6話 ただのシックス・センス
<美園マンション>の地階診療所は、他のフロアからすぐ入れるという設計にはなっていない。
利便性より訳あり患者の安全確保を優先させた結果であるが、スンは看護師として、この構造をいつももどかしく思っていた。
一階でエレベーターを降り、アイスを支えながら地階につながる階段室へとむかう。人目のあるところでは自分で立っていたアイスだが、階段までくると、さすがに気力も費えたようだ。足元がいっそうあやしくなっていた。
「もう少しですよ、頑張って」
「世話かけてごめんね。さすがに今回はきつくて」
アイスはいわばお得意さんだった。これまで刺創でも銃創でも、ひとりで歩いて来所していたことを思い出すと、今回のダメージはかなり大きい。
「治療をおえたら、しばらくは休養ですね」
「そだね。動けそうにないしね」
「治ったら旅行とかどうですか? わたしたちの歳になると、湯治なんてのもいいですよね」
「おんせん……」
「予定なんかつくらないで、お風呂入って、寝て、散歩して、またお風呂入って」
「……うん」
アイスの声が弱くなっていく。スンは声をかけ続けながら、階段室の鍵を挿し込んだ。鍵を回す手間さえもどかしくなる。
金属音を響かせて鍵がはずれた。ドアを肩で押し開け、足で閉める。肩で支えるアイスが重くなってきていた。自力で立つ力が弱くなっている。
早く処置室へ。優先する処置手順を考えながら先を急ぐ。
懇意にしているアイスのせいか、いつになく気持ちが焦った。そうしてスンは、一度もしたことのないミスに気づかずにいた。
アイスと別れた一太は、エレベーターを使わず階段をあがった。屋上へとむかう。
ひとりで<美園マンション>を歩いていると、ここに着いたばかりのときを思い出した。
爆発火災をおこした<オーシロ運送>から、この複合ビルにきたあと、合間を見つけてフードフロアにいった。飲み物でも持って歩いている方が、滞在中の宿泊客らしく見える。
その過程で、まだ潰れずに残っていたアイスクリーム屋<エスクリム>を見つけた。
店長の髪はすっかり白くなり、一太がまえに立っても、その昔に来ていた子どもだと気づく様子はない。ただ、オーダーしたチョコミント・アイスを手渡すとき、店長はしばし一太の顔をじっと見た。
「失礼しました。なんだか見覚えのある気がして。たぶん思い違いです」
照れ笑いとともに謝ってきた。
「気にしてない。男の客は結構くるのか?」
「ええ。子どもや女性と一緒にって場合が多いですが、男性お一人も少なくないですよ」
「そんなに?」
「わたしの知り合いが特殊なのかもしれないが、酒も甘いものも両方好きってやつは、女も男もです」
代金を払って店を離れると、一太はアイスクリームを手にしたまま歩き出した。
周囲に知った顔がいない。フロアの隅で人目を気にすることもなく、壁にもたれて甘味をなめた。
離れたところからアイスクリーム屋を眺めてみる。
店は昔のままだった。小さな店舗にはアンバランスに大きな看板で<エスクリム>の屋号。各種アイスクリームの写真でしきつめられた店頭は、ひときわ賑やかな感じがする。
店内のレイアウトも変わらないままで、大柄とはいえない一太でも窮屈だろう小さなテーブル席の数も同じ。
子どもの頃は、ちょうどいい大きさだった。
ちびっ子一太が、佐藤アインスレーにつれられてデザート巡りするうち、いちばんのお気に入りは、<エスクリム>のチョコミント味のアイスクリームになった。
<ABP倉庫>から、さほど近いというわけではなかったのだが、各種ストリートフードから甘いものまでそろっている便利さからか、アイスはよく美園のフードフロアに連れてきてくれた。
そうして何度か<エスクリム>に通っているうちに、甘いチョコレートとバニラ、清涼感のあるミントの組み合わせにはまってしまい、何度も注文するようになった。
・—— 一太の舌はオトナなんだね。
チョコミント・アイスクリームを食べると、なぜオトナになるのか。当時はわからなかったが、大人になると今度は、チョコミント・アイスクリームを食べるのが難しくなってしまった。
食べられなくしていた要因は、実の父親であるディオゴへの期待と似たようなものだ。
人は、他人のことを見ているようで、実は見ていない。
逆に、見ていないようで、実は見ている人もいる。
他人の視線なんて、そんなものだった。どこを見ているか、見ていないかなんて、こちらからはわからない。気にしても仕方ないことだった
一太がチョコミント・アイスを好んでいると知ったときの高須賀未央の反応にしてもそうだ。
ミオが一太に注目したのは、とっくに成人した男がアイスクリームなんて変——などではなく、チョコミント・アイス同好の士を発見したことだった。
それにしても、ミオと一緒にいたケーシー白衣の整体師が、襲撃したアイスの部屋にいたのには驚いた。
ぼんやりとしか見えていないそうだが、そんな身体で、せっかく逃げ出した屋上に危険を顧みずに舞い戻ってきている。それだけのアイスとの繋がりがあった。
だから怜佳を追って<美園マンション>にきた当初、エレベーターで彼女に会ったのは、ただの偶然ではなかったのだのだ。
整体師の存在を知ると、アイスが少し羨ましくもある。
アイスには話せる相手が他にもいた——。
一太は、狭い通路を通り抜け、屋上にあがった。
広い空間に出ると、ひとりになった心持ちが強くなる。感傷的な気分をふりはらい、寺田にかけよった。肩と足の銃創でぐったりしているが死んではいない。
このあとの警察への説明を考えると、始末した方がシンプルにすすめられる……。
そう思いつつ、人間を撃つのも厭になっていた。簡単にすむようで、別の荷物が自分のなかに積み上がっていくのを感じていた。
どうせまだもうひとりいる。どうするかは、そっちの様子を確かめてからと、その姿を探す。
いなかった。
高架水槽や室外機、排気ダクトといった設備の裏側まで見てまわっても同じだった。
「末武は逃げたか……」
撃ったのは末武の肩だった。転落したアイスを優先し、拘束する間もなく置き去りにした。隙ができれば当然、逃げる。
現場にいる人間がひとり減ってよかったかもしれない。十二村はすでに姿を消し、あとは寺田だけだ。ボスが転落死した話を小さくする口裏合わせを受け入れさせることができるか。一太はそちらのほうに集中する。
グウィンはミオとともに、怜佳の部屋に招き入れてもらった。
いったんはイスに腰を落としたものの、アイスの容態が気になって落ち着かない。休ませようとするミオと怜佳に礼を言いい、ひとりで部屋を出た。診療所へとむかう。
例によってエレベーターがこなかった。夜食を求めて下りていた客がもどってくる時間帯であり、アルコールを求めて外に出る客もいる。定員オーバーで二度見送ったあと、我慢が切れて階段にむかった。
アイスはすでに診療所で治療を受けているはずだ。無茶ばかりで身体に負荷をかけ続け、満身創痍になっている。急いで確かめにいく必要がなくても、ひとりにしておきたくなかった。
もっとも、それだけではない。
患者とその関係者の安全確保のため、地階診療所の出入りは簡単にはできなくなっている。
なのに、胸が騒いで仕方がなかった。故国で戦っていた頃、何もないはずのところでトラップに気づいたときの感覚に似ている。
ただの気のせいかもしれない。かといって、偶然だけでは説明できない経験があると無視もできなかった。
ミオには危険だから階段を使うなと言ったとおり、グウィンも用心を怠らない。階段室は音が響きやすいから異状も察知しやすい。何かあれば、すぐ廊下に戻るつもりで進めた足は、下りる前から止まった。
階下から足音が伝わってくる。
ただ、向かっているのは下方向だった。ほっとする。
かなりの早足。エレベーターを待っていられなかったことが伺えた。
こちらに向かってくるのではない足音によしとして、グウィンは階段をおりはじめた。
グウィンにとって階段は、上るより下りる方がむずかしい。美園の階段に、段鼻(踏み面のヘリ)の色を変えるといったバリアフリーは期待できず、踏み面の境目がわからなかった。
もどかしい気持ちをおさえ、最初の一歩を慎重におろす。
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