第9話

 ひっと声があがった。

 私の牙が介護僧の喉笛を裂いたからだ。

 顎が驚くほど開いた。ひと噛みで、喉の肉を丸ごと頬張れるほどだ。

 そうして錐のように鋭利な牙が、豚脂を切り分けるように素っ気なく彼の首を貫いた。

 熱い血が口腔に溢れた。粘質性の音をはしたなく立てて、その全てをすすった。この生涯で他に比べようもないほどの甘露であった。

 さらに自由にならない肉体を駆使して、彼を押さえ込んだ。

 噴水の勢いで大量の血が石壁を染め上げた。夜目にはそれは漆黒の液体だが、私の視覚はそれに極彩色の温度を感じ取っている。飛び散る飛沫すらを惜しいと思った。まだまだ血が欲しい。

 体重をかけて断末魔の痙攣を始める獲物を岩肌にくくりつける。

 次は内臓である。

 喉を潰されて悲鳴などはそうそう上げられまい。眼球をこぼしそうに見開いた目に、正気の色はない。死出の旅路を歩んでいるのみである。獲物として相応しい姿である。

 生臭い呼気で私は嘲笑した。長く伸びる舌で己の顔の汚れをぬぐった。

 生きながらの生肝を喰ろうてくれる。


 私は廊下に出て、床を這い続けた。

 介護僧には閂をかける間も与えなかったのだ。

 石段の上も舌を巻く早さで上っていく。

 しかも利かない手足がさほど気にならない。介護僧の足裏が残した体温が、燐光のように光っている。体臭までその光に残っている。その後を追うだけで、出口に導いてくれるだろう。

 あの血液は美味かった。しかも熱かった。

 あの甘味は思うだけで、脳漿のうしょうが白く灼けるようであった。

 全身が固まった血に濡れていた。内臓を喰い尽くしたあともその上に被さり、体温の余韻を楽しんでいたのだ。

 そのことが体力の恢復かいふくを呼んだ。やはり生力プラーナには熱が欠かせないのだ。手足まで熱が行き渡ると、耐え難い苦痛とともに感覚まで甦ってきた。

 私の独房は半地下に位置していたらしい。

 石段の向うはありふれた僧坊が並んでいる様子である。

 成る程、熱を感知できるということの有効性はこういうことか。生の実感は苦痛であり、熱でもあったのだな。

 実は熱の残留がその回廊に満ちていた。

 あの介護僧の空間を歩いている行程が、そこにある。冷えた空気に刻まれた彼の熱が、残り香のように残っている。

 それを視ることができる。

 熱の刻印から彼の容貌まで読み取れるのだ。はっきりとその姿だけ視えるのは、彼の姿が一番新しいからだ。

 少し古い残像は最早、熱源の塊と化して姿形など認知できはしない。彗星のように尾を引いている流れだけが視える。

 無人の回廊は私の地平である。

 たとえ気配を絶っても、この私の視覚を騙だませはしない。

 ようやく私は這って歩けることを得た。

 回廊のなかで最も熱を発している僧坊を、私は探り当てた。

 まだ血が必要だ。そう全身のシャリーラが咆哮しているようであった。獲物が欲しい。想念の多くから知性が零れ落ちているようであった。

 しかし獣の血は、冷徹でもあった。

 様々な臭気を嗅ぎ取り、澄み渡った音からその情景を知覚していた。凝らした集中力が、立体的にその僧房の情景を盗み見しようとしている。

 馬がいる。

 しかも雌馬のようだ。交尾をしている。こんな夜更けに。激しい呼吸だ。熱量が戸口から零れている。戸口から蜃気楼が立つように視界が歪む。

 私はその僧坊に影のように侵入した。音など立てるわけがない。

 漆黒の雌馬の口吻こうふんには白い泡が溜まっていた。開かれた眼に映るものには興味がないはずだ。私はゆっくりと移動した。

 その雌馬に乗りかかっている悍馬の正体が気になったのだ。

 ぐ、と息を呑んだ。

 ハヌマンである。

 しかも半裸であった。

 黒曜石のように肌が汗を浮かべて光っていた。息を弾ませて腰を激しく打ち振るう。隆々たる上腕で馬の首を背後から抱え込み、その爪が深く肉に食い込んでいた。

 見るも浅ましい姿である。

 彼が私の副官を務めていた戦士であろうか。

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