接吻

カイエ

第1話

 学校から帰るやいなや、僕は母様に今日学校で聞いた事を大急ぎで話した。


「夜店が来るんです、母様」


 うまく話そうとすればするほど僕の口はカラカラと空回りして、伝えたいことはきちんと伝わらない。


「おやまあ、夜店。今年はもうないかと思っていたのにねえ」


 母様が硝子のコップにお茶を入れてくれて、僕は「ありがとう」と言ってそれを受け取る。


「ううん、ここに来るのではなくて、となり町に来るのだって」

「それは早耳だねえ」

「それでね母様、もうずっと夜店なんかなかったから、今年はずいぶんと沢山の人たちが来るよ」


 僕はお茶を飲もうともせず、とにかく早く伝えたいことを全部お話したいと思って慌てていた。


 要するに僕はお小遣いをもらって夜店に出かけたいのだ。

 父様も母様もこのところずいぶんと忙しいから、きっと一緒には行けない。

 それに父様ときたら夜店に行くと必ずお酒を呑んで、勝手に僕を引きずりまわすものだから、僕はいつも自分が見たいものや欲しいものは手にできないことになっていた。


 学校で夜店の話が出たときに、皆が話しているのを聞いてみると、どうやら何処の家でも同じような話で、だから僕達はきっと僕達だけで夜店を歩けば楽しいだろうなと話し合った。


「まあいいから、喉が渇いたろう? 話すのは後にして、とにかくその手にもったお茶を飲みなさい」


 母様は優しく笑ってそう仰った。


 そこで初めて僕は自分の喉が本当に砂のように乾いていることに気付いて驚き、慌ててお茶を飲み干した


「それでね、母様」


 僕は砂に水が沁みてゆくのを感じながら、夢中で話した。


「僕、夜店に行きたいんです」

「父様に訊いてみようね」

「いや、そうではないんです。友達も皆、子供だけで集まって夜店に行こうと話してたんです」


 やっと本題に入ると、僕はほっとして、空回る口に歯車が噛むのがわかった。


「夜店に子供だけでねぇ。でもお前、夜店には良くない店も沢山あるから、子供だけで行くというのはあまり感心しないねぇ」


 母様はそう言いながら、すぐ横に置いてあったお道具を取り出して、なにやら縫い物を始めた。


「でも、みんな一緒なんです。僕だけならそれは心配でしょうけど、きっと皆と一緒なら楽しいと思うんです」

「そうだろうねえ」


 母様は糸を舐めながらぼんやりと応えた。




 少し前までは不景気で、誰もが働くことに夢中だったけれど、景気が戻り始めると今度は、皆遊ぶことに忙しくなりつつあった。

 ずいぶん長い間夜店など無かったのだが、やっと今年から町の神社の側に、出店が出ることになった。


 僕には、実はちゃんと夜店に行った記憶があまり無かった。

 ただ覚えているのは色とりどりの菓子や玩具や面、射的や輪投げの中、父様に連れられて仕方なく面白くも無いお芝居などを見せられていた記憶だけ。

 何しろ夜店に行くと、僕なんかよりも父様はずっとはしゃいでしまい、団栗飴(どんぐりあめ)をいくつか僕に買い与えると、自分が見たいもののところへ僕をつれて回し、そうするうちに何時の間にやら出来上がって、最後にはお芝居やら囲碁などに付き合わされてしまう。


 本当は沢山ある玩具を、射的で上手に打ち落として、友達に自慢するくらいの自身はあったのだから、僕の悔しさといったら、いっそ父様の財布からお金をちょろまかして逃げ出してやろうか、とまで考えるほどだった。

 もちろんそんなことをすれば、すぐにいつもの恐ろしい父様に戻って、尻が裂けるまで叩かれるのは間違いないけれど。


 そんなだから、友達だけで夜店に行こう、と言う話が出たときには、もうそれだけで心が躍ってしまい、他のことは何も考えられなくなってしまった。


「ね、いいでしょう」


 僕は母様に必死になってせがんだが、母様は笑うばかりだった。

 そのうちに僕の根気に負けたのか、


「それでは、父様が由と仰ったらね。母様からお願いしてみますから」


 そう約束してくれた。




 父様は、夕時前にはお帰りになる。

 滅多に遅くなることはなくて、夏であればかならず明るいうちにはお帰りになるので、日暮れまでに集合の約束には間に合いそうだ。

 僕はもう嬉しくて、お小遣いを貰ったら何を買おう、面だけは外せないなどと色々考えていた。


(きっと、僕の射的を見たら皆はあっと言うぞ)


 そんなことを想像しては、くすくすと笑った。

 本当は射的など一度だってしたことは無かったのだけど、父様がお手製で作ってくれた輪ゴム鉄砲なら、チェリー(煙草)の箱を打ち落とすのが上手だと何度も褒められたので、僕は自信満々だった。


「そら、ラムネをお上がり」


 母様がセロハンに包んだ菓子を持ってきてくれる。


「ありがとうございます。でも母様、今食べたら夜店に行ったときにきっとお腹が一杯になってしまいます」


 僕がそういってそれを断ると、母様は


「でもお前、父様が由(よし)と仰ったらという約束だよ」


 そう言って菓子を薦めてくる。

 でも僕はもう絶対に夜店に行くのだと決めていたのだから、そんなことは不安だとも思わなかった。


「父様は絶対、由と言うに決まってます」


 僕が言うと、母様は困ったように笑って、しかし菓子は引っ込めてしまった。




 しまいに、父様がお帰りになる。

 玄関ががらりと音を立てて、


「帰ったぞ」


 と、父様の声が聞こえる。

 どうやらご機嫌らしく、いくらか声が明るいように思った。


「父様だ!」


 僕は玄関に走って、父様に挨拶する。


「お帰りなさい、父様!」

「お帰りなさいませ」


 すぐに母様もやってきて、指を揃えて出迎えた。


「うん、ほら、そこの角で山脇君に会ってな、味醂干を貰った」


 父様はそう言って、紙包みを母様に渡した。


「あらまあ、こんなに沢山」

「確か彼の田舎は高岡(富山)だったろう。ずいぶん良いものらしいよ、きちんとお礼を言っておくようにね」


 父様と母様は、そんな話ばかりで、少しも夜店の話など出てこない。

 僕はもうやきもきしてしまって、注目してもらおうとぴょんぴょんと跳ねた。


「誠一(せいいち)、おまえ、今日夜店が出てるのを知っているか」


 と、父様はいきなりそう仰った。


「ええ、ええ! 僕よく知ってる。だって、今日は学校の皆で、夜店に行こうと決めてきたんだ。ねえ母様」


 僕は嬉しくなってそうまくし立てた。


「学校の皆で? 子供だけでか」


 父様は驚いたようにそう聞き返した。


「うん。もちろん僕だけじゃないよ、上野の和ちゃんも、豆腐屋の次郎ちゃんも、皆んなで行くって話してるよ」

「そうなのか?」


 父様は上着を脱いで、母様が差し出した手ぬぐいで首の周りを拭きながら母様に言った。


「そうらしいですよ。でも、子供だけで行くとなると、夜店もずいぶん危ないかもしれませんからね」


 母様がそんなふうに言うものだから、僕は慌てた。


「危なくなんかあるもんか。みんな一緒なのに、何かあるわけないでしょう」


 母様の嘘つき。


「ねえあなた、どうなさいますか」

「ふむ、夜店なあ。そう言えば初(はつ:母の名前)、こんな話を知っているか」

「なんですの?」


 父様は居間に向かいながら、話し始めた。


「俺は、実は二十三まで女のことは何一つ知らなかったのだ」

「あら、まあ」


 母様はぽっと赤くなった。


「そしてな、お前と結婚することになって、慌てたものだ。何も知らないでは男が立たん。かといって遊女と遊ぶほどの金もないものだから、夜店に出向いたときに、悪友に金を恵んでもらって踊りを見に行って勉強したのだ」

「そんなことを!」


 真っ赤になって母様が怒った。


「そんなこと、子供の前でする話ではないでしょう! それに、だから誠一さんが一人で夜店に行くとなると心配なのです」

「一人じゃないよ、皆と一緒だよ」


 形勢が不利になってきたらしく見えたので、僕は慌てて言葉をはさむ。

 ――ひどい、母様。父様にお願いしてくれるって仰ったのに、約束を破って、しかも邪魔をするなんて。


「勘違いするな初。つまり俺が言いたいのは、こんな子供はそういった店では相手にもされないということだ。第一裸踊りを見るのはとても銭がかかるのだぞ。子供の駄賃程度で何ができるわけでもない」

「それにしたって、もう少しましな例えがあるでしょうに!」


 母様はまだ怒っている。


「まあそう言うな。それに、久々の夜店じゃないか。行かせてやればいい」

「あたし、もう知りません。好きになさったらよろしいでしょう」


 母様は怒ったまま台所へ行ってしまった。

 父様は平然と自分の座椅子に座った。


「そういうわけだ、誠一。構わないから行っておいで」


 父様はそういって、歯を見せて笑った。


「ありがとうございます」


 僕は嬉しくて飛び上がった。


 夜店だ!


「ただし誠一。悪い遊びをするんじゃないぞ。小遣いはやるが、飲み食いや玩具を買うならまあいい、しかし賭け事はいかん。何も買えずに帰ってくるのが落ちだ」

「大丈夫です父様。僕、射的の腕には自信があるんです」

「射的って言ったって、おまえ、やったことがあるのか」

「ないですけど、きっと僕、上手です」


 言うと父様は笑って


「それなら好きにすればいいさ。ただな、まぁおまえの小遣い程度で何ができるわけでもないが、女の絵がある界隈には近づくんじゃないぞ。特に紅白の垂れ幕があったなら、気をつけろ。そこには子供には毒になるものが沢山あって、きっとお前が後悔するから」

「紅白ですね、わかりました」

「それと、眉を剃った女が声をかけてきたら、一目散に逃げろ」(※この時代、流れの遊女は、真っ白のおしろいをして、眉を剃っていた)

「眉を?」


 ここで奥から声がした。


『何を教えていらっしゃるの、あなた!』


 父様は首をすくめた後、大きな声で言った。


「いやさ、もしもということもあるからな」


 すぐに母様がやってきて言った。


「いいかげんにしてくださいな。誠一さんがもし悪い遊びを覚えたらどうするんです?」

「俺の子だ。大丈夫に決まっている」

「またそんなことを」

「しかし誠一、隣町の夜店のことなど、よく知っていたな」


 父様があからさまに話を逸らす。


「ええ、何故って行商の娘が明日から二日だけ学校に来るんだって、先生が仰ったからなんです」

「ほほう、テキ屋の娘か。そりゃおまえ、夜店なんかよりもずっと危ないぞ」

「え?」

「あなた!」


 母様が本当に怒った。


「いいか誠一、その娘には近づくんじゃないぞ。男は身持ちが固いと安っぽく見られるが、あまり色気○いだと、もっとみっともない」

「もう、いいかげんにしてください!」


 母様がそう怒鳴ると、父様は大声で笑った。


「お前は神経質だな。誠一はもう十一だ。男ならこの年になれば充分女には興味があるもんだ。俺が教えずに誰が教える。おまえか?」(※数え年なので、十一は今で言う十歳)


 母様は何も言えずに顔を真っ赤にして怒っていた。


「そら、小遣いだ。約束を破るんじゃないぞ」


 父様はそう言って袂から財布を取り出し、僕にお小遣いをくれた。

「ありがとうございます」


 僕はよく御礼を言って、それを受け取ると、父様と母様に挨拶した。


「では、僕行ってきます。きっと約束は守りますから安心して待っていて下さい」

「ああ、行って来なさい」


 父様が歯を見せて笑う。

 母様も拗ねたような顔のまま、少し笑って


「楽しんでいらっしゃいね、誠一さん」


 と言って僕を送り出してくれた。

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