第2話 狙われた記者

 夜は深く、静かな街の片隅で、佐藤は車の中からマンションを、じっと眺めていた。彼の膝の上にはカメラが転がり、周囲の暗がりに同化しているように、ほとんど音もなく息を潜めていた。マンションのエントランスは閑散としており、たまに入居者が出入りする程度だ。だが、佐藤は待つ。この地味な作業が、週刊誌の誌面を彩るスクープへと繋がるかもしれない。


 編集部に匿名で届いた情報によれば、ある男性アイドル・桜木陽一と、女性アイドル・優木葵の密会の噂があった。まるでドラマのワンシーンのような話だが、これが事実ならば大々的なニュースになる。そして、その手がかりをつかむべく、佐藤は桜木のマンションをうかがっていたのだ。


 寒風が車の窓を叩き、夜の静寂を乱す。ふと、エントランスの自動ドアが開き、スタイリッシュなコートを身にまとい、大きなサングラスで顔を隠した女性の姿が現れた。佐藤の手が、無意識のうちにカメラに伸びる。だが、それは噂される優木葵ではなかった。ここに現れたのは、トップ女優の綾瀬千晶だった。


 佐藤は、息をのむ。彼女は、なぜここにいるのだろう。桜木との何らかの関係があるのか、それとも単なる偶然か。彼の目は一点のブレもなく、千晶の姿を追う。彼女は、待たせていた車に乗り込み、夜の闇に消えていった。佐藤の本来の目当ては、優木葵だ。綾瀬千晶ではない。彼の心は、複雑な感情で揺れていた。先日、プライベートで偶然に出会った芸能人が、なぜ彼の職場にも現れたのか。


 その時から、彼は自らの過去と向き合うことを強いられたが、ゴシップ週刊誌の記者としての矜持が、彼を救う。そして、冷たい夜風の中で待ち続ける。桜木陽一、優木葵、綾瀬千晶。彼らの関係性が、この深夜の張り込みによって明らかになるかもしれないという、一縷の希望にかけて。



 夜の帳が再び下り、佐藤は相変わらずの場所で目を光らせていた。時刻は、もう深夜を回っている。通りの灯りは、ひっそりとした街角を照らすのみだ。昨夜と同じように、綾瀬千晶がマンションから現れた瞬間、佐藤の指はカメラのシャッターを機械的に押していた。目当ての優木葵の姿は、終始見えず、その不在が彼の心に重くのしかかる。


 編集部に戻った佐藤は、上司の神田デスクに今夜の成果を報告した。神田は疲れた目をこすりながら、写真を一枚一枚、確認していく。芸能人が、ごちゃ混ぜに暮らすマンションのため、千晶の写真だけでは桜木陽一との交際を決定づけるには至らなかった。神田デスクは肩をすくめ、「明日もだな」と、ただ淡々と指示した。


 次の夜。佐藤は今度は、優木葵のマンションに向かっていた。カメラを握る手は冷たく、やや震えていた。目当ての桜木は姿を見せず、その代わりに、またもや綾瀬千晶がエントランスを通り抜けた。何故だろう。偶然にしては、出くわす頻度が高すぎる。佐藤は、シャッターを切ることができなかった。


 その瞬間、彼の内に秘められていた、ストーカーだった頃の感覚が呼び起こされる。過去の自分を思い出すようで、恐怖が全身を貫いた。彼は一度カメラから目を離し、深く息を吸い込む。再びファインダーを覗き、千晶が消えたエントランスを見つめたが、ただの黒い穴が、そこにはあるだけだった。佐藤は、自らの手が震えているのを感じながら、自問自答を繰り返す。


 これは現実なのだろうかと、彼は考えた。車内は静まり返り、彼だけの時間が流れる。頭のおかしいストーカーだった頃の彼は、過去のものだと自分に言い聞かせつつも、カメラのレンズ越しに見る世界は、時として過去の影を彷彿とさせる。彼は、ただ静かな夜の中で次の動きを待った。



 佐藤は車の中で身動き一つせず、その事実を冷静に噛み締めていた。先日の非営利団体のイベントで綾瀬千晶と交わした会話は、彼にとっては意外な出来事だった。普段は雲の上の存在である彼女が、お忍びで彼の世界に足を踏み入れたのだ。その一件が今、彼の心に異変を引き起こしているのかもしれない。


 かつての自分に戻ること。それは佐藤にとって、最も避けたい恐怖のシナリオだった。大学時代に経験したストーカーとしての行動は、一度は封じ込められ、理性という名の療養によって抑え込まれていた。治療を経て、彼は自分が異常なほどに執着していた対象から、距離を置くことができるようになった。そして、その執着が、いかに異常であったかを理解できるようになった。


 しかし今、綾瀬千晶の姿が、どこにでもあるような錯覚に襲われるたびに、佐藤は自身の感覚を疑い始めていた。彼女は自分には無関心であり、自分が彼女を追いかける立場にある。それが事実だ。しかしもし、彼が街中で彼女の姿を追い求め、彼女が、どこかで自分を見ていると想像するようになったならば、それはストーカーの精神状態だ。


 彼の内に、わずかに芽生えた、その考えを振り払うように、佐藤は深く息を吸い込んだ。冷たい車内の空気が肺を満たし、彼を現実へと引き戻す。そんな彼の最も大切にしている理性が、いま静かなる闘いを挑んでいた。彼は夜の帳が明けるまで、その場で待機することにした。



 深夜の街は、昼間の喧騒を忘れさせるほどの静けさに包まれていた。佐藤は車内で、外の空気が、ひんやりと冷たいのを感じながらも、暖房をつけることなく張り込みを続けていた。彼の目は、通り過ぎる人々の一挙手一投足を、逃さず見つめていた。


 そんな中、予期せぬ来訪者が現れる。宅配ピザのバイクが、佐藤の車の横に静かに停まった。若い宅配員は、ピザの箱を持って佐藤の窓をノックした。


「こんなもの頼んでないぞ?」と、佐藤が戸惑いの声をあげる。


 宅配員は「料金は先にいただいておりますので」と、あっさり答えて、再びバイクに跨がり去っていった。


 宅配員の姿が夜の闇に消えると、佐藤の中に不穏な気配が漂った。これは、ただの間違いではない、何者かが彼のことを監視しているのではないかという疑念が、彼の頭をよぎる。


 緊張が走り、神経をとがらせた佐藤は、慌てて編集部に連絡を取った。編集部の神田デスクからは、すでに彼に連絡を試みていたことが明かされた。「すぐに戻ってくれ」という指示に従い、佐藤は不安を抱えながらも、編集部へと車を走らせた。


 編集部に到着した佐藤を待っていたのは、衝撃的な事態だった。編集部が運営するタレコミ募集のサイトに、佐藤自身を隠し撮りした写真が大量に投稿されていたのだ。張り込みをしているはずの佐藤が、逆に誰かに張り込まれ、監視されていたという事実。佐藤の顔からは血の気が引いていく。


「お前は、この件からは手を引け」と神田デスクは告げた。


 佐藤のプライバシーを侵害し、彼の安全を脅かす可能性のある状況は、単なる張り込みの任務を超えていた。ゴシップの追求は、時に危険を伴うものだが、今回の事態は、さらに深刻なものだった。狙われた記者。それは、編集部が決して看過できない事態だった。佐藤は、この張り込みから外されることになり、彼の中で何かが変わり始めていた。自分が、追う側から追われる側へと立場が変わった夜。佐藤は、忌まわしい過去と向き合うことを強いられていた。



 深夜のネオンが煌めく繁華街に、佐藤の車は静かに停車していた。アイドルのスキャンダルを追う日々から一夜、彼は人目を忍ぶ酔った芸能人を捕えるための単純で退屈な任務に就いていた。車のダッシュボードの上には、緊急を要する瞬間に備えて、一眼レフカメラが待機している。しかし、佐藤の心は仕事よりも深刻な思考に取り憑かれていた。誰が、昨夜のイタズラを働いたのか。


 綾瀬千晶の顔を思い浮かべるたびに、佐藤は、それを意識的に振り払う。週刊誌の記者を狙ったイタズラをする人間が、どれほどいるだろうかと、また思考が綾瀬千晶に戻っていく。彼は、決してストーカーへと逆戻りするわけにはいかない。そんな熱心な思考を巡らせている最中、前方から歩いてくる女性の姿が目に入った。見間違えようのない、綾瀬千晶だった。彼女は、どういうわけか変装もせず、堂々と歩いている。


 佐藤は息を呑む。指はカメラに届かず、ただ、彼女の姿を目で追った。綾瀬千晶も、車内にいる佐藤の姿に気が付いたようだった。二人の視線が交錯し、時間が一瞬、凍りついたように感じられた。互いに言葉を交わすこともなく、佐藤はただ、彼女の存在を確認するだけだった。


 綾瀬千晶は佐藤の車を通り過ぎ、彼女の後ろ姿が徐々に夜の闇に吸い込まれていった。佐藤は、その後ろ姿に目もくれず、ただぼんやりと空を仰いだ。何を待っているのか、何を思っているのか、彼にも分からない。佐藤にとって、今夜はただの一夜ではなく、過去と現在が交錯し、自身の内面と向き合わざるを得ない時間だった。静かな夜風が彼の頬を撫で、どこかで聞こえる騒がしい笑い声や足音が、彼の孤独をより際立たせていた。

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