5-11

 泥沼が蠢き、持ち上がる。まるで、子供が菓子を頬張ろうとするかのような動きで。

「要らない」

 その言葉は、恋が自分に言い聞かせるための言葉だった。

 袖から太い注射器を引き抜き、包丁で刺し殺すかのように両手で突き刺した。力一杯、注射針を押す。中の液体が、泥の中に注ぎ込まれた。

「ハスターも、クトゥルフも、あんたも、この世界にはもう要らない」

 そう吐き捨てたと同時に、恋の腰を引き寄せていた触手がボロボロと崩れだした。泥沼の中から抜け出し、数歩下がる。黒い巨体が、末端から急速に崩れ始めていた。無数の目玉が、ぎょろぎょろと動き回る。

「何が起きたかって? いいわ、死に方ぐらい教えてあげる。それはね、フッ化水素酸。人間が被ったら、煙を噴いて溶けて死ぬ」

 巽の話を聞いて思いついた方法だ。肝心の劇薬は、巽の看護師時代の伝手を使って手に入れてもらった。

「あんたがあたしに化けたって知ったとき、なんで微妙な差異を残したんだろうって不思議だった。でも、残さざるを得なかったんじゃないかって考えたら、理解できた。食べることで、データをコピーして化けてたんでしょ。じゃあ、取り込んだものによって細胞が壊れたら、自動的に他の細胞もコピーを始めて、勝手に自壊するって踏んだわけ」

 目玉の周りの細胞が崩壊し、ぼろぼろと床に溢れる。

「あんたが妊娠させた娘の腹を食い破って、化け物が出てきたそうよ。その化け物は劇薬をぶちまけられて溶けて消えたけどね。それを知らなきゃ、あたしもこんな方法思いつかなかったでしょうね。あんたは文字通り、自分が蒔いた種で死ぬのよ!」

 耳をつんざくような悲鳴が室内に満ちる。テケリ・リという鳴き声が不安定に歪み、規則性を失い、汽車の警笛に似た音に変わる。不定形の体はべたべたと床をのたうちまわり、もがき苦しんでいる。

「ああ、いい気味だわ! これで、これでやっとあたしは自由になれる!」

 ゲラゲラと笑い声が聞こえる。それは恋のものだった。こんなに笑ったのは久しぶりだ。

 床をのたうち回っていた体が、ずるずると近づいてきた。もう触手を伸ばす分の細胞すら足りないらしい。まだ残っている目玉は揃いも揃って白目を剥いている。その中で、二つの目玉だけが恋をじっと見つめていた。

 恋は笑ったまま、その顔を蹴り飛ばした。脆くなっていたであろう体は崩壊して、壁や床に飛び散った。目玉は抉れて転がっていった。それが切欠になったのか、残っていた体が一斉に崩壊し、崩れ落ちた。黒い巨体は、千切れた紙切れのようになって床に散乱した。

 終わった。三年間途切れることなく恋を苛んできた恐ろしい怪物は、夢だったかのように呆気なく消えてしまった。

 終わった。恋は、全てを清算したのだ。

 足から力が抜けて、膝から崩れ落ちる。服が汚れるのも構わず、恋は埃っぽい床に座り込んだ。

 冷は死んだ。いや、この世から消滅した。あれほど関係の無い、多数の人々を巻き込んで不幸を拡散し続けた怪物は、文字通りこの世から消え去ってしまったのだ。

「……帰らなきゃ」

 引きずるように身体を起こし、ずるずると立ち上がる。久しぶりにこんなに笑ったから疲れてしまった。これからどうするかは後でゆっくり考えることにしよう。今はとにかく、ベッドの上で眠りたかった。

店を出て、階段を下り、エントランスを出て、空を見上げた。

 頭上には、オーロラが広がっていた。

 何故? 日本でオーロラなんて、物理的に有り得ない。それに、こんなに冴え冴えとオーロラが揺らめいているのに、少しも寒気を感じない。

 混乱したまま歩いていると、どこかから足音がした。誰かいるのかと振り向いて、恋は絶句した。喰屍鬼グールだ。喰屍鬼が恋に向かって歩いてくる。廃墟になった街とはいえ、こんなに堂々と化け物が歩いてくるなんて。ここが喰屍鬼の巣だったのか。いや、もしかしたら、日本に潜んでいた化け物達が一斉に溢れ出しているのかもしれない。冷が、ショゴスが自分を殺した意趣返しとして、喰屍鬼と人間に擬態していた同胞を世に放ったのかもしれない。止めなければ。人間の世界に、化け物はいらない。

 恋は周囲を見回す。放棄されたらしい工事現場に、鉄パイプが無造作に散乱していた。その内の一つを手に取り、喰屍鬼に殴りかかる。ゴムのような皮膚の感触が、手に伝わった。喰屍鬼は逃げ惑いながら、苦痛に満ちた遠吠えをする。仲間を呼ぶつもりだろう。頭を掴んで引き倒し、馬乗りになって何度も殴打する。やがて、喰屍鬼は動きを止めた。

 なんとか囲まれる前に一匹処理できた。しかしここでは分が悪い。それに一人で戦っても処理できる数はたかがしれている。なんとかここを抜けだし三ツ門町に戻ろう。蘇芳の助けを借りれば、打開策が見つかるかもしれない。

 数匹の喰屍鬼が走ってきた。角を曲がって逃げようと思ったが、進行方向からも一匹迫ってくる。その一匹を鉄パイプで殴り飛ばして走る。恐らく包囲されている。まずは包囲網を抜けるのが先だ。

 無我夢中で走っていると、突然角から喰屍鬼の薄汚れた紫色の影とは違う、色鮮やかな人影が飛び出してきた。逃げてきた人間かと思って良く見ると、それは見知った顔──蘇芳だった。病院から飛び出した自分を探しに来たのだろう。丁度良いところに来てくれた。

「ねえ──」

 一体世界になにが起きてるの、そう言おうと思った瞬間、胸が熱くなって、何かの衝撃で後ろに突き飛ばされた。体が上手く動かない。全てがスローモーションで進んでいく。

 恋の胸から、彼岸花が一輪飛び出して、花開いた。二本、三本と彼岸花は咲き、いつしか恋の胸には、満開の彼岸花が咲き誇っていた。


 ああ、なんて綺麗なの。


 それが、恋が最期に見たものだった。

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