日曜の夜と、月曜の朝と

環F

第1話

 

 ……太陽活動の活発化と列島上空に停滞する高気圧の影響で、日中の最高気温が今年に入って十五度目の記録更新となりました。明日の気温は今日と比べてさらに高くなる可能性があります。引き続き屋外での激しい運動などは避け、熱中症の予防に努めてください。続いて週間予報……


 昨日も同じようなことを言っていたような気がする。

 私はうつ伏せの体を気力をふりしぼって起こした。不自然な角度で曲がっていた首が痛い。

 そして――何もかも熱い。

 眠っていたようだ。

 それとも気絶していたのだろうか?

 頭の上のエアコンは音ばかり大きくて、冷気をほどんど吐き出さない。いったいこの部屋は何度あるのだろう? 体温を超えてるんじゃない?

 体質的に汗をほとんどかかない私だけど、喉はとても渇いていた。右手を伸ばすと、爪の先にカチリと音がした。

 私はやっと目を開けた。くたびれたベージュのカーテンが外光を通してオレンジに発光している。部屋を漂う埃が照らされ、羽虫のように舞っている。

 何もない部屋の中にポツンと立つペプシの缶を手に取った。振るとまだ半分ほど残っている。何も考えず、口をつけた。

 想像していたものと違う、生臭いドロリとしたアメーバのような不定形の生物が喉の奥に張りついたような感触があって、私はあわてて隣の部屋まで走り、思い切りシンクに吐き出した。黒い液体は口から出たが、うまく吐き出せたかどうかは分からない。蛇口から水を勢いよく流し、流しっぱなしにした水をコップにくんでうがいした。何度もうがいし、それから飲んだ。錆びた鉄の味が舌を刺し、それは何となく生き物の――生き物の血の味に似ていて、再び吐いた。

 少し落ち着いて壁の時計を見ると、三時を過ぎていた。午後の三時だ。昼食の後片付けを済ませたのが一時前だったから、あれから二時間も経つことになる。ここに来てから眠ってばかりいるように思う。だから時間が経つのが早い。それとも時間が経つのが遅いから寝てしまうのか? とにかく街にいた時とは時間の流れが違っている。


 ……おめでとうございます。これで記録達成ですね。これほどのロングランになるとは想像されていましたか? 上映館も史上最多、観客動員もまもなく……


 こんなくだらない映画に人が集まるのは、このバカげた気温ときっと関係あるに決まってる。じゃなきゃ、これ以外の映画のフィルムかデータが燃えちゃったのだ。こいつも燃えちゃえばいいのに。

 私はテーブル前のつきっぱなしになっていたテレビを消した。テレビはついていたのにエアコンは消えていて、私が寝ていた部屋と同じくらいここも暑く――暑い?

 私はやっと気づく。部屋を見回す。よくない想像が頭をよぎり、吐き気が戻ってくる。このまま思考停止してしまおうとする頭を体と切り離し、隣の部屋の中に飛びこむ。

 冷蔵庫の扉を開けた時のような冷気が私を包みこんだ――

 真っ暗な部屋の中で祖父が正座していた。扉に背を向け顔は見えなかったけど、畳の上の祖父は背筋もしっかり伸びていて元気そうだった。

 私は息を吐く。祖父はちゃんとエアコンをつけていた。私の部屋のように壊れてもいない。あの暑さは命取りだ。熱中症で死んだ老人のニュースは連日流れている。

「――キョウイチさん」

 私は祖父に一歩近づき声をかけた。私の声は小さくなかったはずなのに、祖父は知らんぷりだ。

 私はさらに一歩、近づく。

 私は気づく。祖父は声にならないほどの小さな声で何かを呟いている。私は祖父が何を言っているのか知ろうと、さらに一歩踏み出した時、祖父は唐突に大きな声で笑い出し、私は驚いて足が止まる。

「――キョウイチさん?」

 私は天井からぶら下がるヒモを引いて照明をつけた。それでも私に気づかない。私は祖父の顔が見える位置まで回り込んだ。祖父は笑い声をたてた後は再び何かを呟いていた。何かを納得したように何度も肯いていた。まるで私以外の誰かがそこにいるように視線を一点に集中させ、身を乗り出し、早口で世界の秘密を呟き続ける。

 どうやら祖父は今日も彼だけにしか見えない「誰か」と話しているようだ。珍しいことじゃない。ただの日常。

 私が話に割り込んで混乱させてもいけないので静かに部屋を去り、リビングを抜け、私が勝手に寝室代わりに使わせてもらっている部屋に戻った。

 この暑さでエアコンは故障したようだ。とりあえず窓を開けてみることにした。ここは最上階の五階なので、風の通りは悪くない。

 閉めきっていたカーテンを左右に引くと、真っ白い光が目を焼いて何も見えなくなった。まるで目の前で爆弾が破裂したように――

 ゆっくり目が慣れるのを待ち、ロックを外し窓を引き開ける。

 何の装飾もない全く同じ形をした巨大な灰色のコンクリートの塊が列になって地表に並んでいる。違うのはそこに付けられた番号だけ。

 私はそのままベランダに出て、下を覗いた。人の姿は見えなかった。首を伸ばして給水塔のほうまで見ても、動くものの姿は何もなかった。そう言えばあれほどうるさかった蝉の鳴き声すら聞こえない。

 ――まさか本当に?

 どこかで聞いた話では、世界には建物を破壊せず生物だけを死滅させる恐ろしい爆弾もあるらしい。

 いくら退屈だからって、そんなことが頭に浮かぶ自分の幼稚さに思わず苦笑した。

 空を見上げる。

 予期せず、再び眩しく光った。

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