いつか泡と消えるまで

田辺すみ

残炎

 蒸し暑い、蝉の五月蝿い午後だった。槙野悠吾はコンクリートの照り返しにふらふらしながら配達をしていたが、坂を下り馴染みの『エストレア』に差し掛かったところで呼び止められた。

「変わらないな」

 濃い木漏れ日に揺れる深く切れ込んだ目元に束ねた黒髪。汗で湿った褐色の肌と白いシャツ。地元に再就職した槙野であるので、この街の人間なら大体分かるはずなのだが、見慣れない美丈夫だ。内心首を傾げていると、青年は薄い唇をしならせて笑った。

「戻ってきた」

灘波なんば……? レイか?」

 小中学で同級だった灘波伶、レイモンド・ナヴァロは、母親が日本国籍でないためか、その容姿のためか、それともいじめっ子や教師に物怖じせず振る舞うせいか、目立つ存在だった。槙野と特に接点が有ったわけではない。自分は子どもの頃から適当で地味な正反対の性格だった、と槙野は自覚している。それでも何度か放課後一緒に遊んだことがある、はずだった。今の今まで忘れていたが。

 バー『エストレア』のマリア・ママが怪我をして、店は休業している。槙野も時々訪れるので知っていた。『エストレア』はこの地域の老舗フィリピン・バーで、酒だけではなくツマミも一品料理も美味しい。お洒落なバーというよりは、ほとんど地元民の寄り合い所みたいになってしまっている。

「もしかして、レイが店を手伝うのか」

 別々の高校に行ったため、もう10年近く顔を合わせていない。風の便りによると、国際旅客船クルーザーのアテンダントになって、各国を回っているはずだった。

養母かあさんには嫌がられたけどな」

「本当は嬉しいんだと思うよ、マリアさん。俺も何かできるなら言ってくれ。よく飯を食わせてもらってたんだ」

 知ってる。顧客名簿にマキノの名前があったから。俯いてほつれた髪を耳にかけ、長い睫毛が夏の陽光を弾いて瞬く。槙野は何とも言えない気持ちになって、じりと後ずさった。記憶の中のレイはもっとガキ大将だった。擦り傷が絶えず、白い歯を見せてからからと笑っていた様子しか思い出せないのに。

「カウンターの中のことは大丈夫だ。飲みに来てくれたら嬉しい」

 そこまで言って、レイは肩を竦めた。まあその、営業に聞こえるかもしれないが、嫌じゃなかったら。槙野もぎこちなく笑って答えた。必ず。遠くから夕立の気配がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る