第二幕 死のモデル

2-1

 壁に臓器が張り付けられている。子供の頃、理科室の人体模型で見たとおりの並びで、一人分の臓器が欠けることなく広げられている。

 その横にもう一揃い、更にその横に──合計五人分の臓器が、壁に磔にされていた。まだ元の持ち主から取り出されて間もないのか、壁を伝って床にまで血が広がっていた。

 こんな嫌がらせをしてくる奴など、あいつしかいない。

 電話の音がする。れんは、枕元の携帯に手を伸ばした。

「はい、片須かたすです」

 悪夢から逃れることに気を取られ、誰からか確認せずに出てしまった。誰であってもいいように、きちんとした挨拶をしておく。

「恐れ入ります。私、アカシア出版の菊田きくたと申します。緑川の代理で連絡させていただきました」

 電話口からは無愛想で無機質な女の声が流れてきた。尤も、恋自身も愛想が良いとは言い難いと自覚しているので人のことをとやかくは言えない。それに、悪夢から救い出してくれたのだ。文句は言えまい。

 アカシア出版の緑川──先日三ツ門町で出会った男、緑川尋みどりかわじんのことである。アカシア出版が企画しているウェブニュースサイトの編集長を務めている。その立場上、彼は常に忙しくしている。それにしても代理の人間を寄越してくるとは、よほど急いでいるのだろうか。

「急な話で大変恐縮ですが、記事の依頼をさせていただけませんでしょうか」

「物にもよりますが、まず、締切は?」

「大変申し上げにくいのですが、三日後です」

「本当に緊急なんですね、なにかあったんですか?」

 恋が聞くと、菊田と名乗った女は言葉とは裏腹に、ごく淡々と事情を説明し始めた。

 アカシア出版はサブカルチャーとアートに特化した雑誌を隔月で刊行している。ネット上ではそこそこ知名度が高く、恋も何度か読んだことがある。

 何事も無ければ来週発行されるはずだったその最新号だが、ここに来て記事で取り上げた若手アーティストが一名、違法薬物で逮捕されたと言うのだ。流石にその記事をそのまま載せるわけにはいかないが、さりとて発行を差し止めるのは社にとってダメージが大きい。

「そこで、高円寺で活動している若手アーティストを一名選出し、紹介記事を執筆していただきたいのです」

 高円寺。昔から芸術が集まる場所だったそこは、今は政府によって文化芸術特区に指定されている。

「わかりました。彼とはそういう約束をしましたから」

 アカシア出版は超大手とはいかずとも、有名会社の一つだ。そんな出版社に伝手があれば仕事にも、目的の達成にも有利になることは間違いない。だから、彼の申し出を二つ返事で受けた。

「ありがとうございます。緑川からは、この際作風は問わない。ある程度の実績があればいい、と伝言を預かっております」

 全くありがたみのなさそうな調子で、菊田は言った。人のことは言えないが、随分陰気な人物である。仕事の時くらいはある程度取り繕うものではないか。

「わかりました」

 電話を切って起き上がる。もう眠れそうになかったので、仕事をするには丁度良い。

 高円寺を活動拠点としており、実績を持つ若手アーティストと聞いて、何人か思いついた人間がいる。どうせ記事を書くなら、その中でも自分が興味をそそられているアーティストについて書きたい。SNSを開いて、そのアーティストのアカウントにジャンプする。

 黒木カズラ。ホラー漫画家にして怪奇イラストレーターを称している。有名漫画雑誌にも四度読み切りの漫画が掲載されており、実績としては十分だろう。更に、来週から高円寺のギャラリーカフェで個展が開催される。良いタイミングだ。

 三年前、とても幸せな芸術や物語に触れる気にならなくなった時期に、特に目的もなくSNSを巡っていて偶然彼を知った。当時彼はまだ漫画家の卵で、素人目にもわかるほど荒削りな技術であったが、イラストにせよ漫画にせよ、作品を「見せる」力に関しては十分であった。

 モノクロのコントラストを効果的に扱ったイラスト。容赦のないゴア表現を引き立てる力強い線。細かい所まで描き込まれた繊細な背景が、恐怖感を存分に彩る。

 以来、定期的に彼の活躍を見守っていた。彼の作品が掲載された号の雑誌は、未だに本棚にしまってある。

 偶然の産物ではあるが、仕事として彼に関わることができるのは、とても嬉しいことであった。記事の許可を求める依頼文に、少々個人的な感想も加えて、メッセージを送る。

 返事を待つ間にシャワーを浴びようと思い立った。何せ嫌な汗で、全身が海から上がった後のようにべたべたとしていた。

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