【第一章:田畑太一郎(2)】

田畑太一郎は東京にあるK大学の大学院だいがくいん博士課程はかせかてい在籍ざいせきする学生である。


そこの教授きょうじゅ国際派こくさいはとしてのものの考え方をする人で、田畑太一郎に大学院だいがくいん在学中ざいがくちゅうに1年間の研究留学けんきゅうりゅうがくすすめてきた。将来しょうらい研究者を目指めざすなら、海外で研究をするという経験けいけんを少しでも早くした方がいいという親心おやごころのようであった。


事実じじつそうなのだろうと田畑太一郎は思う。しかし、そこには教授のうら思惑おもわくもあったようだ。というのも、田畑太一郎の留学先りゅうがくさきのボスは、田畑太一郎の教授が若い頃にアメリカに留学していたときに同じ研究室にいた同僚どうりょうで、今ではこの研究分野けんきゅうぶんや大御所おおごしょ研究者けんきゅうしゃとなっている。そこに田畑太一郎をVisiting Student(客員学生きゃくいんがくせい)としておくむことで、こちらのボスとのむすびつきを強め、そのボスの威光いこうを使って日本での自分の立ち位置を良くしようとしているのだ。


だが、田畑太一郎の教授にどんな思惑おもわくがあったにせよ、大学院生という身分みぶんにもかかわらず、田畑太一郎が1年間もこのアカデミックで有名なB市に留学できたのは事実である。それは、田畑太一郎にとっては幸運こううんなことであった。そのため、「こういうのをWin-Winというのだろうな」と、田畑太一郎は日頃ひごろから思っていた。


「ところで田畑君、君はあとどのくらいB市にいるんだっけ?来年の春にはもう日本にもどって学生生活の続きをするんだよね?」と渡邊哲郎が聞く。それにおうじて田畑太一郎も今の自分の思考しこうをストップして、目の前の自称じしょう大道芸人だいどうげいにんとの会話に集中し始めた。少しでも、この男の中身なかみに切り込んでやる、という意気いきみだった。


「はい。留学りゅうがく期間きかんは最大で一年なので、ギリギリまでこちらにいようかなと思ってるんです。今年の四月にB市に来たので、帰るのはおそらく来年の三月末ですかね。」

「そうか。で、どうかな、こっちの生活は。もうれた?」


渡邊哲郎がこんな日常会話にちじょうかいわをしてくることはめずらしい。ならば今がチャンスだ、とばかりに田畑太一郎はプライベートな質問しつもんげかける。


「そうですね。B市って結構けっこう日本人も多いですし、アジアンマーケットで日本の食材しょくざいとかも手に入るので、思ったよりカルチャーショックは少ないですね。まあ、英語は今も全然ダメなんですけど。ところで渡邊さんはもうこっちが長いんですか?どのくらいアメリカにいるんです?」

「英語はむずかしいよね。アメリカにはもう何年もいるけど、この英語力だとアメリカに何年いるかを人に言うのはずかしんだよね。」


やはりはぐらかされた、と田畑太一郎は思う。しかし、田畑太一郎はめげない。


「お仕事は何してるんですか?こないだは大道芸っておっしゃってましたけど、どういうところでやってるんです?」

「それは企業秘密きぎょうひみつかな。企業秘密なんて単語たんご、君みたいな若い人にとってはもう死語しごかな。」


そういって、渡邊哲郎は笑った。


「でも渡邉さんって医学生物学の分野の研究業界にくわしいですよね。今やってるこれとかも、この業界に詳しくないと出来ませんよね。」


自分のタブレットを指差しながら、田畑太一郎は追撃ついげきとなる質問しつもんを投げかける。


「いやいや、僕は全然わからないよ。だから田畑君みたいに、この業界に詳しい人の助けが必要なんだよね。ま、僕は編集長と君の間の伝書鳩でんしょばとみたいなもんさ。」


田畑太一郎と渡邊哲郎は、医学生物学の研究業界の情報じょうほうをまとめたWebサイトの編集作業へんしゅうさぎょうをしている。


研究業界はどこの分野であっても旧態依然きゅうたいいぜん慣習かんしゅう蔓延はびこっている。だから、昔ながらの「おかたい」学術雑誌がくじゅつざっし学会誌がっかいしなどは多数あるが、田畑太一郎が編集のアルバイトをしているこのWebサイトのような、よく言えばくだけた印象いんしょうの、悪く言えば業界全体の裏側うらがわのぶっちゃけた内容も掲載けいさいしているWebサイトはこれまでになかった。だからこそ、このWebサイトは田畑太一郎のような若い研究者にとっては、医学生物学の研究業界を知る上で非常ひじょう重要じゅうよう情報じょうほうソースになっているのである。


だが、このWebサイトは色々な意味でなぞが多い。そもそも誰がやってるかわからないのである。一応、Webサイトの基本情報きほんじょうほう公開こうかいされている。編集長へんしゅうちょうの名前もあるし、いつWebサイトが開設かいせつされたかもしるされている。だが、何となく謎が多い。田畑太一郎がこのWebサイトの編集作業のアルバイトを始めようとしたキッカケの一つは、その謎を明かしたいということにもあった。


「僕は渡邊さんの方が絶対この研究業界に詳しいと思うんですけどね。でも、僕みたいな編集のアルバイトをしてる人って何人くらいいるんですか?」


田畑太一郎は、自分が購入こうにゅうしたドーナツを食べながら、そう聞いた。目の前にすわっている渡邉哲郎は、このドーナツ屋では何も買わずに、自分のバックパックの外側そとがわについているポケットにいれた水筒すいとうをテーブルの上に置いていた。会話かいわ途中とちゅう時々ときどきそれをんでいる。


「うーん、どうだろう。そういうのは編集長しか把握はあくしてないんじゃないかな。僕も結局けっきょくのところ君と同じようなアルバイトあつかいだし。」

「そんなことないですよ。だって、僕は編集長と直接やり取りできないですもん。渡邊さんと僕とじゃ全然違う立場ですって。」

「え、君も最初は編集長とメールでやり取りしてたよね?でも、B市に誰か編集している人いませんかって君が編集長にしつこく聞いたから、編集長が君と僕を会わせるようにしたって聞いたけど。あ、しつこくってのは良くない表現だったね。他意たいはないよ。ごめんね。」


やっぱり今日もはぐらかされた。そう思って田畑太一郎は少しガッカリした。しかし、その表情ひょうじょうの変化を見て、渡邊哲郎は自分の発言で田畑太一郎を少しおこらせてしまったと勘違かんちがいした。


「田畑君みたいに積極的せっきょくてきに色々と頑張がんばってくれる若い研究者は日本にとってもこの研究業界にとってもとても大事だ、と編集長もいつも言っているよ。」


と、少し大袈裟おおげさにも聞こえるような表現で、渡邊哲郎は田畑太一郎をめた。


「はあ・・・」と、田畑太一郎は突然とつぜん賞賛しょうさんの言葉に面食めんくらったが、渡邊哲郎はそのままめ続ける。


「この間の記事も良かったよ。大学生なのに研究論文を筆頭著者ひっとうちょしゃで書いた人のインタビュー記事。えっと、なんて名前だったっけ。」

「真中しずえさんのことですか?」

「そうそう、その人のインタビュー記事。彼女、たしか小学生のときから色々と表彰ひょうしょうされてるんだよね。」

「はい。スター性のある優秀ゆうしゅうな感じの人ですね。」

「たしか今はこのB市に来てるんだっけ?」

「ええ。彼女、今は大学3年生なんですけど、夏の間だけH大学に海外研修かいがいけんしゅうに来ているんです。実験とかもやってるみたいです。」

「へー、そうなんだ。あれ、君はもしかしてその真中さんと会ったことある?例のインタビュー記事は、オンラインで取材しゅざいしたんだよね。」

「インタビュー記事のときはオンラインで会ったんですけど、そのときに7月からB市に来るということを聞いたので、彼女がこちらに来てから何度か会いました。」


真中しずえ(まなか・しずえ)は、小学生のときの自由研究じゆうけんきゅうでC県の教育長賞きょういくちょうしょう受賞じゅしょうした。その後、名門と言われる私立の中高一貫校ちゅうこういっかんこう進学しんがくし、そこでもサイエンスの分野での受賞歴じゅしょうれきがある。


真中しずえは今は大学の三年生であるが、一年生のときからのうの研究をしている研究室に通いはじめ、基礎的きそてき実験技術じっけんぎじゅつ習得しゅうとくするだけでなく、筆頭著者ひっちょうちょしゃとしてすでに学術論文がくじゅつろんぶんも発表した。そして、この年の夏休みを利用りようしてアカデミック都市としとして知られるB市にあるH大学に二ヶ月間の海外研修に来ている。


順風満帆じゅんぷうまんぱんな人生を送っているように見える真中しずえだが、彼女の人生にはかげの部分もある。


『夏休み別荘事件べっそうじけん』− 十年ほど前に日本中のマスコミをさわがせた事件である。この事件の名称めいしょうは、どこかのテレビきょくのワイドショーが使い始め、それ以降いこうどこのマスコミでも使うようになった。


とある小学校の理科クラブの児童じどう6名が教員きょういん別荘べっそうに夏の合宿がっしゅくに行ったのだが、そこで強盗ごうとう殺人さつじん放火ほうか事件じけんきた。児童一人が殺害さつがいされ、引率いんそつ教員きょういんと別の児童一人は今もまだ行方不明ゆくえふめい犯人はんにんつかまらずに迷宮めいきゅうりとなった。


真中しずえは、その事件の生存者せいぞんしゃの一人だった。しかし、彼女のかかかしい経歴けいれきかたられるとき、その事件にれられることはなかった。


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