第5話 ランドセルいっぱいの

 よく晴れた日は、そら恐ろしい気持ちになる。

 そんな日に、娘がいなくなったからだ。


 心の底に穴が開いて、そこから大事なものがすべて抜け出てしまうような心許なさ。

 そんな日は何も手に付かないから、決まって出かけることにしている。見かけては買い溜めてしまう新品の鉛筆を寄付のために送るのだ。

 一度だけ手紙を寄越した娘には送ることはできないから。


 郵便局に入る前に、背の高い青年に声をかけられた。

 一瞬戸惑ったが、すぐに思い出した。娘のクラスメイトだ。以前一度だけ、会ったことがある。

 少し浮世離れした顔立ちを強張らせて、片手に黄色い猫を抱え、反対の手に赤いランドセルを持っていた。


「彼女のランドセルです。すみませんでした」


 そう言って深々と頭を下げられずとも、すぐにわかった。

 あの子のランドセルだ。




 娘の同級生たちが成長する姿など見たくもない。けれどいつか娘が帰ってきたらと思うと引っ越せない。人付き合いを避け、ただ日が過ぎるのを眺めていた日々に、不意に舞い込んできた娘の手紙。

 見てすぐに信じたわけでも、受け入れたわけでもない。

 信じることにしただけだ。

 その時の、雲間から日が射したような心地を、なぜかこの青年にだけはことさら表現したのを覚えている。

 もちろん、知っていた。この子は娘をいじめていた。幼い好意の表れかもしれないが、娘にとっては苦痛だっただろう。

 その意趣返しの意図は、確かにあった。


 だがこの青年こそ、母である私に匹敵する喪失感を味わっていたのかもしれない。

 娘はいなくなった。多くの人が見る前で、ふつりと消えてしまった。ある日突然、やり直すことも謝ることもできない存在になったのだ。

 ランドセルは、色あせもせず艶々と赤い。


「これに荷物を詰めて、彼女に送りましょう」


 突飛なことを言い出した青年を責めるように、猫が鳴いた。

 確かにおかしな申し出だ。けれどその時にはもう、何を送るかで頭がいっぱいになっていた。


 今更、何を送るのか。

 そんなもの。

 ランドセルになんか、入りきらない。


 大好物のカレー、好きだったワンピース、いつも一緒に眠っていたぬいぐるみ、お気に入りのおもちゃの指輪。引き出しにたくさん集めていたシール。

 いや、携帯を入れたら? 声が聞けるかも知れない。居場所が、わかるかも。

 けれど、それは無理なのだ。なぜかそれは、すとんとわかってしまった。

 私が小さくなってこのランドセルに入れたら。そうしたらもう一度、あの子に会えるのに。


 その場で差し出せるのは鉛筆くらいだ。他に持っていたのは財布と、肌身離さず持っているあの子の写真くらい。

 どうしよう。鉛筆を送ろうか。本当にこれでいいのだろうか。

 その時今度は励ますようにまた猫が鳴いて。


 私は青年の腕を掴んで走って家に帰った。


 一番古い手紙の文字は、娘のノートの字と同じだった。帰りたい。むかえにきて。悲痛な文字に噎び泣いた。やがて線は丁寧に、けれど文字はあやしげになる。カレーが恋しい。こちらのお菓子はあまり甘くない。お母さんの顔が思い出せないと嘆くのには、声も出ずに呻いた。最後の一枚まで読んだ時、娘の成長に思わず安堵したのに、大人になった顔が思い浮かばなくて、たくさん泣いた。


 マジックで名前を書いた家族の写真。母子手帳。赤ちゃんの頃の日記。ひらがなを多くした、何枚も何枚も書いては仕舞い込んでいた手紙。美しく装い幸せに微笑んでいる顔を見て渡したかった、真珠のネックレスとイヤリングも。

 カレーのルーは一度入れて取り出して、好物だった料理のレシピメモを台所から取ってきて突っ込んだ。けれど思い直して、カレーのルーもチョコレートもクッキーも、家にあるだけパズルのように詰め込んだ。

 外ポケットには鉛筆を入れた。もしかしたら、また手紙をもらえるかもしれない。

 最後に、手放してしまうことを躊躇ってから、くたくたのクマのぬいぐるみを一番上に。

 それで、ランドセルはいっぱいになった。


「ちょうど、猫と同じ重さですね」


 猫は、そんなに重いだろうか。

 首を傾げたが、必ず届けますと青年が言ったので、私は心からお礼を言った。

 ありがとう。勇気を出して来てくれて。

 涙をこぼした青年を、猫が心配そうに見ていた。

 

 青年を見送って、今度は買い物に出かけた。

 今日は、あの子の好きなカレーにしよう。二十年ぶりの、カレーにしよう。

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