第4話 おやすみ

 「めっちゃ気持ちよかったですぅ……」


 銭湯から家に帰って来た頃には、時刻はすでに深夜二時を回っていた。


 俺が貸したぶっかぶかの部屋着を着た萌香は、脱力したようにストンとベッドへ腰を下ろす。


 「俺も久々に湯船に浸かって疲れが取れた」 


 帰り道に薬局で買った明日の朝ごはんやら萌香の歯ブラシやらをビニール袋から出しながら俺は言った。


 「そういえば、圭太くんは今日バイトか何かあったんですか?」

 「ああ、今日は夜の十一時までバイトだ。大学も夏休みで時間だけは有り余ってるから、最近は学生というより社畜だな」


 俺が言うと、萌香は申し訳なさそうな顔をした。


 「そうだったんですか……。ただでさえ疲れているのに、押しかけてしまって申し訳ないです……」

 「いいって。ていうか、家に誘ったのは俺だし。はいこれ、萌香の歯ブラシ」


 俺は歯ブラシを萌香に手渡した。


 「ありがとうございます。……なんか本当、至れり尽くせりですね」

 「たまには人を頼ってもいいんじゃねぇの。現状、人を頼らないと生きていけないだろうし」

 「たしかにそれは否定できません……」

 「でも、援交とかはするなよ。自分のことは大切にした方がいい」

 「はい……」


 案外素直に頷いた。そりゃあ萌香だって嫌なことは嫌なはずだ。最終手段は体を売るしかないと言っていたが、本当はそんなことしたくないに決まっている。


 「だから萌香、今は俺を頼れ。これも何かの縁だ。できる限りのことはするから」


 言った途端、萌香の瞳がやけに輝き出し、次第にその頬を涙が滴った。


 「ちょ、おい……急にどうした……」

 「ごめんさい……。私は本当にどうしようもない人間なのに、こうして手を差し伸べてもらっていることが申し訳なくて……でも、嬉しくて……」

 「いいんだよ。何も問題はない」


 俺は涙を拭う萌香の隣に腰を下ろし、背中をさするとかそういう気の利いたことはできなかったが、慰める気持ちで横にいた。


 やがて萌香の涙が収まってから俺は再び立ち上がり、クローゼットにしまってあった冬用の毛布を取り出した。


 「寝るときだけど、萌香はそのベッドで寝てくれ。俺は床にこの毛布敷いて寝るから」


 俺の言葉を聞いた萌香は、赤い目のまま勢いよく立ち上がった。


 「そんなの駄目です! 私が床で寝ます!」

 「いやいや、来客を床で寝させるわけにはいかないだろ」

 「私は来客とかではありません! なんて言うか……し、侵入者みたいなものですから……!」

 「侵入者……? どこの誰が自費で侵入者を銭湯に連れて行くんだよ」

 「でも……」

 「いいから。これは命令だ。萌香はベッドで寝ろ」


 埒が明きそうになかったので、俺は少々強めな口調で言った。


 そうすると、さすがの萌香も俯いてそれ以上何か反論してくるということはなかった。


 「本当にありがとうございます……」

 「うむ」


 それから俺たちは歯を磨き、ベッドと床にそれぞれ別れて眠る体勢に入った。


 「それじゃあ、電気消すぞ」

 「はい」


 正確には完全に電気を消すわけではなく豆電球モードにしたので、暗くなってもまだ微かに家具や萌香の姿は視界に入っていた。


 床で寝るのは初の試みだったので、俺は寝る体勢を取るのに少々苦労したが、なんとか試行錯誤して自分にとって一番心地の良い体勢を確保した。


 部屋にいつもの静けさが戻ったところで、俺はなんとなく萌香のことについて考える。


 萌香は家出をしたと言っていたが、家出にしては大掛かり過ぎるような気がする。実際高校生の家出というと、一晩だけ友達の家に泊まって次の日には帰るとか、そういうレベルのものだと思っていた。だが話を聞く限り、萌香は少なくとも三日は外で過ごしている。それも、挙げ句の果てにはゴミ箱に入り、体を売ることも止むを得ないと考えてしまうほどだ。


 つまるところおそらく萌香の家出は、普通の家出よりもその背景にあるものが重大なのだろう。


 もちろん俺にはその背景を知りたいという気持ちが確かにある。だが、そんな安易に尋ねていいものなのかという思いもあった。ただ、もし明日以降もこうして二人で過ごすというのならば、そういうことは知っておいた方がいいような気もする。さすがの俺も、なんの事情も知らないまま少女を家に留めておくというのは気が引けた。


 だから俺は————。


 「……もう寝たか?」

 「……寝ましたか?」


 俺と萌香の声を出すタイミングが完全に被った。


 「…………」

 「…………」

 「……あ、えっと、どうぞ」


 妙な間が空いた後で、萌香が俺に発言の優先権を与えてくれた。


 こうなったら、思い切って尋ねてみよう。


 「じゃあ聞くけど、その……萌香は家出をしているって言ったよな?」

 「はい」

 「萌香はどうしてこんな大掛かりな家出をしているんだ? 高校生の家出ってこう、なんかもっと可愛いもんだと思ってたんだけど」

 「……そう、ですね。確かに自分でも大掛かりなことをやっている自覚はあります」


 萌香はそう言ってから、壁側に向けていた体をこちら側に向け直した。


 「ちょうど私も、自分の今までのことについて圭太くんに話そうと思っていたところです」

 「……そうか、じゃあ聞かせてくれ。今に至るまでの経緯を」

 「はい」


 それから萌香は、淡々と話し始める。


 「まず、私の実家は鳥取なんです」

 「鳥取!? どうしたら京都まで来ようと思うんだよ……」

 「色々あるんですよ。ちなみに実家は鳥取の中でも田舎の方にあって、それはもう、本当にど田舎にあるんです」

 「うん」

 「それでですね、端的に言いますと、私には許嫁がいるらしいんです」

 「許嫁!? 現代日本で!?」


 漫画とかではよくあるシチュエーションだが、まさか未だに『許嫁』なんてものが存在しているとは驚きだった。


 「圭太くんもおかしいとおもいますよね! いまどき許嫁なんて!」

 「あ、ああ……。それはさすがに個人の自由の剥奪というかなんというか……」

 「ようやく理解者が見つかって私は嬉しいですよ……」

 「でも、許嫁がいる『らしい』ってことは、まだその相手のことはよく知らないってわけか」

 「鋭いですね。なんなら会ったことすらありません。話によれば、どこぞの町の町長の息子だとかなんとか……。というのも、私の実家はもともとその地域の地主だったみたいで、今でも地域行政の中心を担っているんです。そんな私の実家には未だに古臭い風習とかが色々あって、そのうちの一つとして結婚相手を親が見繕うというのがあるんです。これって時代遅れにもほどがあると思いません?」


 萌香の声音はかなり憤っていた。


 たしかに、現代日本において親が勝手に結婚相手を見繕うというのは、あまりのも時代遅れだと思う。


 「つまり萌香は、実家のそういう方針に耐えかねて家出をしたってわけか」

 「まあ、それも一つです」

 「他にもまだ理由があるのか?」

 「はい。むしろこっちの方が重要です。私は夢のために家出をしました」

 「夢……」


 突然出てきた『夢』というワードに、俺は思わず言葉を詰まらせた。


 そして今このとき、心なしか萌香のことが少しばかり輝いて見えた。


 「私には、イラストレーターになるという夢があるんです」

 「イラストレーターか……。いい夢じゃん」

 「ありがとうございます……。嬉しいです。今まで自分の夢を言っても、基本的に嘲笑われていたので」

 「夢を持っているだけでも立派だろ。ましてや萌香の場合、家出をしてまで叶えたい夢なんだろ? それってすごいことだと思うけど」

 「そうですかね……。でも本当に、この夢を叶えるためには家出をするしかなかったんです。だって実家にいたら高校卒業と同時に許嫁と結婚させられて、自分が希望している進学先とか仕事とかは全部無視されるんですから……。そんなの私、絶対嫌です。自分の人生、自分の好きなように生きたい。私はそのために、家出をしたんです」


 やはり思っていた通り、萌香の家出は単純なものではなかった。


 そしてそれを聞いた今、俺は萌香のことを応援してやりたいと思っていた。


 「なるほどな。家出をした理由はよくわかった。ちなみに、親には何も言っていないのか?」

 「いえ、さすがに置き手紙は残しておきました。一応、友人の家に泊まるという設定にしています」

 「そうか。さぞかし心配しているだろうけど……。てか、なんで家出先が京都なんだよ」

 「それは完全に行き当たりばったりの結果です。適当に電車に乗って、一番初めに着いた大きな街が京都だったので。京都に着いた初日は普通に観光とかしてましたけど、やっぱりいい街ですね、京都」

 「それは同感だな。俺は大学進学で愛知から京都に来た身だからまだ数ヶ月しか京都に住んでないけど、都会過ぎず田舎過ぎずって感じがいい」

 「圭太くんはどうして京都の大学に進学したんですか?」


 萌香が尋ねてきたので、ここらで俺も少しばかり身の上話をすることにした。


 「どうしてって聞かれると、なんとなくって答えるしかないんだけど、少なくとも俺は県外の大学に進学したかったんだ。それは別に実家が嫌だからとかそういうのじゃなくて、ただなんとなく、県外に出て一人暮らしをすれば何かやりたいことが見つけられるんじゃないかって思ったんだよ。俺が通っていた高校は全然進学校じゃなかったけど、俺は特に部活とかやっていなかったから、なんとかそれなりに勉強して第一志望だった今の大学に受かって、今に至る」

 「圭太くんも十分立派じゃないですか! 本気の努力ができるってすごいことですよ!」


 褒められて、俺はつい苦笑いをしてしまう。


 「いや、そんな大したことないから。行きたい大学に進学できたのはよかったけど、大学に受かることだけを考えていた俺を待ち受けていたのは怠惰な日々だった。そりゃあ大学生だから怠惰になるのもしょうがないっちゃしょうがないけど、怠惰にも良い怠惰と悪い怠惰がある」

 「良い怠惰と悪い怠惰……?」

 「ああ。大学の授業をサボって単位を落としたりしても、周りに友達がいて大学生活そのものは謳歌しているっていうのは良い怠惰。対して、大学の授業をサボって単位を落とすは、サークルにも入らず友達も出来ずで無意な日々を過ごすっていうのは悪い怠惰な。俺は後者の悪い怠惰なんだよ。最近はバイト始めたからまだマシだけど、まるで大学生らしい夏休みを過ごしていない。……まあ、それもこれも、それといった行動を起こさない俺が悪いんだけど」


 俺のだっさい告白に、萌香は何も言い返してこなかった。


 黙っていてもしょうがないので、俺は正直に続ける。


 「だからな、萌香が現れてくれて、今ちょっと嬉しいんだ」

 「え……?」


 萌香は拍子抜けしたような声を出した。


 俺も自分で言っていて笑えてくる。


 「おかしいよな、家出した少女を家に上げて嬉しいとか。まるで淫行おじさんみたいだ。でも、嬉しいのは事実なんだ。なんていうか、その……ようやく俺の大学生活にも変化が訪れたっていうか、おもしろいこと……って言ったら萌香に失礼だけど、単調だった日々が変わっていくような予感がして、なんかこう、ワクワクしているんだ」

 「ふっふっ……なんですかそれ」


 俺の言葉に、萌香は声を出して笑ってきた。釣られて俺も笑ってしまう。


 「すまんすまん、やっぱ俺っておかしいよな」

 「はい、おかしいです。……でも、そういうところ、嫌いじゃありません」

 「……そうか、ならよかった」


 それからしばらくの間、俺たちは二人で笑い合った。


 誰かとこうして笑い合うというのは久々で、こんなにも愉快なものなのかと実感させられる。


 「ふぅ……さすがにそろそろ寝るか」

 「そうですね、すぐには寝付ける気がしませんけど」

 「とにかく寝る努力はしよう。……じゃあ、おやすみ」

 「はい、おやすみなさい」


 そして俺たちはまぶたを閉じた。


 笑い合った後でも……いや、笑い合った後だからなのか、案外すぐに寝付けた。

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