挑戦

 一瞬の沈黙が流れた。

 そしてその場にいる全員が破顔した。

「学校に行きたい」という希望に対してではない。下女ごときが主を呼び捨てにしたことに対する失笑だった。庭師のシゴルヒも下を向いて肩を震わせていた。


 この先の展開は誰にでも予想できる。

 そしてその通りになった。


「いま、なんと言ったのかね? うん、私も耳が悪くなったのかな、『ヒンドリー』と聞こえたのだが」

「ああ、そのままだ。別にあんたの耳は悪くなっちゃいない。いたって正常、健康そのものさ。その真っ黒な精神を除けば……だがね」


 息をのむ音が聞こえる。

 主に対する明白な暴言だったからだ。


無礼ぶれいな! それがご主人であるお兄さまに対する口の利き方なの?」


 まず怒気をあらわにしたのは妹のマリリンだった。鑑賞魚がえさをねだるかのごとく、口をパクパクとさせている。


 実に滑稽な光景だった。それもそのまま口にすると、マリリンは卒倒しそうなほどに顔を上気させる。血管が切れそうだな――誰かがそうつぶやくのが聞こえたような気もした。


 次に怒ったのは弟のアルゴスだった。


「兄貴に対して許さねえ。もう一度言ってみろ。そのツラの形が変わるまで殴ってやるぜ」


 言いながら鉄拳が飛んだ。口より先に手が出るタイプらしい。なので瞬時に防御術式を展開させる。心臓によって生み出された霊素が創り出す、目に見ることのできない鉄壁だ。


 思えば――とルル。この筋肉男にも随分と苦汁をなめさせられた記憶が蘇ってくる。そう、こいつは頭の回転が良くないくせに、底意地の悪さだけは兄妹と共通する才能を持っている。


 食事時などがいい例だった。

 思い出すのは配膳を行ったときのことだ。


「こちらが、今晩のメインディッシュ『白身魚のマリネ』になります」

「はぁ、『』だぁ? ガハハ! おめぇがマリネに『なる』ってのか? ってのか! こいつぁ傑作だぜ。でもな、お前ごときがいっぱしの食いモンになれるわきゃねぇだろうが間抜け。お前と比べりゃあ、卓の上の四次元豚の方が食って栄養になるだけ遥かに価値があるってモンだぜ。おめぇには皿に載る資格もねぇ。ただのカスだ! 分かったら消えな、ウスノロ!」


 過剰ともいえる屁理屈と罵倒の数々……。

 実につまらない、言葉尻をあげつらった嫌がらせだった。

 そういうとき、ルルという少女は全くの無抵抗だった。言われるがままに受け止め、そして過剰に頭を下げて謝罪する。それがこの兄弟の悪癖をさらに増長させていた。イジチュール家における晩餐は、ルルに対する罵倒と侮蔑が最上のスパイスだったのだ。


 そんなことを思い出した。


「…………」


 果たしてアルゴスの鉄拳は防御壁で受け止められる。

 だから何の痛みも衝撃も感じない。そのことは伝わったはずだ。

 なに――とアルゴス。いま目の前にいるルルはどこか雰囲気が異なっている。少なくとも昨晩までの、あの卑屈な目つきをした娘ではない。それは舞踏戦騎を任される戦士としての本能が察知したことだった。


「なんなんだこいつ。いつの間にか浅知恵あさぢえでもつけたってツラしていやがるぜ、ヒンドリーの兄貴」

「知恵をつけるのが必要なのはあんただろう、アルゴス」

 筋肉馬鹿の頭でもわかるように言い含めてやる。

「兄貴……こいつ、っちまってもいいか?」


 いわおのような両肩を震わせるアルゴス。心なしか声も震えている。

 それが怒りによるものか、はたまた別の理由かはわからないが――


「どうでもいいことかな」とルルは吐き捨てた。

「ど、ど、ど、どうでもいいだとう!」


 鼻息も荒くつかみかかろうとする弟を、ヒンドリーが制止する。


「待て、弟よ。私にひとつ面白い考えがある」

「何で止めるんだよ兄貴。俺は、今すぐこのガキをぶち殺してえんだ!」

「面白い考えがあるといっただろう。近々、領内で舞踏戦騎の演舞が予定されていただろう。それにルルと共に出場するというのはどうだね。演舞は領民に対して我が伯爵家の力を示す催事でもある。そしてその場で彼女と決闘するといい。なに、見世物としての決闘だよ? それならば――」


 そう言ってほくそ笑む。


「分かったぜ兄貴! その場でならこいつをぶっ殺しても問題ねえってんだな!」

「言葉が過ぎるぞ弟よ。私はそこまで言ってはいない……が、万一の事故というものは、往々にして起こりうることだからなぁ」

「アルゴスお兄さま、いまはその日が来るのを待ちましょう。ええ、わたくしだって苛立っているけれど、ここで刃傷沙汰を起こすのはヒンドリーお兄さまの名誉のためにもよくないもの。なにより、こいつの血でお屋敷の土がけがれるわ!」


 捨て台詞めいた呪詛を吐きながら、マリリンとアルゴスは去っていく。

 ヒンドリーはさもおかしそうにそれを見送ると、


「まぁ、せいぜいはげむことだ。万が一、アルゴスに勝利するようなことでもあれば、学校へ通いたいという貴様の望み……叶えてやってもいいがな」


 そう言い残し、屋敷内へと姿を消す。使用人たちも無言でそれに倣った。残されたのはルルと、庭仕事を仰せつかっているシゴルヒだけだった。

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