「なぜ、あの死体はイグアナになれなかったのか」

雨矢鳥日済

1-1 歌舞伎町の闇医者

 夜更けに受診してきたのは、昆虫の顔が混ざった、若い人間のピンサロ嬢だった。


「理人先生ありがとねぇ。こんな夜中だと、病院ってどこも閉まってるから、本当に助かったわぁ」

「またいつでも連絡して下さいね」

「優しいなあ先生は。うちの常連も、先生くらい紳士的だったら良かったのに」


 緑色の複眼が素早く瞬く。針金のような二本の黒い触角が揺れた。唇の形は人間のものだ。ゆるやかなカーブを描いて、柔らかな微笑みを湛えている。


 蟲のパーツが入り交じった顔を持つ女性患者とは、何度も遭遇したことがあった。そういう地域なのだから、余計な気遣いも無用である。他の一般人と同様に診察をするよう、雇用者からも指示を受けている。このくらい珍しくもない。

 

 問診に次いで視診を行う。業務中に乱暴な客から顔をひっぱたかれたようだ。右頬には青あざが浮き出している。放置していても問題ない怪我ではあったが、心配したピンサロの店長が、僕を紹介してくれたのだという。


「先生も今度うちに遊びにきてよ。お仕事ばっかりじゃ溜まっちゃうでしょ? 歌舞伎町界隈で闇医者っぽいことやってたら、私みたいな風俗系の患者も集まってくるだろうし、診療中にムラムラするときもあると思うんだよね」

「いやあ、実はそうでもなくて。仕事で毎日が充実しているものですから、欲求不満っていうことは全然無いんですよ。この診療所には、色んな事情を抱えた患者さんがいらっしゃいますから、皆さんのお役に立てて嬉しいくらいなんですよ僕は」

「真面目だなあ先生は」


 じゃあねぇ、と手を振りながら患者が診療室から出ていく。ビジュアル的には、遊びにきた友達がリビングを出て、玄関から帰っていったような具合だ。


 極道の人間が多く住まう、歌舞伎町の地上七階建て物件、通称ヤクザマンション──その四階にある角部屋を改修して作られた診療所である。


 僕の自宅だ。


 寝食から仕事まで、ほぼ全ての行動をここで済ませている。


 玄関から見ると、フローリングで敷かれた廊下の先にリビングがある。その突き当りに、僕が座っているオフィスチェアとデスク、患者用のスツールが設置されている。玄関からは診察が見られないように、衝立が立てられていた。パイプのフレームには、薄い水色の不織布が提げられている。その隣には横長の黒いソファ。衝立とソファの背もたれの間を通って、患者が僕のいる所へと移動してくる構造になっている。


 玄関の開く音がすると、患者と入れ違いで誰かが入ってくる。


 専属ガードマンの裕也さんだ。衝立越しに声がした。


「理人。悪いんだが、これからもう一人いいか」

「近藤組がケツ持ちしている店の子ですか?」

「ソープで働いている子だ。ヤってる最中に舌を嚙みちぎられたらしいぞ」

「それは痛そうですねえ。圧迫止血をしながら、急いで来院するよう伝えてあげて下さい」

「痛いで済めば御の字なんだろうが、今後の業務に支障が出ないか懸念されるところだな。舌って筋肉の塊なんだろ? この前、別の患者が舌にピアスあけて血管をブチ抜いてきたときに、お前がそう説明しているのを聞いていたけどよ。素人の感覚としては重症だな」


 つい先週の話だ。


 懇意にしてもらっているガールズバーの女性スタッフが、口の中を血まみれにしながら来院した。舌にピアスの穴を開けようとして、太いピアッサーをあらぬ方向に突き刺してしまったらしい。


「舌は筋肉の塊であり臓器です。臓器に穴を開けるっていうのは大怪我なんですよ」

「価値観は人それぞれだからな。とりあえず、ヤッコさんには今すぐ来いって言うぞ」

「処置の準備をしておきますね」


 裕也さんの足音が遠ざかる。


 玄関の外から若い男の挨拶があった。新顔ガードマンの小平さんの声だ。ガードマン役が一人いれば門番としての機能は充分だが、仕事を覚えさせるために呼びつけたのだろう。


 首にぶら下げていた聴診器を置く。ノートパソコンの蓋を閉じて席を立った僕は、壁際の薬品棚から、局所麻酔薬の入ったポリアンプを取り出した。


 消毒と縫合の準備もしなければならない。外科処置に必要な機材が収納されている棚は、リビングの隣にある処置室に仕舞われている。


 六畳ほどの処置室には、歯科用のチェアが設置されている。施術用の処置台として設えているものだ。ボタン一つで寝台にも椅子にもなり、横にはうがい場も備え付けられている。脚部のパーツを付け替えれば、産婦人科で使う分娩椅子にもなったりもする。


 処置室に移動する。


 左手にある器材棚には、蓋のない長方形のプラスチックケースがいくつも収納されている。僕はガラス製のドアを横にスライドし、一番上に並んでいるケースを引っ張り出した。


 中には、紙とフィルムで滅菌包装されたピンセットや、持針器の類が入っている。それを必要分だけつかみ取って、左腕と脇の間に収めていく。


 今回は、簡単な縫合処置のみで済ませられる気がしていた。


 受診動機の多くは、やや大げさに伝えられる場合が多い。


 客に噛まれた患者を診察する機会は、そこそこの割合でやってくるものだが、実際には、浅い傷で済んでいるものがほとんどだ。


 第一、輸血込みで処置をする必要に迫られているような症例は、こんな小さな診療所では対応しきれない。真に危険な状況に陥っているのであれば、先に救急車を呼んでいるはずである。


 しかしながらごく稀に、無理を通してでも、大怪我を負った患者をこの診療所で処置しなければならない場合も存在するから、油断は出来なかった。


 この診療所の運営母体が、歌舞伎町の界隈を仕切っている『指定暴力団・四代目近藤組』だからだ。


 様々な背景や理由から、一般的な病院での受診が難しい患者は、この診療所に連れて来られて、闇医者である僕『近藤組の理人』の治療を受けるよう指示をされる。抗争による外傷なんかは、その最たる例と言えよう。


 診察費用は、患者が属する団体や会社から、献金として支払われる。近藤組が直営する店舗のスタッフであれば、福利厚生として、無料で受診が出来るシステムである。


 連絡を終えたらしい裕也さんが、処置室までやってくる。


 アロハシャツを着ている。スライドドアの枠に巨体を寄り掛からせ、スマホをジーンズのポケットの中にしまった。


「あと十五分くらいで来るってよ」

「それくらい時間があれば、準備も間に合いそうです」

「手伝おうか。先代のシラガ先生が死んで、お前が稼業を継いでからもう一年が経ったっつってもよ、一人で診療所を回すのはやっぱり大変だろう」

「平気ですよ。シラガ先生がお亡くなりになる前に、しっかり仕込まれましたから」

「それなら良いけどよ。お前、なまっちょろいくせに根は真面目だから、働きすぎてぶっ倒れねえか心配なんだ。くたばりでもしてみろ、俺がオヤジ組長にドヤされちまう」

「心配性だなあ裕也さんは。僕だって、シラガ先生の下で厳しい修行を積んだ身ですから、そう簡単にくたばったりなんかしませんよ」


 包装済みの器材一式を、銀色の架台に全て乗せる。もう一つ用意しておいた小さな架台には、深緑色のクロスを被せ、包装を開けながら中身を並べていく。


「大事な弟分が病気で寝床に臥せりでもしたら、俺は気が気じゃなくなる」

「闇医者稼業は、組にとっても大事なシノギですしね」

「お前の命はもっと大事だ。キツかったらちゃんと申告しろよ」

「ある程度の無茶は、必要経費みたいなものでしょう」

「言うじゃねえか」

「物心つく頃から、近藤組の人たちに育てられていたお陰で、ここまで大きくなれましたからね。恩義を返すのは当然です」

「クソ律儀だなあ理人は。だからこそ組員からも、歌舞伎町の健康を与る大先生として認められているんだろうけどよ」


 空になった包装紙を丸める。棚の横にあるゴミ箱の蓋をペダルで開けて、まとめて中に放り投げた。


 血で処置台が汚れると、清掃が面倒だ。


 僕は器材棚から、大き目のバスタオルを数枚だけ取り出し、台の上に広げた。


「シラガ先生が急に死んだあとに、弟子だったお前がその跡目を継いだときも、俺はびっくりしたんだぜ? もっと真っ当に生きたくはないのかよ。違う環境で働きたいとか、彼女を作って遊びたいとか」

「僕の全ては、ここにありますからねえ」

「全てってなんだよ」

「シラガ先生が遺してくれた、医術の知識と診療所。僕を育ててくれた組長さんや、近藤組の皆さん。そしていつも傍にいて、励ましてくれる裕也さん。ここには大切にしたいものがある。稼業を継いだのだって、自分が望んだことです」

「なら俺は、これからもお前を守るだけだ。もう何も言うめえよ」

「裕也さんなら、そう言ってくれると信じてましたよ」


 背中越しに、ケッと返事を寄越された。


「そういえば、お前が欲しがっていた新しい教科書、玄関の所に置いておいたぞ」

「もう届いたんですか、嬉しいなあ」

「お前の勉強熱心さには頭が下がるよ。つい先週も、新しい教科書が届いたばっかりだろう。お医者様の勉強ってのは、そんなに大変なのか」

「医術は日進月歩ですから、勉強すればするほど、患者さんの利益になるんです。僕自身が、活字中毒っていう理由もありますけどね。小さい頃からそうだったじゃないですか」

「あれはシラガ先生に追いつくために、遊びたいのを我慢してたんだと俺は思っていたが」

「好きで本を読んでいたんです。シラガ先生の背中を追いかけるのも楽しかったですけど、僕にとっての一番の娯楽は、本を介して情報を得ることでしたから」

「本の虫ってやつだな。俺とお前が、同じ人間だっていうのが未だに信じられん。俺がガキの頃なんざ、組の兄貴たちから拝借したタバコをくわえて、どうやってクソガキ共の中でツッパるか考える程度の知能しかなかったぞ」

「その手の話題に言及するのであれば、タメになる話がありますよ。聞きます?」

「ほう、興味あるね」

「アメリカの社会科学者であるグレゴリー・ベイトソンという方が仰った内容だそうですが、『情報は、差異を生み出す差異である』という格言がありまして」

「オーケー理人。その導入がもはや意味不明だ。呪文の詠唱ならよそでやってくれ」


 裕也さんのスマホから、軽快な着信音が流れる。


 滅多にテレビを見ない僕には、馴染みのない曲だった。裕也さんいわく、暴れん坊な将軍が、殺陣を繰り広げる際に流れる戦闘曲なのだという。


 裕也さんがスマホを耳に押し当てる。


 分かったと告げて、電話を切った。


「例の患者が到着するってよ」


 指を動かして、スマホを操作している。


「小平に迎えに行かせた。あと五分もすれば来るぞ」

「さっきの患者さんも、小平さんが迎えに行ってくれてましたよね。よく働くなあ」

「良い舎弟を持ったもんだ。高校上がりで、しかも傷モンに憧れてとか抜かしやがってたから、最初は警戒していたんだけどよ。実際に働かせてみると、これがまた実直な野郎なんだ。そのうち、ここのガードを小平に任せる日が来るかもしれないぞ」

「裕也さんが居なくなるのは寂しいですよ」

「仮に出世しても、ここには顔を出してやるから安心しな。お前を一人になんかしねえ」


 また裕也さんのスマホから着信音が流れる。ワンコールで切れた。マンション一階のエントランスを通過したサインである。


「それじゃあ理人先生、もう一仕事していただきましょうかね」

「任せて下さい。人を治療するのが、僕の生き甲斐ですから」




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