第28話 本意
ノゾミが出て行くと、雅司は大きなため息をついた。
「ため息をつくと、幸せがひとつ逃げていくんですよ」
帰り支度を済ませたカノンが、そう言って微笑んだ。
「そういうのは、幸せ残高のあるやつに言ってやれ。全く……折角遊園地で遊んで、いい気分だったのに。天使どころか、とんだ疫病神だよ、お前は」
「ふふっ、ごめんなさい。でもあなた自身、こうなることを望んでたのではないですか」
「どういうことだ?」
「人と人の関係には二種類あります。私はあなたの敵ではありません、そう自身を繕い、表面的に良好な振りをすること。そしてもう一つは、全てをさらけ出して、傷つけ、ぶつかり合いながら絆を深めていく。ノゾミさんとの契約、後者が必然だと思いますが」
「確かにそうなんだが、それにしてもやりすぎだろう。あんなノゾミ、見たことがないぞ」
「だからこそ、絆が深まるのです。飾ることなく、本当の自分を見せる。それこそがあなたの契約、そのものではないのですか」
「本当にあんた、嫌いだよ」
「それで、どうされます? ノゾミさんは出て行きましたが、話の続き、致しましょうか」
「いや、それはいい」
「本当にいいのですか? どうして彼女が、あそこまで動揺したのか。そして彼女が今、あなたにどういう感情を持っているのか。知りたいとは思いませんか」
「ああ、思わない。それもさっき言った、空気を読めてない発言だ」
「空気を読む、ですか……ふふっ、人間の語彙って、面白いですね」
「それはあんたじゃなく、ノゾミが話すべきことなんだ。そしてノゾミが拒むなら、無理に聞こうとも思わない」
「どこまでも相手を尊重し、対等であろうとする。本当、あなたは面白い」
「褒めてるようには聞こえないな」
「これでも精一杯の賛辞なんですが。あなたは色々と屈折してますね。だからこそ、悪魔と契約したのかもしれませんが」
「だがまあ……あんたも話す気はないみたいだしな。少しほっとしたよ」
「どういう意味ですか? 望まれるなら、私は構わないのですよ」
「だってあんた、帰る気満々じゃないか。話の続きをするようには見えないぞ」
「確かにそうですね。ばれてましたか、ふふっ」
玄関で靴を履いたカノンが、ゆっくりと振り返る。その目に雅司は息を飲んだ。
先程までの、全てを理解しているという、
憂いを帯びた大きな瞳。それは、どうしようもなく人間味を感じさせる眼差しだった。
「ノゾミさんは今、近くの公園にいます。彼女は悪魔ですし、人に危害をくわえられる存在ではありません。ですが……心は違います。彼女の心は今、大きく揺れています」
「あんたのせいだけどな」
「それは否定しません。ですが雅司さん、出来るだけ早く、彼女の元へ行ってあげてください。そして寄り添い、支えてほしいのです」
「支えるって、相手は悪魔だぞ? 人間の俺に、そんな芸当が出来るのか」
「お願いします、雅司さん」
そう言って、カノンはそっと雅司を抱き締めた。
突然の行為に驚いた雅司だったが、やがて微笑むと、カノンの頭を優しく撫でた。
「散々引っ搔き回したやつのセリフとも思えないけどな。分かったよ」
「あ、その……本当、あなたって、想定外のことを当たり前のようにするんですね」
頭を撫でられたカノンが、そう言って頬を染めてうつむいた。
「彼女をお願いします。そして……共に考え、決断してください」
「きついことを言って悪かったな。向こうの世界で会うことがあっても、あんまりいじめないでくれよ」
「ふふっ、では」
最後に慈愛に満ちた眼差しを向け、カノンは出て行った。
「さて……メイは大丈夫なのか?」
大きく伸びをしながら、後ろに立っているメイに声をかける。
「ああ、大丈夫だ」
「本当か? 無理してるように見えるが」
「全くお前は……どんな時でもそうやって、他人が気になるのだな」
「性分なんでな、中々直せるものじゃない。それにお前は他人じゃないよ」
その言葉に頬を染める。
「私より雅司、お前こそ大丈夫なのか」
「ああ、問題ない」
「そうは見えないが」
「そうか? 実害はなかったろう」
「ノゾミへの想い、言われたくなかったのではないか」
「ああ、それな……まあ、出来ることなら伏せて欲しかったけどな。でもまあ、知られたもんは仕方ない。受け入れるよ」
「お前と言うやつは……ふふっ」
「お前たちにとって、天使は厄介な存在なのか」
「見た通りだ。我々の関係は」
「主と従の関係、それだけには見えなかったけどな。ある意味、旧知の間柄みたいに感じたぞ」
「よく分かったな。私たちは、いわゆる幼馴染だ」
「やっぱりか」
「ノゾミは少し後になるがな」
「そうなのか」
「私たちは、それぞれの立場を超えて関係を築いてきた。友人と言っていいのかもしれない。だがそれでも、今回の様に仕事となると、それだけでは済まなくなってしまうのだ。ああいう言い方になってしまったのも、決して私たちを
「ああ、分かってる」
「今お前が見たもの。あれは理屈ではなく、それぞれの本能が勝ってしまった結果なのだ」
「仕事とプライベートは別、というやつだな」
「カノン自身、それを嫌ってるところもある。だが、これだけは
「だが、今回は出て来た」
「やつにもやつなりの考えがあったのだろう。色々納得がいかないこともあると思う。だが、出来れば分かってやって欲しい。やつも、そして私も……ノゾミのことが大切なのだ」
「分かってるよ」
そう言って、メイの頭を撫でる。
「ちょっと出かけて来る。一人で大丈夫か」
「ああ、問題ない。ノゾミのこと、頼むぞ」
扉が閉まると、メイはその場に腰砕けになった。
天使と相対した緊張感。そして彼女の思惑、ノゾミの動揺。
全てが両の肩に
――そして、自分が部外者だという現実。
雅司はノゾミを愛している。ノゾミもまた、確実に心が揺れている。
それを見守り、背中を押そうとしているカノン。
そんな空気の中、自分だけが取り残されている、そう思った。
雅司を愛している。誰よりも大切な存在だと言い切れる。
しかし、その想いが報われることはない。
それが哀しくて。気が付けば瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
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