羽に透けて帽子が見える。下にいた警官とは違い年が行っている、40歳くらいだろうか。
渾身の力を込めて腕を引くがびくともしない。冷静に考えれば私の力で振りほどけるはずがないのだが、そんなことを考える余裕は既に無かった。
「駄目駄目、落ち着いて」
緑の雨合羽の男が行く手を阻むように立ち塞がる。年齢は警官と同じくらいだろうが、着ている服が違う。
――そなたはいつも騒がしいのぅ
からかうような声。私の中で何かがぶつんと切れた。
「それなら出てこい! ここに来いよ!」
この声のせいだ、すべてこいつのせいでおかしくなったんだ。
「何が友だ! 何が不幸にはしないだ!」
お前のせいで、もう私には何も残っていないんだ。
一度口から流れ出すと、もう止まらなかった。
「だったら幸せにしてみろ! 今すぐ私を助けてみろ! この嘘つきめ!」
そこからは声の主に対して、思いつく限りの罵倒の言葉を浴びせた。やめろと理性が命令しても止まらない。
言っているうちに次々と罵詈雑言が湧いてきた。何かを言われているのだろうが何もわからない。話を聞くという機能を身体が失ったようだった。
――愛い奴じゃ
その瞬間、私を押さえつけていた力が無くなった。
勢いそのままに前へ転び、身体が地面に叩きつけられる。
鈍痛をこらえて身体を起こす。制服は泥で酷く汚れていた。顔もすりむいたのか痛みが大きくなってくる。頬を歪めながら後ろを振り向いた。
二人の男は並んで倒れていた。
黄と緑の雨合羽は地面に伏し、叩きつけられる雨が大量の音になる。どちらもピクリとも動かない。時間がとまってしまったようだった。
さらに少し向こうには、もうひとつ雨合羽が倒れている。下から私を追いかけて来た若い警官だ。彼も地面に伏し、その場からまったく動かない。
「な、なに…どうしたの……」
倒れている二人は目も口も開いたままで、まるで時が止まったように見える。熱がさっと引いてゆき、代わりに恐怖がせり上がってきた。
倒れている男は目が開いている。警官の方に近付き、口の前にそっと手を近づけた。
「ひっ……!」
息をしていなかった。もうひとりの方も確認したが、結果は同じ。
「噓、これ…死、死んで……」
死んでいる。
現実を拒むように口をつぐんだが、頭ははっきりと事態を理解していた。それ以上彼らを見ることができず、目を瞑って顔を逸らす。冷や汗が湧いてきた。
人の死を目の当たりにするのは初めてで、それだけでも恐ろしかったが、それ以上に、何かに殺されたという事実の方が重かった。荒くなる呼吸を感じながら空を見る。雨はまだ降り続き、遠くで雷が鳴った。このすべては夢ではなく現実なのだと思った。
――何をしておる。早う立たぬか
平坦な声が頭に響く。足がすくみ、身体が震えだす。金縛りにあったように動けない。心臓の鼓動で内臓が口から飛び出しそうだった。
しかし同時に別の私は冷静に考えていた。こんな風にされるのなら楽に死んでしまえると。
――さぁ来い、あと少しじゃ
愉しむような声に引かれるように立ち上がった。まだ殺さないということは、私に何かをさせたいのだろう。
土砂崩れに潰されたという社にむかって一歩踏み出した。
背後では、雨が合羽を叩く音が警告のように鳴り響いていた。
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