薔薇喪失

剣城かえで

第一部.辺獄の流れ

序幕. 『戴冠式』

 黒洞々の闇から、指の長い白い腕が、鎌首を持ち上げた蛇のように伸びていた。闇の前には光があったが、闇と光を隔てるようにして、鋭い棘を生やした荊の格子が立ち塞がっている。白く指の長い手は、棘だらけの細かい格子を通り抜けることができなかった。

 白い手は荊の格子に、蔓薔薇のように指先を巻きつける。柔らかな動き――その刹那。白く美しい手は獰猛な覇気を手の内に宿して、荊棘を掴んだ。棘を握りつぶすような気迫が、闇の奥から蟠る。手のひらの内側からは、搾り取られた生と死の赤が滴る。流血が哄笑を上げていた。夜が晴れ行く薄れた青の匂いに、不穏が脈を打っていた……


 後ろ手に縛られた両手、透けるように白い手。その左の手のひらが、足跡の代わりに滴る血で終わりへの道標を作っていた。粗末な布で目隠しをされた痩躯長身の若者は、先導する死神によって処刑台の階段を踏みしめている。死刑囚は無言のうちに処刑台にかけられる。続いて階段を上がってきたのは、処刑を生業とする死神の中でも位の高い死神だった。

 死神は運命に忠実だった。決まった人間を決まった日時に殺すことを仕事にしていた。だが死神たちは、この死刑囚に対しては仕事という感覚で向き合うことを放棄して久しかった。死神という摂理の使者でありながら、不似合いな言葉で以て動機を表すとしたら、その理由は私怨だった。

 刑吏の死神は晴れやかな早朝の空を満足げに見上げていた。断頭台で出番を待つ斜めになっている刃が陽光を撥ねる眩ささえ、祝福のように見つめていた。処刑台の周りには、大勢の死神たちが控えている。

 刑吏の死神は集まった群衆の方に目線を向けた。残酷な儀式の観客は、大勢の『彷徨う虚ろ』であった。見える限り、視界の彼方まで、醜い姿をした蛆虫同然の存在価値しか持つことを許されていない虚無の影が連なっていた。


「これから罪人の処刑を始める」


 死神が厳かに口を開いた。告げられたのは、死刑囚の罪の名前だ。


「罪状、罪の名は――『美』。過ぎたる美しさは死で贖わなければならない。これより極刑に処す!」


 彷徨う虚ろたちが歓喜の声をあげた。沸き立つ死刑台の下が見えていない罪人は、相変わらず沈黙している。罪状として掲げられた美というものが、果たしてどのような罪なのか、何を以て罪なのか。その場の死神たちも、死という娯楽に熱狂する虚ろたちも誰一人として分かっていなかったが、群衆特有の狂気は波紋となって広がり、美という罪はどのようにして犯されるのかなど、誰一人として考えてはいなかった。

 死神の刑吏は死刑囚に命じた。


「さあ、名を、名前を言うのだ。名を放棄することで、その命を明け渡すのだ」


 しかし囚人は名を言わなかった。はぐらかしているのか、それが真名であるのか定かではないが、薄い唇が嘯く。


「僕の名は……薔薇柩、とでも、言っておこうか」

「往生際が悪いことだ……早く、名を」


 断頭台に異変が起こっていた。囚人の首を切り落とす瞬間を待っていたはずの分厚い刃が、毒されたかのように変色をはじめていたのである。処刑台の下から変化に気づいた死神が、台を上がり、処刑者に耳打ちする。刑吏が断頭台の刃を仰いだときには、変色は激しさを増していた。高速で刃が錆びついている。


「致し方ない、刑を急ぐ」


 死神刑吏は極刑を強行した。固定されていた断頭台の刃が、合図とともに落下する。だが落下速度を遥かに上回る速度で、錆びついた刃は塵に姿を変えていた。鉄錆びた塵、砂状に崩れながら落ちた刃は、死刑囚の首を断つ前に風の嗤い声に攫われていった。刃のない処刑台が残り、歓喜していた群衆たちは気まずさとは異なる不気味な静寂に包まれる……

 死神刑吏は剣を振り上げると、娯楽と威厳が白ける時間を作らずに、死刑囚の首を切り落とした。高圧の血液が吹き出し、目隠しをされた黒緑色の長い髪を横に結わいた頭部がごろりと転がる。死神は運命の使者としての使命を侮辱されたと言わんばかりの態を装ってはいたが、そこにはもう使命という高邁はなく、吐き捨てた言葉から滲むのは職務の遂行とは違う感情である。


「人生に幕を引いた気分はどうだ、化物め……!」


 死刑囚の首は血の海に揺蕩うていた。横向きに転がった頭が、流れることを禁じられた血潮に顔の半分を沈めている。動かない胴体に誰も視線を向けないうちに、刃と同じく、手錠が赤錆びて崩れている。

 死神刑吏が切り落とした首を群衆の前に掲げ見せようと近づいたとき。首が、口を利いた。血の海に、生と死の境界を惑溺する首は、生きているわけでもないのに、同時に死ぬこともしていなかった。


「もっと華やかに殺しておくれよ、これじゃあいい夢が見られそうにないじゃないか」


 死刑囚の身体が脈動を始めていることに気づいた死神刑吏は、弾かれたように指示を出した。


「罪人を拘束しろ!」


 命令は早かったが、幻は命令よりも早い。流れた血の海が燃え上がるような勢いで、揺れる業火のように生み出して伸ばしたのは、血の色をした獰猛な薔薇だった。血の海は瞬き一つが要する時間よりも速く薔薇の海と化す。死刑囚の身体を拘束する前に、控えていた死神たちは血から生まれた薔薇に絡めとられていた。死刑囚の意思という強力な神経が通う荊棘が、死神たちを次々と鋭い棘で貫き、縛り、その死を喰らっていった。

 薔薇は死神刑吏の剣に絡みつき、柄を離さなかった刑吏そのものにも巻きついた。その間に、首のない身体はゆっくりと起き上がっている。手錠は砂になってなくなっていた。死刑囚は薔薇の海に手を伸ばし、誰にも邪魔されることなく血まみれの首を拾っている。目隠しが血を吸ってずれていた。覗いた片目の伏せられた長い睫毛が、血に濡れて奇妙な涙を流しているようである。

 死刑囚は刃のなくなった断頭台に腰掛けた。流れた血と薔薇の海は、高貴な赤の絨毯に見えた。死刑囚は切り落とされた頭部を、首の断面に載せた。

 接着面が炎を放つ。滴っていた血が薔薇の花びらになって、祝福のように空を舞う。切断の傷は影もない――死刑囚は目隠しの端をつまむと、しゅるりと解いた。現れたのは、隠さねばならない美貌である。呼吸をするだけで誰かの命を奪い、存在するだけで他の美を亡き者になるまで否定する美が、そこにはあった。


「幕引きというのはね」


 それは最早、死刑囚ではなくなっていた。神びるあまりに禍々しい美貌、麗人と称するべき魔性と覇気を持つ美の主人は、荊棘で縛り上げた死神刑吏に微笑みかける。


「別の物語の、幕開けでもあるんだよ」


 死神を喰らい尽くして腹を満たした薔薇は断頭台の亡骸に絡みついた。麗人の瞬き一つで、薔薇は断頭台の死を解体した。崩れた死は薔薇と麗人の心によって構成要素を練り直される。断頭台は再構築されて、麗人が腰掛けていたものは薔薇に彩られた玉座になっていた。

 群衆、彷徨う虚ろの群れは凍りついている。貪られた死神たちが沈む薔薇の海に、麗人は優雅に屈み込んだと思うと、手のひらに血を掬いとった。

 掬い上げた血にそっと、息を吹きかける。血は赤い花びらになって、ひとひらの美を宿した無数のかけらが空を舞い、美を持たない虚ろな群衆たちに降り注いだ。彷徨う群衆は嬉々として、降り注ぐ薔薇を奪い合いながら拾いはじめる。降り注ぐものが、紙幣でもあるかのように、降り注ぐ美を我れ先にと取り合って、歓喜と狂気を綯い交ぜにした熱狂にいつまでも燃えていた。

 麗人は玉座に座ると、血濡れた手のひら、完全が過ぎる造形の指先で、薄い唇をなぞる。

 幕を下ろしたつもりが、幕を開けてしまった不幸。薔薇による惨劇。

 残ったものは渇きだった。そして、美を彩る、獰猛な薔薇たち。罪の名は何処へ消えたのであろう。麗人は何を思っても変わらない微笑みで、美を奪い合う影の群れを、いつまでも見つめていた。

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