第8話 火が踊るキッチン

 ガタガタッと、鍋が盛大に泡を吹き出しながら音を立てる。前が見えないほどの白煙を濛々と立ち上らせる鉱石コンロ。ああいけない。火力を、抑えないと――。

 おもむろに左手を前に出すと、硬い金属製の調節つまみとは異なる、ひた、と柔らかい感触が手に伝わった。指先から伸びる褐色の肌を追うように目線を動かせば、先輩の顔がこちらをじっと見つめている。


「あ……すみません」


 とっさに口から出た、重みのない謝罪。吹きこぼれた液体が、伏せた目の先でじわりと鍋の下に広がった。


 やってしまった。

 また、怒られるのかな。


 ボーっとするな、とか、ちゃんと火加減を見ろとか、先輩の眉を吊り上げた顔のバリエーションは、いくらでも頭に浮かんだ。

 私は行き場を失っていた左手で右腕を抱き寄せると、先輩から目を逸らして俯く。

 降ってきたのは、存外優しい口調だった。


「どうした。元気ないじゃないか」


 ポカをしたのに怒られないなんて、とちょっと驚き。


「あはは、えっと……。ちょっといろいろあって……」

「珍しいな。リオがこんなに気落ちした姿を見せるなんて。ロスカと喧嘩でもしたのか」

「ち、違います。あいつとは年中喧嘩しているようなものなので」

「じゃあ一体何をそんなに思い詰めているんだ」


 先輩は戸棚に背をもたれると、腕を組み、微笑みかけてくる。

 ああ、先輩はズルい。

 その一言だけで、心がぐずぐずに溶けてしまいそうだった。

 このお店が繁盛しているのは、お粥がおいしくて、立地がいいというだけではない。多少口調が荒くとも、人の心の機微に敏感で、適切な言葉や態度で接することができる先輩の人柄が、『コルミアのお粥屋』という看板を支えているのだ。

 先輩の優しさは、今の私に効果抜群だった。

 身の回りの人に心配をかけまいと朝気合を入れて来たのに、情けない。

 私はもう隠し通せないことを悟り、先輩へ折り入って尋ねてみることにした。


「あの、一つ伺いたいんですが店長」

「なんだよ、気持ち悪ぃな。いや、店長であってるんだがよ」

「そのー……このお店って、竜の持ち込みってオッケーですっけ?」

「えーっと、あたしの聞き間違いか? 今竜の持ち込みって言ったよな? リオの竜ってことは、ベルだろ? え、あいつ今どれくらいの大きさだ⁉ 店を壊す気か⁉ テロリストか⁉」

「ちちち、違うんです! 落ち着いてください!」


 まずった。話の持ってき方を端折りすぎた。

 もともと交友関係のあまり広くなかった私にとって、竜運関係で頼れるのはもはや先輩のみ。ちゃんと説明せねば。

 誤解され解雇となれば、明日は雑草を齧らなければならないのだ。

 青ざめて後ずさる先輩に、私はすがりつく。レアな先輩の焦り顔を近くで見たいなどという邪な感情が、たとえわずかでも湧いたわけではない。決して。


「な、何がどうなってそんな発想になるんだよ」

「いや、えっとその……。それはベルがちっちゃくなった時、一緒にいれたらな、なーんて考えたりして。あはは……」


 そう伝えると、先輩は一瞬キョトンと目を丸くした後、急に真顔になり、私の首筋に手を回した。同時に艶のある黒髪と長いまつ毛が急接近してくる。あわわ。


「せっ、先輩⁉」


 唐突に前髪をかき上げられ、身を縮めた私が片目を開けると、そこには先輩のアンニュイかつプルンとしたかわいらしい唇が。

 お粥屋には今、ふたりきり。邪魔するものは誰もいない。

 鍋の蒸気を含んだ空気はねっとり絡みついてきて、暖炉の熱で互いの首筋はしっとりと湿り気を帯びていた。

 先輩の吐息が近い。心臓がバクバク音を立てている。


(何この状況!?)


 一人動揺と混乱を極めているうちに、先輩の顔はどんどん近づいて来る。逃げようにも両手を壁に押し当てられているので身動きが取れない。

(これって、もしかして、え、そういうこと? こんな流れでファ、ファーストキスをせ、先輩に奪われちゃうってこと? どういうこと? でも雰囲気がなんだかもうそんな感じで、あぁもう、わからない! ど、どうにでもなれっ!)

 全てを諦めぎゅっと目をつぶる。やがて唇に訪れるであろう柔らかな感触を、私はびくびくしながら待ち続けた。


 が、やってきたのはコツンと軽い衝撃。その場所は私が期待していた唇ではなく、おでこの上だった。


「ふーん、熱はねぇみてぇだな」


 目を開けた私はすぐに先輩の意図を理解し、沸騰するように顔が熱くなる。


「かかっ、風邪ひいてるわけじゃないです!」

 上気した頬を冷ますように、私はぶんぶんと首を振った。先輩は見透かしたようにシシシ、といたずらっぽい笑みを浮かべながら口元を手のひらで隠す。


「頭でも打ったか?」

「違います正常です!」

「変な物食べたか」

「食べてませんっ‼」


 先輩は調理台の天板に頬杖をつきながら、ため息をつく。出るところが出ている人は、どんなポーズを取っても色っぽいのでやっぱりこの人はズルい。羨ましすぎる。


「おいおい、らしくねぇぞ。何のために今まで毎日毎日、何時間もかけて散歩してたんだよ。竜運が再開した時、一番乗りで鉄塔を登りたいんじゃなかったのか? ベルが小さくなったときのことを考えるなんて、この街で一番似合わんのがリオだろ。らしくねぇぞ?」

「それは……そうなんですけど……」

「じゃあなんだってそんな身も蓋もない考えにたどり着くんだよ」


 もう、言い逃れはできない。私はため息を大きく一つつき、事の発端を告げる。


「実は昨日、行方不明だった館長に……会ったんです」

「あ! あのオッサン、帰って来てたのか! んだよ、どこほっつき歩いてたんだよ。……ははーん、なるほど。読めて来たぞ。で、何言われた? あのバカ野郎にひどいこと言われたんだな⁉ それでおかしくなっちまったんだな⁉ ことと次第によっちゃ出るとこ出るぞコラ!」


 袖のないドレスにもかかわらず、腕まくりの動作をする先輩を慌てて制止した。

 しかし先輩は私の横をするりと抜け、湯がなみなみ入った鍋の取っ手をがっしと掴む。


「先輩落ち着いて! その持ち上げたお鍋下ろして!」

「これが落ち着いてられっか! かわいいかわいい妹分をこんな傷モノにしちまいやがって! 今日は休店だ! 殴り込みに行ってやる。やつはどこだ!」

「落ち着いてくださいってば! あと傷モノにされてませんっ!」


 先輩は鍋を下ろすと、キッとこちらを睨みつける。


「リオはこのままでいいのかよ! リオはへなちょこだ、ずぼらだ、おっちょこちょいだなんて、くそぅ! 言わせておけば!」

「言われてないですよ! あ、いや確かにちょっと言われたかも……。で、でも、そういうんじゃないんです!」

「じゃあなんて言われたんだよ」

「えーっと、その。鉄塔に登ることや、飛ぶことばかりにこだわるなって言われたんです。ただ、それだけなんですけどね。あはは……」


 瞬間、店内の空気が数度下がった気がした。先輩が糊で張り付けたような笑顔を浮かべる。


「え、先輩……?」

「ちょっと行ってくる」

「え、ちょっと! 待ってくださいよ、先輩!」

「いいや、止めるな。いくら館長だとはいえ、奴は決して言ってはいけないことを言いやがった。リオがてめえのことをどんな目で見ていたかぐらい、わかりきっているくせに。あの野郎、絶対に許さん」


 抑揚のない先輩の声からは、押し殺した怒気がわかりやすいほど漏れている。

 先輩は血の気が異様に多い。だからこうならないようにうまく説明したかったのだけどなぁ……。

 私は先輩の腕を今度はしっかりと掴んで引き止めた。もう力ずくじゃないと止まらない。


「いいんです、いいんです! 私が気にせず流してしまえばいいだけですから!」

「よくねぇだろ! 今まで頑張ってきたんじゃねぇのかよ⁉ なんでそんなこと言うんだよ! ベルはどうすんだ! あいつの気持ちはくみ取ってやったのかよ‼」


 入り口の扉に向かって勢いよく吐き出された言葉に、ガツンと殴られたような衝撃を覚えた。


「それは……」

「腹が立って仕方がねぇ。リオは店番していてくれ。あたしは行ってくる」

 ブン、と強く腕を振り払い、先輩は大股で歩くと入り口の扉に手を伸ばす。

「先輩っ!」


 私の悲鳴に似た叫びは、もう先輩に届かない。もうダメかと思ったその時だった。 

 先輩の手が、真鍮製の取っ手を掴み損ね空を切る。

 カラン、と音を鳴らしながら開かれた扉の先には、赤ら顔のおじいさんが立ちすくんでいた。



「お、お取込み中かの……?」



 こちらからは先輩の表情はうかがえないが、きっと相当な気迫を感じたのだろう。おじいさんはヒッと小さく声を上げ、胸元に両手を乙女のように寄せてみせる。


「わりぃなじいさん、今日は――」


 チャンスが向こうからやってきた。私一人では先輩を止められない。この状況は利用させてもらうに限る。でなければ、数刻も待たずに竜運会館は血の海へと変わってしまう。


「大丈夫です、やってます! さあさあお好きな席へどうぞ!」


 いつもの倍の声量で、私はおじいさんを案内する。


「おまっ――!」


 驚愕の色に染まった先輩の横顔に、私はニコリと笑いかけた。しっかりと圧をかけながら。


「ね、先輩」

「~くそっ!」


 罵声を床に叩きつけながら、先輩はつかつかとカウンターへと戻っていった。

 

 相変わらず先輩は口が悪い。態度も悪い。

 でも私は心の中で、そんな彼女に感謝の言葉を送ったのだった。

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