5-9

 恐怖の余り気絶した緑川は、ビル内のテナントに勤めている人間に発見され、病院に送られた。だが、体に異常はなかった為にすぐに帰された。

 おぞましい体験から戻ってきた緑川の世界には、片須恋がいなかった。釈放されたという話は聞いたが、それから連絡がつかないらしい。

 まさか、あの化物に──。信じたくなくて、あちこちに連絡して彼女を探し回った。だが、それらは全て徒労に終わった。

 その片須恋が、今目の前にいる。アカシア出版の、編集室の中に。

「どこに行ってたんだ!」

 自分でもわかるくらい、情けない声だった。

「ごめんなさい。ちょっと色々あって」

 彼女の様子は明らかにおかしかった。いつもの自信に満ちた、強気な態度ではない。誤認逮捕されたことを負い目に思っているのだろうか。

「色々、迷惑かけたわね」

「君のせいじゃない。冤罪が晴れて、本当によかった」

「それもだけど、それだけじゃなくて、これまで、色々と」

 言いながら、彼女は顔を伏せる。

「どうしたんだ、らしくないじゃないか」

 何か、嫌な予感がする。

「そうだ、仕事の話をしようじゃないか。珈琲でも淹れよう」

「ごめんなさい、あたし、これから行かなきゃいけない所があるの」

 言いながら、彼女は緑川に背を向けた。

「これまで、ありがとう」

 咄嗟に、緑川は彼女の手を掴んだ。

「行くな、あんなおぞましい化物の所へなんか、行く必要ない」

「……どうして知ってるの」

「菊田が、化物と繋がってたんだ。化物に唆されて、君を神威歌劇団と接触するよう差し向けた」

「彼女は、どうなったの」

「化物に殺された。君があの化物とどういう関係にあるかは聞かない。それはどうでもいい。だが、このままみすみす君を行かせることはできない」

 自然と手に力が入る。ぎし、と恋の手首が軋む音が聞こえた。

「私に迷惑をかけたと思うなら、行かないでくれ」

「……ごめんなさい」

 瞬間、彼女が素早く腕を捻った。ふわりと、驚くほど呆気なく、掴んでいた手が解けた。人体の力学をわかっている動きだった。

 呆気に取られているうちに、彼女はもう部屋を出ていた。

「待ってくれ!」


 やっぱり、挨拶しに行くべきじゃなかったな。

 街中を疾走しながら、恋は後悔していた。自分はそうだ。いつもやったことが裏目に出る。結局、緑川をいたずらに傷つけてしまった。

 背後に緑川の姿が見えなくなったのを確認すると、上がった息を整えながら歩き出した。

 歩いている内に繁華街の喧噪から徐々に遠ざかり、静かになっていく。同時に、人気もなくなっていった。やがて煤けた建物が増えていき、遂には廃墟となった街に辿り着いた。つい三年前までは、栄華を極めていた街、新宿・歌舞伎町だ。

 もう三年も足を踏み入れていない上に、廃墟となって目印となっていた店も畳まれてしまっているというのに、足はあの場所を覚えていた。

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