3話 その仕事、業務範囲外

 アイスの朝食の定番は、買い置きしておいたパンと豆乳。

 時間に余裕がある日はフードコートまで下りる。オフのこの日は、グリーンカレーヌードルですませた。

 部屋にいったん戻り、新聞を斜め読みしながらコーヒを飲む。

 ベッドだけでスペースがほぼ埋まる狭い宿泊部屋で、ドリップコーヒーなど望めないし、なくてもいい。インスタントの粉をマグカップに放り込んだだけのお手軽コーヒーで十分なのがアイスの味覚で、ゆったりした気分が味わえれば満足だった。

 なので、くつろいでいるところにかかってきた内線電話のコール音は無視しようとした。こんな時間にかけてくるのは、会社かセールスのどちらかでしかない。

 わかっているくせに受話器をとってしまった。一応でも社内№2の立場にいる。トラブル処理の相談だとしたら、後になるほど片付けるのに手間がかかることになるから。

 そう思ってとった電話でオフが消えた。

 アイスがやって来たのは、配送センターや製造業の社屋が集まっている地区の一角。凹凸のないシンプルな社屋には、<ABP倉庫>の社名を入れたプレート看板が掲げられている。

 梅雨の湿度で左膝から下が重だるい。しかめそうになる眉を笑みで強引にひらき、屋内へと足を踏み入れた。

 なじみの整体師のリハビリ予約まで、あと半日ほど。彼女の手にかかれば、いっときでも楽になる。それまでは、もう少し我慢だ。すれ違う同僚たちと挨拶をかわしながらオフィスの奥へとすすんだ。

 社長の権威をあらわすような重厚な扉に、儀礼的なノックを食わせる。返事を待たずに入った。

 呼んだ男がボスにおさまることになったが、上下関係は形式的なものでしかない。

 本来はビジネスパートナーの関係だったのだ。

「オフを中断させられたから急ぎだと思ってきたけど、出直したほうがいい?」

 中心にいる、オーダースーツを着た同年代の男に声をかけた。

 アイスを呼び出したボス——麻生嶋ディオゴは、背後に護衛をひかえさせ、三人の地区幹部と膝を突き合わせている最中だった。

 ソフトシェルジャケットにアウトドアパンツというカジュアルな格好のアイスは、散歩途中のおばさんにしか見えない。そんな彼女を幹部トリオが、しかめ面で出迎えた。古顔だからといって、なんだその格好? といったところ。

 それとは対照的なのが護衛役の男だった。

 黒スーツにあわせたダークカラーのシャツ。文字どおりディオゴの影になっている末武すえたけが、無表情のなかにわずかな好奇心をのぞかせてアイスに会釈した。こちらは、急ぎで呼び出される仕事とはいったい……とか考えていそうだった。

 当のディオゴは幹部トリオの反応を無視して、

「タバコ休憩してきてくれ。続きは三十分後」

 人払いをして、アイスとの密談を優先させようとした。

「こっちの仕事は後回しで十分ってことですか?」

 幹部トリオのなかで年かさの男が、メモをとる姿勢のままで言った。ボスの意向を伺うような形にしていても、表情には不満があふれかえっている。

「頭が悪いな、タニガワ」

 タニガワの手から奪いとったボールペンを右手の中で握り込む。セルロイドのボディがひしゃげた。

「記録は弱みにもなる。ミーティングの内容ぐらい頭ん中に書き留めろ」

 それから幹部トリオを睨めつけた。

「おれは『休憩』と言ったんだ」

 動こうとしない黒ジャケットの護衛にも、

「末武、おまえもだ」

「おれのことは気になさらず——」

「アインスレーがおれに何をするっていうんだ。いいから」

 それでやっと足を動かした。アイスも、

「悪いね、末武」

 別に悪くはないのだが、一言いれておくと後腐れがない。

 アイスとしては待たされる方がまだよかった。後回しにされた幹部トリオのトゲトゲしい視線で刺された後頭部がむずかゆい。ディオゴに苦笑した。

「あたしを悪者にしてまで早く進めたい話って?」

「悪気はなかったんだ。ちょっとその……繊細な話だから、アインスレーが適任なんだ」

 でた。悪気はなかった。

 こういう弁解のときは、たいてい悪いと自覚できていない。何度となく繰り返されてきたので、あきらめが先にきていた。

「じゃ、早くすませて、タバコ休憩を長引かせないようにしよう」

 本革のソファに勝手にすわった。

 無垢材をつかった高級品なのに、クッションが柔らかすぎて身体が沈み込む。楽なようでいて姿勢が崩れて好きではないのだが、ディオゴがこのソファにこだわった。

 スーツの上着を脱いだディオゴが、対面にどかりと座りなおる。

 アイスに警戒心がおきた。

 上着を脱いだのは、こちらが格下であるからというより、プライベートが入った話をする可能性が大きい。ビジネスライクに切り捨てられない、長い付き合いがあった。

「怜佳と子どもを連れ戻してきてほしい」

 怜佳というのはディオゴの妻だ。やはり予感が当たった……ちょっと待て。

「子ども?」

 想定外のワードに、思わずおうむ返しをしてしまった。

「怜佳さん、いつの間に産——」

「産んでいない。預かってたんだ。名前は、高須賀未央」

「その子を怜佳さんが連れて逃げたと」

「居場所がわかったから、アインスレーが迎えにいってくれ」

「愛想つかされたなら、あきめるか、改めるかしないと。急いで元のサヤにおさめようとするより、別居して時間をおいたほうがいいんじゃない?」

「もうちょっと優しい返しはできねえのか? あと、愛想をつかされたわけじゃない」

「迎えなら自分でいきなよ。そのほうが誠意も伝わる」

「おれが動くと、その……まわりに知られる」

「妻に逃げられた男って?」

「ほんとストレートな言い方をするよな、アインスレーは」

「褒めても何も出さないよ」

「報酬はおれのポケットから出す。引き受けてくれるんだろ?」

「答える前から、こっちが了承したように訊きなさんな。それはともかく、ほかの誰かにやらせないわけがわかったよ。あたしになら知られて恥ずかしいことなんて、もうないもんね」

 部下たちに、妻もコントロール支配できない男と見られたくないのだ。

 面目にこだわる性分は、そこここに出ている。

 痩せ型のディオゴだが、ワイシャツの首周りや肩の生地は余っていなかった。スーツはもちろん、シャツまでオーダーメイドだからだ。安物を着ていたら相手にナメられるというのが本人の弁だった。

 そして怜佳は、ディオゴより二十歳ほど若い。自分よりはるかに若い女を妻にしたのも、見栄のひとつといえる。

「女房を連れ戻すなんてアインスレーにしか頼めない」

「わかった、わかった。子どものことをまず聞かせておいて」

 古い相棒に甘いのでなく、アイスにとっては断るほうが面倒だった。

 こうなった怜佳との顛末を訊くつもりはない。知らない方が仕事がスムーズにいく。

 ただし、子どもの周辺事情よっては仕事の難易度が変わる可能性がある。そこだけは確かめておきたかった。

「そう言うと思って写真は用意してある。いまの髪は肩先に届く程度にのびてるぞ」

 写真を受けとった。卒業アルバムから複製したのか、ショートヘアに制服姿の未央が、バストショットでこちらに視線をむけていた。

「この子のご両親は?」

「亡くなった」

「怜佳さんが後見人だったとか?」

「おれが知らないうちにな」

 ふと思い浮かんだことが当たっていた。ディオゴが渋い表情になったのは、直感で言い当てられた悔しさか、怜佳が〝主人〟に黙って勝手なことをしていたせいか。

 ともあれ写真を見れば、ディオゴが高須賀未央を引き戻したい理由がわかった。

 未央が着ている制服は、北エリアにある有名私立中学のものだ。ここに通わせることができる経済的余裕が、未央の保護者にあった。

 そこから推察できるのは、遺産があるといった金絡みだろう。

 ディオゴは表の帳簿にのせない<ABP倉庫>の販路拡大を計画している。買収や抗争諸々のための資金を喉から手が出るほど欲していた。

 ディオゴは暴力に対しては用心深い。社内での幹部会議にすら護衛の末武を控えさせるぐらいだ。ちょっとしたプライベートの外出でも、最低二人の護衛をつれて歩いた。

 その反面、経営面となると大胆になる。

 アイスとしては<ABP倉庫>の体力からして、小規模堅実路線がいいと考えていた。

 商売を大きくして儲けを増やせば、それだけ危険やトラブルも増える。さして大人数の構成員がいるわけではないから、対処しきれなくなる危うさを秘めていた。

<ABP倉庫>の代表にディオゴをすえたのは、の配慮が必要になると考えたアイスが身を引いたのだが、ディオゴはそこには思いが至らない。

 社名にしても、荷物をいれる大きな入れ物だから「BPビック・ポケット倉庫」という社名候補の頭に、麻生嶋代表をあらわす「A」をつけた。立ち上げたのは、アイスとディオゴのふたりでだったのだが。

 安着な社名が表すとおり、倉庫事業は裏仕事のカモフラージュとしてスタートした。

 いまでは正業として、社員に保険や手当もつけられるようになり、会社としても体裁はすっかり整っている。なのに思い出したように経営が傾くときがあった。不相応の販路拡大や売り込みをかけるディオゴの悪癖がおさまらないのだ。

 そのたびにアイスら裏事業担当者が仕事を増やして資金を調達し、それを元に倉庫スタッフが奮闘する。

 ワンマン社長を辞めさせるのは難しい。かといって、スネに疵持つ身の転職では、裏仕事の一択しかなく、戻りたくない者は他所にいくこともできない。

 唯一、ディオゴに物申すことができるアイスは、現状打破を期待する視線を浴びること度々だった。

 立ち上げた<ABP倉庫>に愛着がないわけではない。かといって、ディオゴとのあいだに波風を立てる気力もすでにない。ディオゴと組むことを決めたのは、自分にない才をディオゴに認めたアイス自身であることもあり、ただもう引退後の生活に思いを馳せるばかりになっていた。

 仕事に区切りをつけられる頃合いからして、あと少しで望みが叶いそうというところだった。

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