たのしむ

 ずっと、「うまく」書こうと考えていた。すごいと称賛されたくて、難しい言葉を無理やり使ったり、文学と呼ばれる小説を読んで表現を真似してみたり。しかし結局そんなふうにして書いた小説は落ち続けた。自分ではないだれかの小説に本当のことを書けという選評がつくたびに、身体のどこかが折れていく気がした。

 切実に、突き詰めて、真剣に、奥深くまで、本当のことを。小説に必要なものはなんだろう。わたしの中身がなんにもなくても書いていいのか? わたしは自分の生活をいまよりましにしたい。小説を書くのに必要なものなんてわからない。ただ書き続けることに必要なものがある。だれかの言葉。


 藤崎五月はやはり今日もスーパーの外で雪平秋人を待っていた。うっとりと、健気に。わたしに気がつくと、ふわりと笑う。恋人と待ち合わせをしているみたいだと思った。

「こんばんは」

 彼女から声をかけてくれる。わたしは背徳感にぞくりと身をふるわせた。先ほどわたしは雪平秋人と話してきた。ちかちかと明滅する街灯に、蛾が数匹集まっていた。

「小説、書けました?」

「いや、まだぜんぜんだよ。本当に最初の部分だけ」

「なんだ、早く読みたいのに」

 無邪気にたずねてくる様子から、自分が幸福な人間として登場すると思っていることがうかがえた。

「それにしても、小説を書いちゃうなんてすごいですねえ。私は大学のレポートすら手こずってます。気になったんですけど、何文字くらい書いたら小説になりますか?」

 すごいですねえ。わたしが欲しくて欲しくてたまらない言葉を、いとも簡単に言う。けれどこの「すごい」は、ただの言葉だ。わたしが欲しいのは、その「すごい」ではない。「すごい」に見合う小説を書けたときにまたその言葉を聞きたい。

「短いものもたくさんあるけど、長編なら原稿用紙で三百枚くらい……文字数だと、十万字もあれば十分作品として成り立つんじゃないかな」

「十万ですか」

 藤崎五月がはあ、と感心するようなため息をつく。頭上で、じ、じ、じ、と街灯にたかる蛾の羽音がした。蒸し暑さが首筋にまとわりついて、夏の夜はいつも息苦しい。

「なんか、不思議ですね」

 街灯に照らされた藤崎五月の首も汗ばんでいた。彼女は鬱陶しそうに髪を耳にかけた。

「不思議?」

「だって、五十個しかない文字から十万字の小説をつくれるなんて、不思議。ほら、こうやってしゃべっている言葉のひとつひとつも、全部五十音からできてる。それで無限にお話をつくっちゃうんですもんね。ああでも、濁音とかもあるし実際には五十以上? でも、基本は五十音ですよね」

 ごじゅっこしかない、もじから、じゅうまんじの、しょうせつを、つくれる、なんて、ふしぎ。彼女の言葉がはらはらと浮遊して、わたしの胸にすとんと落ちる。そんな経験があったかどうかも忘れかけているけれど、ああまるで、恋に落ちたような。

 変哲もないひらがなから、無限に物語をつむげる可能性がわたしの手のなかにあることを、藤崎五月は教えてくれる。

 み、つ、め、る。たとえば彼女にタイトルをつけるとしたら、たった四文字から広がる物語があるとしたら。

「私には書けないなあ。レポートの五千字だって、無理だもん」

 子どもっぽい、素直な笑いかただった。もしも藤崎五月が雪平秋人と出会わなかったら。きっとちがうしあわせのかたちがあったに違いない。そしてやっぱりだれかと、ありふれた恋をする。

「興梠さんの小説、楽しみにしてますね。完成したら一番に読ませてくださいね」

「……もちろん」

 そこでスーパーの灯りが落ちる。藤崎五月の顔が、それまでよりもずっと明るくなる。彼女の目には、もう雪平秋人しか映っていない。

 落選したら、駄目なのだと思っていた。ただわたしの小説は死んでいくだけだと思っていた。だれにも求められていない、不必要な作品なのだと、悲しみと怒りが交互におとずれた。

 はじめてだれかのために小説を書きたいと思った。いままでは、だれのためでもなかった。自分のためですら。認められたいためだけの、ただの手段としての小説だった。

 藤崎五月を書きたい。藤崎五月のために書きたい。思いつくことのできなかった物語を、わたしにあたえてくれた彼女のために。

 五十音から無限に世界をつくりだすわたしは、きっと間違いなく「すごい」のだ。彼女からの言葉を夜のなかに浮かべてわたしは笑った。楽しくなって、ははは、と声が出た。笑った、と思えるのはずいぶん久しぶりのことのような気がした。

「あ、アキ」

 彼女は笑うわたしを気にも留めず彼を追いかける。いつまでもいつまでも追いかける。たとえ突き放されたとしても、いつか自分に光があたることを信じて。彼女は、そうでなくてはならないし、きっとそんなふうに生きてゆく。そんな姿をみたいから、わたしはさっき理性を捨ててきた。その理性は、だれも拾わなくていい。

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