僕はさっき一瞥したピアノの事が気にかかっていた。ピアノからは、よく熟れた果実のような感覚がしていた。獅子柚のようにどっしりと…。僕はそんな事を考えていたのです。少し気抜けし、背もたれながら伸びていると、茶色い葉が舞っているのが覗えた。滅多に吹くことの無い風が、窓ガラスをガタリコと揺らす。暫くして、薄暗さの中から、彼女が紅茶を持って戻ってきた。天井に毀れ陽がちらつく。その光は紛れもなく隣室のピアノからであろう。


「お口に合うか分からないけど…。」


「いえいえ、あっ、それでは、いただきます…。」


「そういえば、あなたの名前を訊いていなかったわね…。私はエレノアっていいます…。」


「僕はサルバドールと申します…。」


「あなたは、どの辺りから歩いてきたの?」


「どこ……、ちょうど、草原と砂漠の交わるところからですかね…。」


「意外に近いんだね…。」


「あの、それで、僕はどうすれば…。」


「そうだね…。私の家に来てくれれば、良いよ。お隣さんは、滅多に人を入れないから。もし、またこの世界に来たら、そうしてね。」


「それでは、お言葉に甘えて…。そう言えば、フランス文学がお好きなんですか?」


「フランス文学…?ああ、あの本棚ね。よく読んでいるわよ…。特に、ハンス・カロッサの美しき惑いの年が好きなの…。」


「カロッサって、ドイツでしたよね…。」


「ああ、確かにそうね…。」


「僕も古い泉が好きです。」


「古い泉も美しいよね…。でも、カロッサも不遇よね…。」


「ですね…。」


「あなたは、何を読むの?」


「僕は…、フランス文学ですかね…。」


「そうなんだ…。」


「自慢ではないですけど、プルーストの失われた時を求めてを、4周したことがあるんです…。」


「それは、また凄いことを…。」


「だいたい2年かかりました…。」


「すごいわね…。」


「そのくらいしか、する事がないので…。」


「ふーん…。」


「そんな感じです……。」


「こんな話しをしちゃった後で、申し訳ないけど、思い切ってあなたに話そうと思うの…。少し暗い事かも知れないけど…。そんなに…いや、大したことじゃないって言ったら嘘になるんだよな…。私、前より弱ってきているの…。病気とかじゃ無いんだけど…。偶に意識を失いそうになるの…。それで、あの…、頼みたいことがあるの。もし、私がいなくなっちゃう事があったら、やって欲しい事があるのよ…。その為に、何カ所か訪れて欲しい場所があるの…。もし、よければ、あなたにお願いしたいんです…。いきなり、何なの、と思うかも知れないけど、失礼かも知れないけど、どうかな……。」


「治療はしないのですか?」


「治療は出来ないわ…。これは、運命ですもの…。」


「運命ですか…。」


「うん…。ちょっと来て…。」 


そう言うと、彼女は僕をあのピアノがある部屋へと案内した。


「このピアノ、音が鳴らないの…。」


「音が…?」


すると彼女は、ピアノの蓋を持ち上げた。そこには、ファスナーがあり、彼女はそれを開けた。


「変わったピアノですね…。」と僕は言った。


蓋を完全に開けると、そこには花瓶に生けられた花があった。ピアノの中には弦がなく、木箱のようなものだった。


「弦が無ければ、音は出ませんよ…。」


「前は、ちゃんと弾けたのよ…。元々このピアノに弦は無いわ…。」


花瓶に生けられた花は、妙な枯れ方をしていた。下の方から枯れて来ているのである。赤い花弁に、死神の化身がその蟷螂のように痛々しい、茶色い指で触れようとしている。これが枯れ果てる頃には、私も死ぬのよ、と彼女は言った。そんなことはありませんよ、と僕は言ったが、この怪異の中で、その可能性はゼロでは無かった。暫くの沈黙を経て、彼女はピアノの蓋のファスナーを閉めた。ピアノは、コンサートピアノと大昔のスーツケースピアノを、足して二で割ったような形だ。そうこうしていると、彼女はほぼ等間隔に、咳をしはじめた。彼女の咳は次第に間隔を狭め、むせこんでいった。僕は大丈夫ですか、とだけ幾度か声をかけながら、彼女の背中をさすった。一分ほど続き、ようやく咳はおさまった。彼女は横になりたいと言った。僕は彼女と階段を登り、彼女が指差すドアの前で立ち止まった。 彼女は、もう大丈夫です。ありがとう。そう言い、僕は彼女が部屋に入るのを見届けた。

階段を降りる僕の心は、心配であふれていた。降りる度に、踏みしめる、一段一段の物質感が増幅し、鼓動は鋭角的に鳴っていた。もう一度、彼女と話していた、右側の部屋に這入るときも、その感じは冷めなかった。 僕は元の椅子に座り、残った紅茶を飲み干し、キッチンに行き、ティーカップを洗った。 薄暗さの中に身を置いてみると、差し込む光が、やさしさで充満しており、これほど次元相応なのかと、ふと驚いた。外の空気を吸いに、僕は扉を開けた。来たときとは違い、何処か寂しい雰囲気がした。僕は入口脇に置いてあるベンチに腰をかけた。

深呼吸をし、当たりを見ていると、老人の家の樹が歳をとっている。葉は緑を失い、何枚かが地面に落ち始めていた。僕の足下にも、枯れ葉がたどり着いていた。僕は葉を拾い、その脆さを確かめようと、殆ど無意識的に淵を親指と人差し指でなぞった。親指よりも人差し指の腹が痛くなった。


 「痛い痛い痛い…。」

老人は椅子から立ち上がり、外を見た。

「また年老いて行くのか…。」

老人の庭に植えてある樹が歳をとる速度の速さを物語っていた。

「あの人は…。」

老人はエレノアの家の前にいる、サルバドールに気が付いた。声をかけようと思ったが、彼は少しの躊躇いの後で、試みることはしなかった。老人は時計を直していた。しかし、時計を直したところで、殆ど無意味に近いことだった。彼を取り囲む空間は、時間発展が早いのである。幾ら針を弄ろうとも、その速度は変えられない。ただ、朽ちて行くものに憤りながら、生きるしかなかったのである。老人はまた椅子に腰をかけ、今度はラジオをつけることにした。流れてくるものと言えば決まって、ノイズだけであった。その支配欲に飢えた雑音は、いずれ老人の聴覚を冒し、その緩急が途方もない混沌の渦巻きへと彼を誘うのだ。一度組み立てたはずの時計。老人は見た。終わることなくビックリ箱が働くのを。老人は先ず、皺を憎んだ。何て邪魔なものなんだと。しかし、皺なんてものに抗おうとも、物足りる筈はない。次へ次々と憎悪の念を移動させる。念の憑依した物は悉く、彼の腕の中で、その形をせしめられる。空っぽになった物は、もとの場所に戻され、経年の蓄積を待つのだ。






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