第9話 どうしても歌えないんだ

「田中くん、何飲む?」

「あ、アイスコーヒーお願い。ありがと」

 扉が開くと隣の部屋から大熱唱が飛び込んでくる。飲み放題のグラスを持ってちひろはドリンクバーに向かった。

(カラオケなんていつぶりだっけ)

 小学生のころはよく家族で来たが、中学生になり部活を始めるとめっきりその回数は減った。高校生になるとそんな機会はすっかりなくなり、そもそも真面目な達也は放課後の寄り道を基本的にしなかった。ましてやクラスの人気な女の子とこんな場所にくるなんて経験は勿論ない。


 今日の放課後、いつものようにホームルームが終わり、教室に残っていると多くの生徒が居残りをしていた。どうやら文化祭の出店のシフト、準備物などを決めるらしい。学級委員のはずなのに、そうした文化祭の出し物について任せっきりになってしまっていることに達也は罪悪感を覚え、仕切っている女子生徒に「ごめんね」と謝った。すると女生徒は笑顔で、

「いいっていいって! こういうの好きなやつって絶対いるから! 私とか」と快くいってくれた。

「それに、ちひろと何かやるんでしょ? シフトもまぁ無理ない範囲にしとくよ。部活も何もやってないやつもいるからさ」

 女子生徒は強制的に残らされている何人かの男子生徒の方を見る。男子生徒は蛇ににらまれた蛙のようにびくっとした後、あははと苦笑いを浮かべた。こうした自由が利くことも、ちひろの人徳によるものだと心の中で感謝する。

「ありがとね。で、その鈴木さん、どこ行ったんだろ」

 教室内には姿がない。何か連絡がきているかと思いスマホを開くが、特に通知もきていなかった。

(どこ行ったんだろ……ま、とりあえず待つか)

 そう思い、達也が自分の椅子に腰をかけようとしたときだった。

「田中くーん! 行くよー!!!」

 窓の外から呼ばれる声がした。乗り出してみてみると、手に大きな袋を掲げたちひろがこっちを見て達也の名前を呼んでいる。

 周囲の人間が興味本位の目線を向けてくる。

「田中くんも大変だねぇ。よ、色男」

「あはは……」

 さっきの女生徒がおじさんのような茶化し方をしてくる。達也も苦笑いを浮かべるしかない。こうした奇異の視線にもちひろの強引さにはこれからも慣れることはないだろうなと思いながら、急いで鞄を手に取り、逃げるように教室を後にした。


 その後は半ば強引にカラオケボックスに連れ込まれた。目的地を聞いたのは既に着いた後であり、嫌そうな顔は勿論ちひろには通用しない。教室が使えない以上、どこで練習するかという問題もある。サイファーのように路上でもいいのではとも思ったが、そんなことを言う暇もなく、ちひろは嬉々として受付を済ませていった。

(まぁ歌うわけじゃないからいいか……)

 大きなモニターからは延々と最近の流行の音楽やこれから注目される人と銘打たれたインタビューが垂れ流されている。そのどれもが自身に満ち溢れていて、自分とは違う世界の人間だなとぼんやりと考えていると、ちひろがドリンクも持って戻ってきた。両手に飲み物の入ったグラスを抱えていたため、ドアをあけられないことを察し、達也が開いた。

「ありがと! ほいアイスコーヒー。あ、シロップとか忘れたからとってくるね」

「あ、いいよ。ブラックで」

 最近少しずつコーヒーの美味しさがわかってきた。ただ、着実におじさんになっていっているという証拠な気もして、少し複雑な気持ちだった。

「え、ブラック? おとなだねぇ……」

 ちひろが尊敬の眼差しを達也に向けた。

「いや、ほんとに飲むようになったの最近だけどね。鈴木さんはそれ、コーラ?」

 先日自販機に飲み物を買いに行ったときもコーラを頼まれたことを思い出す。

「うん! あんまり炭酸はのどによくないとかそんな話も聞くけどさ……美味しいのです。これがもう」

 そういって一口、グラスに口をつける。炭酸の刺激に一瞬顔を歪めるが、次の瞬間プハーっと、全身に染みわたった様子でグラスをテーブルに置いた。その姿は達也に父親が仕事終わりにビールを飲み、疲れを癒しているところを連想させた。

「いや、たまらんですな」

「あはは、おいしいよね」

 ふと、ちひろの置いた大きな袋が目に入る。その気になった様子を察したのかちひろが、ふふふと自慢げな表情を浮かべた。

「気になる?」

「あ、いやなんだろうなーって」

「仕方ない! 見せてあげましょう」

 ちひろが袋に手を入れ、中身を取り出し、机に広げた。それはTシャツだった。黒い生地が基調で、胸の真ん中のところに白文字でNEとブランドのロゴが書かれている。クラスメイトの男子がたまにつけているキャップやリュックでそのロゴは見たことがあった。高校生にとっ

ては比較的高額といえるブランドで、羨ましがっているのを見たことがある。目の前に広げら

れたTシャツはかなりオーバーサイズで、身長が百五十センチ足らずのちひろが着るには大き

すぎるようにも思えた。前、GMBで見かけたときもかなりぶかぶかの服をきていたが、そん

なレベルではないように思える。下手したら膝まで隠れるんじゃないだろうか。

「どしたのこのTシャツ」

「本番の衣装! 田中くん用だよ! プレゼントフォー・ユー」

「えええ! いやいやもらえないよ!」

「大丈夫! 私のお父さんがもらったやつで誰も着ていない新品だから綺麗だよ」

「あ、いやそういうわけじゃなくて」

 同級生の話はうろ覚えだが、普段着はプニクロで済ませている達也にとって、そんな高級なものは受け取るのは気が引けた。いかに貰い物だろうが、それは達也にとっては関係ない話だ。

「お願い。受け取って。田中くんには迷惑もかけてるし、感謝もしてる……。てかこんなんでそのお礼になるって思ってるわけじゃないけど……」

 そういってちひろは少し言葉を濁した。真剣な眼差しから一転、もじもじと恥ずかしそうな表情を見せる。

「それに……お揃いでステージに立ちたいの……本当はオリジナルとか用意したかったんだけど、時間ないし」

 そういわれて達也は思い出した。ちひろがGMBで着ていた服にもこのロゴがあったことを。ちひろの仲間意識の強さはこの数日間で十分に伝わっている。これまで孤独な闘いを続けて

いたちひろはそういったみんなでの活動に大変な憧れをもっていた。

(ま……そういわれたら断る理由もないか……)

「わかった。ありがとね」

 達也がそういうとちひろの顔がぱぁっと明るくなった。

「えへへ! ううん、ありがと! それじゃぁ歌いますか。ウォーミングアップだよ」

 そういってちひろは達也にデンモクを差し出す。

「いいよ、僕は。鈴木さんどうぞ」

 想定をしていなかったわけではない。これが本来のカラオケボックスの利用方法だ。だから

もし振られたときの断り方をあらかじめ決めていた。ただ、ちひろがこれで引き下がってくれ

るわけがなかった。

「いや、今日は田中くんの歌声を聞かないと帰れないよ」

「いやいや、僕はいいよ」

 そういってデンモクをちひろの前に差し戻す。

「こないだのサイファーのときも思ったんだけど、田中くんは自分を殺しているような気がしてさ。だから歌を思い切り歌うとかそういう練習でもいいのかなと思ってさ」

 ちひろが何食わぬ顔で言ってくる。勿論、悪意はない。達也が人前で歌いたくないことをち

ひろは知らない。知るわけもないのだ。だからこれはあくまで練習の一環だと理解はしている。

でも無理だ。想像するだけで気分が悪くなってくる。

「それに田中くんの歌も聞きたいんだ。田中くんの声好きだし」

 そういってマイクを渡そうとしてくるちひろの顔を見ることもできない。うつむいたまま、

精一杯の声を絞り出し、無理だよといった。自分でも情けないと思う。もう一年以上も経過し

ているのに、まだ切り替えることができないなんて、引きずり過ぎだとも思う。だけど、その

マイクを受け取ることはどうしてもできない。

「ね、お願い。どんな歌でもいいから聞きたいなって……」

「無理だよ!!」

 ちひろの声を咄嗟に大声でかき消してしまう。ハッと我に返り、急に大声を出したことを謝

ろうとするが、上手く言葉が出てこない。沈黙の中、相変わらずモニターの宣伝だけは流れ続

けた。

(……やらかした……)

 達也は心の中で自分のせいで重くなってしまった空気をどう取り繕えばよいかを思案する。しかしそう上手くは思い浮かばず、引き続き沈黙だけが流れた。

「あ……ごめんね」

 ちひろがそんな中、謝罪の言葉を達也に伝えた。ちひろからすればいつもの練習の延長線上であり、そこまで強要しているつもりはなかった。しかし達也の様子を見て、自分がすごく不快な思いをさせてしまったのだと感じ、謝罪をしてきた。

 達也はそんな謝罪をさせてしまったことを申し訳なく思った。そしてゆっくりと口を開いた。

「……どうしても歌えないんだ……」

「え……?」

 過去の記憶を辿る。ちひろには一切関係ない話だし、人に話したこともない。どう伝えればそこまで気を使わせずに済むだろうかと思案する。別に言う必要もないと思ったが、自分で思っていたより深刻な以上、歌えないという事実はきちんと伝えておいた方がよいだろう。

「中学の頃の話なんだけど、少し嫌なことがあって。それから人前で歌うことがどうしてもできなくなっちゃったんだ」

 達也は作り笑いを浮かべながら、淡々と言葉を紡いでいった。

「もしさ……」

「え……」

「もし、田中くんが嫌じゃなかったら聞かせて? 本当に無理に話してほしいわけじゃないけど、でも私は田中くんのこと知りたい。それに、無遠慮で無神経なことして、本当にごめんなさい」

 ちひろが達也に向かって深々と頭を下げた。

「え、いやそんなの全然いいよ。僕が気にしすぎなだけだし。鈴木さんが気に病む必要なんて全くない」

「ううん、私が本当に悪い。ごめんなさい」

 今まで聞いたことのない真剣な声で謝罪をするちひろに達也は困惑する。こうして気を使わせるのは達也の望むところではない。

「大丈夫だよ。それに……」

 勿論、あまり人に話したいことではない。でもなぜかちひろだけには聞いてもらいたい気持ちが少しだけあった。それはちひろともっと対等な存在でいたいからだった。ちひろはラップに対しての情熱を遠慮なく達也にぶつけてくる。それに同じように応えたいが、どうしても達也は自分の過去のトラウマが足を引っ張っているような気がしていた。だからこそ自分の過去を話して、それを乗り越えることで、対等な存在になりたいと思っていた。それに、考えすぎてしまうことを個性と言ってくれたちひろの気持ちに応えたいという気持ちもある。

「全然面白い話じゃないし、大したことでもないよ?」

「うん。それでも聞きたい」

「……わかった」

 一度大きな深呼吸をする。記憶を辿りながら、一つ一つの言葉を選び、積み上げていくように、ゆっくりと達也は話し始めた。

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