第30話 出かけて海鮮丼(3)


 高速道を抜けたら、そこは潮の香り漂う港町でした。

 無言のドライブによって辿り着いた田舎町を私たちは歩いている。

 道端に並ぶ見るからに木造の家々。

 その軒先には、何匹ものアジが開かれて干されている。

 すごい。

 あまりに漁港な光景に、遠くに旅行に来たと錯覚する。

 でも、ここは都心からたった二時間弱の距離にあるのだ。

 レトロ好きならコスパがよいだろう。


「海……目の前ですね……」

「そうだねぇ」


 和やかに話しているわけだが、実は私は、少し肩身の狭い思いをしていた。

 比喩ではなくて、物理的にである。

 私の隣を歩く海斗くんは、必ず私より車道側を選んで立っていた。

 以前、駅前で彼が同級生の女の子――伊藤ゆみさん――をエスコートしてたときと同じだ。

 それは、嬉しかった。

 こんな彼からしたらおばさんの年齢であろう私でも、女子高生と同じ扱いしてくれるとわかったのだから。

 それは、嬉しいのだ。

 ただ。


「あの、海斗くん?」

「うん……?」

「そんなに道路側にいかなくても平気だよ……?」


 やたらとこだわるのである。

 こだわりすぎて、さすがに歩きにくいまであった。

 とにかく一分の隙もなく、私の側から離れない。

 道路の反対側に移動すれば必ず位置を変え、車が来たら過剰なくらい寄ってくる。

 でも、ここは観光地とはいえ平日の漁港なのだ。

 車通りも少ないし、道幅だって大人が危険を覚えるほど狭い訳ではない。


「あ、ごめんなさい……」


 彼は素直に頭を下げる。


「でも、歩道がないし……危ないから」


 場所は変えなかった。

 意外と頑固である。

 私には、ちょっと意外に映る。

 もしかして……そういうのが大事だと思ってるのかしら……

 紳士は車道側を歩かないといけない、みたいな。

 今どきの考えかたじゃないけれど、純朴な海斗くんならありえそうである。

 そう思うと、彼の姿が年相応にかわいく見えてきた。

 顔は大人びていて、手は大きくて、指は長くて、ゴツゴツしていて。

 それでもまだ、お年頃の男の子なのよね。

 まぁ、今の状況は紳士というより、主人の横を離れないドーベルマンみたいだけど……


 私は、凛々しい大型犬と散歩しているような錯覚を覚えながら、のどかな田舎街を歩く。

 岸には、海底の魚を見られるという観光客用の遊覧船が係留していた。

 けれど、私たちの目的はそこじゃない。

 海斗くんと私の繋がりといえば当然、食である。


 渋すぎる店構え。

 ペラペラのトタンでできた、家というより大きめの小屋に見える構造。

 潮風に当てられ消えかけている『食事処』のペンキ文字。

 そんなボロ屋が、我々の前に姿を表した。


 地元の人に人気の海鮮系定食屋。

 こここそが、食いしん坊の我々が向かう最大の目的地であった。

 この店に来るために今日車を走らせたと言っても過言ではない。

 私たちは『営業中』の立て札を信じ、オンボロ建築物に足を踏み入れた。


 ある程度有名なはずだが、ド平日であることと入るのに躊躇する外観のためか、店内はまずまず空いていた。

 それでも、観光客と思しき家族から、地元民っぽいおじさんまでが食事しており、なんとなくホッとする。


 店員さんに座敷に通される。

 メニューを見ると、マグロから始まる魅惑の文字列が多数並んでいた。

 事前に注文を決めてきたのだが、決意が揺らいでしまう。

 すべて食してみたいが、私は現在無収入ニートのアラサー女である。

 金と胃袋が足りない。


「このマグロ三昧定食と……地魚のお刺し身単品……あと、アジフライと……」


 そんな悩みの対極に位置する男がここにいた。

 お金と胃袋の問題など、お金持ち男子高校生には無縁である。

 いつ終わるのかと思うほど長い彼の注文を、私と店員は呆気にとられて眺めてしまった。


「だ、大丈夫? 食べ切れるの?」


 店員さんが去った後、私は彼にこっそり尋ねてしまった。

 彼は、壁に貼られたメニューの写真を眺めながら答える。


「あ、お姉ちゃんの分もあります」

「いや、それはありがたいけど……それでも多かったような……」

「大丈夫です……多分」


 若干尻すぼみになりつつ、彼の視線は未だに壁のメニュー表から離れない。

 

(あれもおいしそう……)


 まさか、まだ注文したいのか……

 私は、今日まで及ぶ彼との関わりによって、彼の状態がわかるようになっていた。

 多分、今の海斗くん、頭働いてないな……

 おいしそうなご飯を前にすると、彼はある程度バカになってしまうのであった。



   ◇ 



(桃源郷は三崎にあったのか……)


 机からはみ出しそうなほど並んだ魚介類を見て、彼が脳内で耽美なため息をつく。

 私も少しばかり感動していた。

 推しのマグロだけではなく、色とりどりの海の幸たちが私たちに食されるのを待っている。

 壮観であった。

 彼がサイコロ状に切られたマグロの赤身を箸で摘んでしみじみと心で呟く。


(はぁ……結婚指輪につける宝石は三崎のマグロにしよう……)


 やめてほしい。

 生臭い結婚指輪などこの世で最も不必要な存在である。

 誰がもらうかは知らないが、未来の相手に私は同情する。


「全部揃ったし食べましょう……いただきます……」

「いただきます」


 待ち切れなさそうな海斗くんの合図によって、食事を開始する。

 私はまず湯気の立つアラ汁から口をつけ、思わず目を瞑った。

 これは間違いない……おいしい……

 魚から出たダシが味噌汁を贅沢な一品へと変えている。

 冷えた体に染みていく温もりにホッとしながら、私は海斗くんを見る。

 いつもならすぐに嬌声を発するのだが、今日は声がきこえてこない。

 彼は固まっていた。


(なんてことだ……どれから手を付けたらいいのかわからない……焼き物を先に食べるべき……いやしかし一口目はマグロであるべきでは……)


 自分の頼んだ注文品に翻弄されていた。

 品数が多すぎると脳がオーバーフローしてしまうらしい。

 回転寿司に来た五歳児の精神だ。

 彼は散々悩んだ挙げ句、


(……くぅ。やはりマグロ!)


 といって、刺し身に食いついた。

 

(ひゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅん……ッ!!!!!!♡♡♡♡♡♡♡♡)


 あぁ、いつも通りである。

 一安心。

 はじめの一口で勢いがついたのか、彼は次から次へと皿に手を出していった。

 その度に脳内のレスラーが、


(食ってみろ……トぶぞ……)


 と誰かに勧めている。

 私も食ってみる。

 確かにおいしい。

 鮮度もいいし、調理の技も素晴らしい。

 けど、なんだか……なんだか、私は気に食わなかった。

 幸せそうに食事を平らげていく海斗くんを眺めながら、しばらく自分のなかに理由を探す。

 すると、心に浮かんできたのは、海斗くんへの理不尽な不満だった。


 結局、おいしいものなら私じゃなくてもいいのよね……


 ……あ、これ嫉妬か。

 と、ようやく我に返ったのは、ほとんど皿にツマしか残らなくなった頃合いだった。

 私の前では、問題の海斗くんがお腹いっぱいでグロッキーになっている。


「だ、大丈夫?」

「はい……でも、少し……休ませてもらいます……」


(ちょっと頼みすぎた……逆流注意報だ……)


 これから高速で帰るんだけど、大丈夫かしら。

 不安を覚えつつ、私はまだ自分のなかに生まれた感情にまだ引っ張られていた。

 お店に嫉妬するなんて、情けなさすぎるでしょ、私……

 でも、心を炙る灰色の炎は消えてくれない。

 自分は、彼をどうしたいんだろう。

 喜んでくれる以上のなにかを、私は彼に求めている……?


 思考が至ろうとしている結論を、私は頭を振って消し去った。

 彼は、未成年だし。

 私は、十個も上の貧乏人。

 嫉妬することさえ、身の程知らずで、罪深いことだ……

 けど、もし。

 もし、成長した彼がいずれ私を選んでくれたなら。

 そのとき私はどう思うのだろう……


(でも、やっぱりお姉ちゃんの家でご飯食べるほうが好きだな……)


 不意にきこえてきたその声に、迂闊にも私は無防備だった。

 彼は私の顔を見るなり訝しんだ。


「お姉ちゃん、顔真っ赤……」

「え、そ、そう? あはは、暑いからかな!」

「暑いかな……」


 彼は店内を見渡す。

 暑くはない。

 適温である。


「あ〜、ご飯食べたからかも! そうだ、今日夜なに食べたい? なんでも作ってあげるよ!」

「……なんか機嫌良くない?」

「別に? いつも通りだよ!」

「そう……かな……」


 不可解そうな彼を勢いで押し込む。

 最近、彼と一緒にいると、心が揺れてしょうがなかった。

 それはまるで、十年前に戻ったような感覚だった。



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