8話 用意周到、準備は万全
アイスは援護を断っていたから<オーシロ運送>に来る者はいない。
経年劣化で波型スレートにヒビが入っている外観の社屋に、事務所荒らしがくるとも考えられなかった。
「まだ話をする時間があると思ったんだけどな」
立ち上がった怜佳がデスクのひとつにかけよった。
「予想してたの?」
ブラインドの隙間から外をうかがっていたアイスは訊いた。いますぐ突入してくる様子はないが、ゆっくりもしていられない。
「密告をよそおった電話を入れてから、うさんくさい人間を見かけるようになってた」
「警察を呼ばなかった魂胆は?」
「そう、魂胆なの。追い払うより有効な使い途を考えた」
怜佳の表情が冷たくなった。鍵付きの引き出しから、また鍵を出す。
「待って」
ミオが話をもどした。
「佐藤……さんはどうして誰か来てるってわかったの? あ、透視能力があるとか、おちゃらけはなしで」
妙に思うのは当然だ。しかし、用意していた回答は先回りして潰されてしまった。
「えっと……なんとなく?」
「…………」
「真面目に答えてる。言葉で説明のしようがないの」
いつもの癖で笑みながら話してしまう。うろんな目を返されてしまった。
「佐藤——さんの手下が心配して来たってことは?」
「ついでみたいに付ける敬称なら、なくていいよ。サトーでも、略名のアイスでも、お好みでどうぞ」
呼び捨てにしたくなる職種の人間だ。年下から敬称をつけてもらえなくても腹は立たない。
「手下のことだけど、あいにく人徳がなくてね。ボスの指示無視してまで、あたしに付いてくるようなやつはいない」
「リスクを冒してでも来るなら、一太じゃない?」
ディオゴをめぐる人間関係を間近で観察していた怜佳が候補をあげた。
「ミオを手柄にしてディオゴの気を引くぐらいやりそう。行動がわかりやすい点では良い子なのよね」
「そのひと、まだ十代なの?」とミオ。
「いえ、二十代……三十になってるかも。二十を過ぎたら子どもじゃないとか、そんな単純なものでもないから『良い子』なの」
「一太を鬱陶しく感じたりはしない?」
愛人の息子をどう考えているのか、アイスはズバリと訊ねてみる。
「わたしにとっては不遇な立場におかれた存在。同病相憐むわけじゃないと思いたいわ。一太がしゃにむに仕事にのめり込んでいるのは、ディオゴじゃなく組織のためだと思い込んでるんでしょうね……」
怜佳の推測にうなずけることをアイスは聞いていた。
<ABP倉庫>を出る間際、備品管理をしている
——チェさんが9ミリ弾の請求を出した。
拳銃弾でも少数なら、ディオゴの耳に逐一はいることはない。
線状痕という証拠を残さないために、銃は使うたびに処分するのが基本だが、経費面で限界がある。撃った弾を死体込みで回収する手間をかけても、実弾をつかう選択をしたか……。
「じゃ、ミオを頼むね」
今度は壁際のスチール書庫から、怜佳がスポーティなデイバックを取り出した。ミオのバッグだった。
事務所奥のドアを指した。
「建物裏で待ち伏せされてなきゃ、休憩室から外に出られる」
「え、怜佳さんは⁉︎」
「依頼を受けるとは言ってない」
ミオとそろって囁き声でわめいた。
「佐藤さんには、すぐ受けてもらえるとは思ってない。時間の猶予をつくる。いい答えを期待してるからね。ミオは自分の身の安全をいちばんにして」
一気に話し、ミオにデイバックをわたす。アイスには、
「ディオゴと育てた<ABP倉庫>に、格別の感情があって当然だと思う。だからといって泥舟になっても一緒に沈んでやるのか考えて」
話しながら社長机の横のキャビネットの鍵を開けた怜佳が、何やら取り出す。
「怜佳さん、なにを……」
ミオが、いぶかしげな表情をむける。キャビネットから取り出されたのは、試薬容器だった。
「足止めするって言ったでしょ。そのためのアイテム」
「赤リンなんて個人で買えたっけ?」
ラベルを読んだアイスは、わざとらしく訊いた。個人では買えない薬品を用意した怜佳の企図をよみとる。
「武器は持ってないけど、仕掛けは準備してある。大学の友人に、農薬メーカーに就いた子がいてね。いろいろと融通してもらった」
赤リンといえば、身近なところでならマッチの側薬に使われている薬品だ。床に散らばる錆の破片のようにみえたものも仕掛けの一部。どうりで床の掃除が放置されていたわけだ。
怜佳はそれだけの決意を固めていたのか……
「先に渡しとく」
社長机の引き出しから出した封筒をアイスに差し出した。
「前報酬よ。最低条件はミオを安全な場所、福祉局とかでもいいから連れていくこと。これでわたしが相打ちになっても、料金の踏み倒しに——」
「そんなことしなくていい!」
ミオが割り込んだ。
「相打ちってなによ⁉︎ 怜佳さんに危ないことさせたくない! 危険な連中がくるんなら警察に——」
「ミオ、よく聞いて」
封筒を握ったまま子どもの両肩をつかみ、長身の怜佳が目の高さを合わせて訴える。
「ディオゴは警察の弱点も知ってる。きっと捕まることなく、ミオの財産に手をのばしてくる」
「お金より大事なものがあるんじゃない?」
「お金があれば自由が買える。バイトせずに勉強に集中できる環境とか、旅をして経験を積むこともできる。ミオの未来を拓く元手になるの。彩乃はそのためにお金を残した。彩乃の気持ちを無駄にしないで」
「レイちゃん、急いで」
事務所奥のドアから、ゴマ塩頭の初老男性が姿を現した。くたびれたワークシャツの胸には<オーシロ運送>のネーム刺繍がある。
「こちら、わたしがここにいるってディオゴに告げた〝密告者〟の
「『発注元のありがたみを理解している従業員』が二谷さん? ディオゴは自分が飼ってるような言い方だったけど」
「ディオゴの甘さは佐藤さんもわかってるんじゃなくて?」
挑戦的な目がアイスに問うてくる。
「佐藤さんに益するのは、どっち?」
ディオゴか、フリーになって動くことか。
アイスは判断をつたえた。
「<美園マンション>の<ゲストハウス・ファースト>にいる。フロントに話を通しておく」
「美園って、魔……あんなところに?」
「魔窟」と言いたかったか。巷間の誤解を鵜呑みのままにしているところからして、実際を知らないらしかった。
「慣れたらいろんな面で便利でいいホテルだよ」
怜佳の手から封筒をとる。握り込まれてシワが入った封筒をパンツのポケットにねじ込んだ。
「駐車場にパレットが積んである。ミオと外に出たら、合図にそいつを崩して。そして二〇秒以内になるべく離れて」
怜佳がセットした「歓迎用の仕掛け」は、味方がそばにいては使えないものだ。アイスは心残りで足が重いミオの肩をおした。裏口へと急がせる。
得物を用意せずに手ぶらできていた。アイスは途中、ペン立てにあったハサミをとろうとしてやめた。
ミオを連れている。子どもの前でハサミを使うのはスプラッタが過ぎた。
「ここの本を一冊いい? 多分、返せない」
試薬容器とは別に、赤褐色の粉がはいった袋を二谷と用意している怜佳に訊いた。
「残っているのは、なくなっても惜しくないものばかりよ。どうぞ」
スチール書庫にまばらにある本やバインダーのなかから、古いハードカバーを手にとった。片手でつかめる厚さがいい。重さを確かめた。
「『交通実務六法』なんてどうするの?」
「護身グッズの代用。教育に悪いから、使ってるところは見ないで」
ミオがムカデを見るような目をアイスに返したのは一瞬だった。すぐに視線を下にそらした。
「ごめん。わたしを護るためだってわかってるはずなのに……」
「外道な行為をしようって人間に対する、ふさわしい反応よ。そこは気にしなくていいけど協力して。あたしの背中側について離れないで」
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