帰郷の度使っている部屋に荷物下したあと、白はすぐさま祖父の書斎に向かった。扉の前に立ってすぐ、すぅっと息を吸いこみ、ノックをする。入ってくれ、と低い声が返ってきたのに合わせて、失礼します、とノブを捻り引っ張る。

 室内の両脇一面が大きな二つの本棚に挟まれていた。その間、真ん中奥にごそっと置かれたいかにも高級そうな木の机に、背の高い老人が甚平を身に纏い、厳かに座っている。やや干からび気味の頬が目立つ、眼鏡をかけたこの年老いた男こそ、白と鹿子の祖父、その人だった。

「お久しぶりです」

 まだ、何も言われたわけでないにもかかわらず、厳しい表情に気圧され、とっさに頭を下げる。祖父は無言で眼鏡を外すと、布でゆっくりと汚れを拭き取りはじめた。その間、白はただただ立ち尽くす。何か言うべきなのかもしれなかったが、生憎ちょうどいい話題が浮かばない。もっとも、仮になにか思いついて話したところで、滑って気まずくなる可能性がある以上は、挑戦する気にもならないが。

 入念にレンズを布に当てる作業を見守ること数分。祖父はあらためて白に視線を向けた。

「遠路はるばる、ご苦労だったな」

 よく響く低い声にあてられ、いえそんな、とつい謙遜してしまう。老人は孫の言をそのまま飲みこんだのかあるいはその逆なのか、そうか、と頷いてみせたあと、

「それで今回も、思い出の中の少女とやらを探しに来たのか?」

 おもむろに尋ねてきた。

「はい」

 すぐさま肯定する。この家の中はもちろん、この辺で少しでも面識があれば、白の事情はよく知られてしまっているので、今更、否定する理由はない。祖父は、うむ、と重々しく頷いてみせてから、

「お前も懲りないやつだな」

 薄っすら頬を弛めたように見えた。昔から公私問わずに無言の圧力をかけてくる祖父は、ことこの話に関してはどこか寛容なところを示した。事情はよくわからなかったが、白としては邪魔が入らなければなんでも良い。

「それで。今回は何かあてはあるのか?」

 どうせ、何もないのだろう? 言外に匂わされる祖父の意思をらしきものを受けとめつつも、少し楽しくなる。実のところ、先程まではこの老人の思った通りだったのだが、今は違った。はあった。

「はい。まだ、確実にそうだと決まったわけではないですが、足がかりはできた気がします」

 確証はない。どころか、時の流れを考えれば目視したものと、思い出の中にあるものはそぐわないはずだった。それでも白は不思議と目撃したものの先に手がかりがあると信じている。

 祖父は微かに瞳孔を揺らめかせたあと、

「そうか」

 短く口にする。

「よくわからないが、お前の中で区切りがつきそうなのはいいことだな」

「はい。少しだけホッとしています」

 ぬか喜びだ、と白は内心で思った。きっと、鬼が笑っていることだろう。とはいえ、ほんのわずかな可能性であっても手がかりが切れ端が目の前をチラついたのだから、少しでも目標に近付ければ良かった。

「まあ、やるだけやってみるといい。納得するまでな」

 言外にみつからないことを仄めかされている気がしたが、帰省した白に対して祖父がみせる態度としてはいつも通りのものなので、さほど気にならない。というよりも、結局のところこの問題の解決は白の心の中にしかなかった。手助けがあった方がありがたい一方、外野がどう思うかどうかという点はさっぱり関係がないので、気にする必要がない、という方が適切か。

 そこまで考えたところで、眼鏡をかけた姉貴分の仏頂面が頭に浮かんだが、すぐに掻き消す。

「ところで、今回は黒江ととおる君は来ないんだったな。それで代わりに来てるのがたしか……」

 母と父の名を口にした祖父は、今日やってきた親戚ではない客の名を思い出そうとしているらしく、目線を宙でさまよわせる。

「はい。友人の茨城莉花さんが着いてきてくれています」

 助け舟を出すようにして、幼なじみの名を言うと、祖父は、そうかそういう名だったか、と思い出したように手を叩く。

「その茨城さんとやらは今はどこにいるんだ? 鹿子にはお前と一緒に来るようにと伝言を預けたはずだが」

「そのつもりだったんですけど、揚羽さんと意気投合したらしくて、話しこんでしまっていて……ものすごく楽しそうだったので邪魔するのも忍びなく」

 ここまで話したところで、揚羽に不利なことを言ってしまったのではないのか、という疑惑にかられる。しかし、予想に反して祖父は、そうか、と一言口にしてから、

「あれの若い話相手は鹿子ぐらいしかいないからな。たまにいい息抜きになっていいかもしれん」

 一人納得するように頷いてみせた。意外な反応だ。少なくともこれまで白が見てきた範囲において、祖父は、使用人は石ころ、くらいの態度で生きている節があったから。孫の目線に気付いたのか祖父は、バツが悪そうに目を閉じる。

「なにを勘違いしとるか知らないが、別にあれのことを蔑ろにしているつもりはない。最低限の分を弁えろとは思うが、それ以上は求めるつもりはこちらは何も言わん」

 これまでの祖父の振る舞いを見ている身としては、本当か、と疑いたくなるような口ぶりではあったが、噓だとかごまかしの気配は感じとれなかったので、さしあたっては信じるようと決める。もっとも、噓であろうとなかろうと、あくまでも訪問者である白が揚羽に対してできることは、せいぜい気休め程度でしかないのだが。

「それにしても、茨城……莉花、ねぇ」

 呟く祖父の罅割れ気味の顔により深い皺が寄る。

「莉花……さんがなにか?」

 まさか、俺が知らないだけで、知り合いだとでも言うんだろうか? 戸惑うに白に対して、祖父は、いや、と額に指を押しつける。

「なんでもない、と思うんだが。なにか、聞き覚えのある響きな気がしてな……」

 意味深な言葉を残す祖父。

 白の記憶にあるかぎりにおいては、この老人は今住んでいる土地の外にはあまり足を運んでいないはずで、だとすればおぼえがある人間もこの辺りの人間の可能性が高いように思えた。いや、むしろ逆に、外から訪れたゆえに脳裏に強く焼きついたという線もあるかもしれない。とはいえ、白よりも何年も多く生きている男の人生内での話である以上、一部分しか生が重なっていない孫が考えてわかる話でもないだろう。

 再び祖父の方を見やれば、記憶の中にある響きについての物思いに耽りはじめているらしかった。

「それじゃあ、そろそろ失礼させてもらいますね」

 このまま放っておけば何時間も立ち尽くすことになりかねないため、白は退去の挨拶を口にする。祖父は、おお、と応じたあと、

「これからどうするつもりだ?」

「ちょっと散策に行ってこようかと」

「そうか……では、また夕食の時に」

「はい。それでは失礼します」

 頭を下げて踵を返す。背中では、自らの頭の中から情報を取り出しているのか、厳かに呟く老人の声が聞こえてきて、少々気持ち悪いな、と白は思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る