オーダー3 鳥子 もう一杯!

 運よく車はいなくて、島彦は無事に二車線の道を横断した。ほっとしたというより、恐ろしさのあまり泣きそうだ。もしも島彦までいなくなったら、私は……。

 泣きたい気持ちを飲みこんで、右見て左見て安全確認して道を渡る。


「島彦! 道路を渡る時はどうするんだった?」


 私の大声が聞こえていないみたいで、しゃがみこんだ島彦は必死になにかを見ている。


「島彦。ちゃんと聞いて」


「宝箱だよ!」


 指さす先を見ると、確かに宝箱があった。両手で抱えられるサイズの木箱。角を金属で補強してあって、かんぬきがついて頑丈そうな錠が掛けられている。


「すごいなあ、きっと海賊の宝箱だよ」


 食い入るように宝箱を見つめている。これはだめだ。集中している島彦は周りのことが見えなくなる。自分が道を渡ってきたことも記憶にないだろう。


「いらっしゃいませ。なにかお探しですか」


 声をかけられて顔を上げる。それで初めて気づいた。ここ、お花屋さんだ。『花結び』って看板がかけてある。店から出て来た若い女性は緑色のエプロンがとっても似合う、優しい笑顔を浮かべていた。島彦が両手で木箱を撫でる。


「宝箱、開けていいですか?」


「島彦、これはお店のものだから」


 なんとか関心をよそに向けようとするけど、島彦は宝箱に食いついて離れない。お花屋さんは近づいてきてしゃがみこむと、島彦と視線を合わせて、にこりと笑った。


「これはね、鍵がなくて開かないのよ」


「鍵、どこに行ったの?」


「おじいちゃんが失くしちゃったの。なにが入ってるかも忘れちゃったんだって」


「あのね」


 島彦がお花屋さんの耳に口を近づけて囁く。


「宝箱のなかには、くすりびんが入ってるんだよ」


 お花屋さんは目を丸くする。


「すごい。物知りだね」


「うん。だって僕、冒険者だから」


「そうなんだ。これから冒険に行くところ?」


「うん! それでね」


 また小声になって、お花屋さんに囁く。


「仲間が病気だから、くすりびんを探してたの」


「そうなんだ。この宝箱、開いたら良かったんだけど。そうだ、ちょっと待って」


 お花屋さんはパタパタとお店に入っていった。すぐに右手に金づち、左手に大きな、恐らく五寸釘だと思われるやつを持って戻ってきた。


「鍵を壊そう!」


「えっ、だめですよ! 大切なものなんでしょう」


 止めようとしたけれど、お花屋さんはやる気満々だ。


「木が痛んできたから処分するか迷ってたんです。捨てるくらいなら、壊して中身を出した方がいいですよね!」


「え、でも、今じゃなくても……って、ああ!」


 お花屋さんは閂と箱の隙間に五寸釘を差しこむと、金づちで思いきり、コーンといった。ガツン、ガツンと何度も金づちを振るう。その嬉々とした表情に、私はもうなにも言えない。

 きっと、彼女は待っていたのだ。この宝箱を壊すべき時を。そのトリガーを引いてしまったのだ、島彦は。

 ガツン! ガツン! バキッ!と、歴史が壊れる音がした。鬼気迫るお花屋さんは、ふうと息を吐いて金づちを下ろす。


「鍵が開いた! 開いたね!」


 飛び上がって喜ぶ島彦に、お花屋さんは額の汗を拭いながら微笑みかけた。


「よし、宝箱を開けようか」


「うん!」


 二人はしゃがみこんで、宝箱の蓋をじっと見つめる。お花屋さんが蓋に手を掛け、ゆっくりと押し上げた。


 中には茶色い紙が一枚。四つ折りになって入っていた。

 お花屋さんがつまんで取り出そうとしたけど、紙は宝箱の底にぴったりと張り付いていて、べりりと破けた。その破れ目から、ぽろぽろと白っぽい粒が落ちる。


「オタネニンジンのタネ?」


 お花屋さんがぽつりと呟く。


「オタネニンジンって、なに?」


 島彦が尋ねると、お花屋さんはわかりやすく教えてくれた。


「体にとってもいい植物なの。育てるのがすごく難しいんだけど」


「それって、おくすり?」


「そうだね。すごくよく効くって言われてるおくすりだよ」


「おくすり探してたの。くださいな!」


 島彦の言葉に、お花屋さんは、ううん、と首を振る。


「これはタネだから、まだおくすりにはならないの。これから何年も育てて大きくしてあげなきゃいけないの」


 島彦はしゅんとしてしまう。


「じゃあ、時也くんのおくすりじゃないんだ」


「時也くんって、お友達?」


「うん。病気なの」


「そっか。そうだ、ハーブティーはどうかな」


「なあに、それ」


「お花の力を借りて元気になるお茶だよ。私が育てたハーブを使ってるの」


「ください!」


 島彦が元気よく手を上げると、お花屋さんはじっと私を見上げた。商売上手だなあ。まいっちゃうね、どうにも。


「どんなのがあるんですか」


「症状によっていろいろブレンドしますよ。頭痛、腹痛、冷えとか、憂鬱感とか」


「うつとかも?」


「そうですね。うつ病に効くって言われるハーブはあるんですよ。セントジョーンズワートって言うんですけど。これはお薬を飲んでいる方だと効果を強めたり、いろいろ難しいので、うちでは扱っていません。うつ状態のイライラとか落ち込みには、心身をリラックスさせる優しいハーブがいいと思います」


 そう言って立ち上がると、お店のドアに向かった。


「中へどうぞ」


 促されて入っていくと、そこは良い魔女の住まいのようだった。


 黒いバケツがたくさん並んで色とりどりの花が活けてある。それは普通のお花屋さんと同じなんだけど、天井からドライフラワーが吊るされていたり、木製のテーブルと椅子があってカフェスペースのようになっていたり。

 色鮮やかなリースや、ポプリが入っているらしき小さなレースの小袋が壁に掛かっていたり。店の奥にある棚にはガラスの瓶が並んでいて、中には様々なハーブが詰められていた。乾燥したものもあるし、新鮮そうな青々したものもある。


「ハーブティーの味見もありますよ。今はペパーミントとカモミール、エキナセアがあります」


 島彦は天井のドライフラワーに夢中だ。


「それぞれ、どんな効果があるんですか」


「エキナセアは咳によく効きます。カモミールは鎮静作用があって胃腸を整える働きもあります。ペパーミントはとにかく色んな不調に効きますね。片頭痛や乗り物酔い、睡眠障害にも効果があります」


 それは聞き捨てならない。


「睡眠障害というと、不眠とか?」


「そうですね。よく眠れるようになりますよ」


「味見してもいいですか」


 店員さんは小さなグラスを二つだして、冷蔵庫のガラスのポットから薄い茶色のお茶を注いでくれた。


「どうぞ。冒険者くん、君もどうぞ」


 島彦が、たーっと駆けてきてカウンターを見上げる。グラスを渡してやると、鼻を突っ込みそうな勢いで匂いを嗅ぐ。


「すーすーする」


 私も鼻を突っ込んでみると、確かに、かなりすーすーした。鼻詰まりなんか一発で治りそう。

 グラスに口を付ける。冷たいお茶が唇に気持ちいい。こくんと飲むと、口の中もすーっと冷ややかになって、少しの苦みと草の香りが残った。島彦も一口飲んで、じっとグラスを見つめる。


「苦かった? お母さんが飲もうか?」


 島彦は首を横に振って一気に飲み干して、満足げだ。


「どくけしそうだね!」


 店員さんが目線を低くして島彦に尋ねる。


「もしかして、ラジモンやってる?」


「うん! もう五回目」


「わあ、すごいね。それでくすりびんのことも知ってたんだ」


 どうやら店員さんもゲームが好きみたいだ。島彦は本当の冒険者に見えるほどキリっとした表情で店員さんと話しをする。


「時也くんの病気はね、元気がなくなるの。それで眠れないときもあるんだって。時也くんが元気になるお薬ありますか?」


「それなら、今飲んでもらったペパーミントとカモミールを合わせるのがちょうどいいですよ! 味も爽やかで飲みやすいですし。カモミールも味見してみてください」


 店員さんは嬉しそうにもう一杯、お茶を注いでくれた。ペパーミントより薄い色で、これといった強い香りもしない。飲んでみても味もこれといってしない。ただほんの少し、艶めかしいような花を連想させる感じがする。


「これと、さっきのを組み合わせるんですね」


「はい。一緒に注いでみましょうか」


「お願いします」


 三杯目のハーブティーは、すーすーが少し和らいで、草っぽさが消えて、すごく飲みやすい。


「美味しいです。島彦はどう?」


「これ、はくらいのくすりだ! くすりびんより元気になるんだよね!」


 店員さんは満面の笑みで頷いた。




 島彦の熱望でカモミールとペパーミントを配合したものを袋に入れてもらって店を出た。


「すごかったね、お母さん。宝箱もあったし、あのお店、王様のお店かもしれないよ」


「そうなんだ」


「これなら絶対に、時也くん、元気になるよ!」


「そうだね」


 島彦と手を繋いで、スキップしたいような気分で歩いていく。

 お花屋さんと時也のところは同じ町内だ。すぐにおうちが見えてきて、島彦が駆けだそうとしたけど、手をぎゅーっと引っ張って止める。


「島彦、道路を歩くときのお約束、わかる?」


 島彦は神妙な顔つきで頷いた。


「走りません、飛び出しません、遊びません」


「よし。じゃあ、慎重に歩いて行くよ」


「はーい」


 大きく手を上げた島彦は、ちゃんとお約束を守って時也の家にたどり着いた。


「来たよー」


 大声で言いながらドアを開ける。お茶の間から虎狼が顔を出した。


「島彦、しー」


 口の前に指を立てて虎狼が小声で囁く。


「しー」


 島彦が真似をして指を立て、そっと靴を脱いで、そっと廊下に上がった。私も後について上がり、お茶の間を覗く。座布団を枕に、布団をかぶった時也が眠っていた。


「時也、寝てるんだね」


「ああ。朝飯食うって起きて来たけど、座っていられなくて横になったと思ったら、寝息立ててた。島彦、手を洗え」


「はーい」


 返事も小声で足音を立てないように、そっとそっと歩いていく。


「なんか、本当にごめんね。時也の面倒もあるのに、島彦まで」


「なにも面倒なんてないさ。皆で遊んで、飯食うだけ。鳥ねえも、今日は思う存分、遊んで来いよ」


「遊びはしないよ。カレー食べに行くだけ」


 虎狼が苦笑する。


「カレー食べるのに、その服はどうかな。薄いピンクのワンピースなんて、染みが目立つぞ」


「染みなんてつけないもん」


「昨日も胸のところにカレーこぼしたろ」


「今日はこぼしません。そうだ、これ」


 肩に掛けたバッグから三冊のノートを取り出して虎狼に渡す。


「どこかにカレーのレシピがあるから」


「乱暴だな、鳥ねえは。どこかにって、もしかして伊吹いぶきさんのノート全然見てないのか?」


 聞かれたけれど、なんて答えたらいいんだろ。見てないって言ったら、今でも伊吹のこと忘れられないみたいだし、見たって言ったら、それこそ伊吹のこと忘れられないのを見抜かれそうな気がする。

 あれ? それってどっちにしても同じこと?


「私には、どのレシピも難しかったの」


 うん。これが正解。虎狼も苦笑いしてくれた。


「わかった。じゃあ、伊吹さんのカレーは俺がマスターするよ。昨日も今日もカレーだし、しばらく経ってからの方がいいよな」


「そうだねえ。三日も四日も続けてカレーっていうのもどうかな」


 虎狼は優しい眼差しを私に向ける。


「鳥ねえって義理堅いよな」


「そんなことないよ?」


「晩飯カレーで、翌日の手作りカレーの約束受けるとか。デートなら外食でもいいじゃないか」


「デートじゃないもん」


 なんとなく拗ねたような言い方になってしまった。虎狼はゆっくり頷いた。


「……そうか。まあ、俺が作ったような家庭のカレーと違うといいな。シェフが作ったやつとかな」


「それはどうだろう。なんだか当てつけみたいにスパイスから作るって言い出してはいたけど、どうなることやら」


「伊吹さんのカレーは世界一だから、当てつけにさえならない。心配するなよ」


「心配なんてしてない」


 また拗ねてる声だ。どうも私は本当に、ここ数日、甘え過ぎだ。でも虎狼は呆れもせずに優しく返事をしてくれた。


「世界で二番目かもしれないから、そこはよく味わってくるといいだろうな」


「わかった」


 しっかりと頷く。島彦がひょいとお茶の間に入って来た。


「お母さん、まだいたの。遅刻するよ」


「大丈夫、今日はゆっくり余裕をもって出てきて……」


 腕時計を見ると、驚くほど時間が経っている。そうだ、お花屋さんに寄ったんだった!


「鳥ねえ、ダッシュだ」


「島彦、いい子にしてるんだよ!」


「当たり前でしょ」


「行ってきます!」


 ローズピンクのワンピース姿で町を疾走した。




「ごめん、お待たせ!」


 ボンヤリ立っていた佐渡くんの正面に駆け込んで、両手を合わせて頭を下げる。


「べつに、いいですけど。そうだ、デザートを準備し忘れてました。アイスとかいいですよね」


「私が払わせていただきます」


「コンビニで一番高いやつが美味しいですよね」


「ぐぬぬぬ」


 一番高いって言ったって、一個や二個なら破産はしない。でもなんだろう、この物凄く損した感じ。


「うそです。デザートも用意してます」


「え、じゃあ、遅刻したお詫びはどうしよう」


「それ、お土産じゃないですか?」


 佐渡くんが指さしたのは花屋さんの小さな紙袋だ。


「じつは、そう。ちょっと渡すの早いけど、今日はお世話になりますの気持ちです」


「ありがとうございます」


 紙袋の授受を済ませて、佐渡くんが歩き出す。なんだかお詫びのことはどこかへ行ってしまった。黙ってついて行ってると、質問された。


「これ、なんですか」


「ハーブティー。カレーに合うようにって言ったら、リコリスとレモングラスとジンジャーをミックスしてくれた」


「カレーのハーブとかぶりますね。だから、合うのかな」


「協調するには共通点は必要かもね。完全に対極にあるものも相性は良さそうだけど、完全を求めるには緻密な計算が必要だし」


「沖野さんって、家でもそんな喋り方なんですか?」


 ちらっと視線がこちらを向いた。


「そんなって、どんな」


「漢字変換が必要な感じです」


「えー、そんな喋り方はしないよ。ひらがな、カタカナばっかりだよ」


「じゃあ、今日はそれで行きましょう。会社っぽい会話はなしで」


「らじゃーです」


「ですますもなしっていうのは?」


「おーけーです」


「ですは、なし」


「そうだそうだ。おーけーなり」


 佐渡くんの住まいは明るい感じのマンションだった。エントランスが東向きで、きれいに掃除されてる。ガラス扉からぽかぽかのお日様が差しこんで暖かい。


「いいところに住んでるね」


「そうかな。家賃は安いんだけど」


「風水的な話」


「沖野さん、占いとか好きなの?」


「ううん、私じゃなくて……。ええっと、今の家を決めるときに、少しね」


「ふうん」


 なんだか微妙に空気が尖ったような感じになった。エレベーターでも無言。佐渡くんは、変わっていく階数表示を見ていて、私は佐渡くんの靴のつま先を見ていた。


 無言のまま歩く佐渡くんについて行く。通路に五つドアが並んでいて、佐渡くんは一番奥のドアの前まで行った。


「ここは風水的にどうですか」


 ですますに戻った。わざとなのか、ついついなのかはわからない。


「えっと、東向きなのはエントランスと同じだから、神様に祝福されてるかも」


 佐渡くんは「ふはっ」と変な声で笑う。


「風水と祝福は、なんか違くない? 中華と西洋?」


「そうかな。幸せになれるなら、なんでもいいじゃない」


「それは言えてる。どうぞ、上がって」


 ドアのカギが、カードキーだ。


「ハイテク」


「なにが?」


「鍵が」


「いやいや、カードキーはもうローテクでしょう。それと、ハイテク、ローテクって言葉、死語だよね」


 先に玄関に入った佐渡くんがスリッパを貸してくれた。にょろにょろの刺繍のやつ。

 中はお洒落スペースだ。部屋はぶち抜きで1Kなんだけど、広さが尋常じゃない。うちのリビングが八畳だけど、その三倍くらいあるんじゃないか?


 南向きに大きなバルコニー。その近くに大きなソファベッド。部屋のどんつきにカウンターキッチン。ど真ん中にダイニングテーブル。

 風呂トイレはどうなってるんだ?と見渡すと北側にドアが一つ。あの奥か。


「すっごい部屋だね」


「見た目はいいんだけど、住みにくかった。クローゼットがないから、買わなきゃならなかったし」


 確かに、玄関近くに組み立て式のクローゼットが置いてある。見せる収納というやつか、ネクタイやら帽子やら、小物が側面に吊るされている。


「おしゃれさんめ」


「なにかな、それ。褒められてるのか貶されてるのか」


「褒めてはいないけど、貶してもいない」


「微妙」


 すごく楽し気な笑顔は会社では見られない。リラックスしてるのは自宅だからか、ですますではないからか。どちらかわからないけど、ちょっとかわいい。


「なんだか変な時間に集合しちゃったね。ブランチにカレーっていうのも……」


 佐渡くんの言葉が終わらないうちに、私のお腹は豪快な音で鳴った。佐渡くんが気を遣ってくれて、明るい声で言う。


「たまにはブランチにカレーもいいね」


「そうだねー」


 少しだけ恥ずかしい。


 カウンターのスツールに腰かけて佐渡くんの手際を眺める。ウエストからくるぶしまでのギャルソンみたいなエプロンを身につけて颯爽と料理を始めた。と言っても、もうほとんど出来上がっている。

 コンロにかけてある深めのフライパンに火が入ると、カレーの香りが広がる。昨夜のカレーが丸だとすると、このカレーは星型だ。ツンツン尖ってる。


 佐渡くんはフライパンの蓋を開けて、手のひらに乗るくらいの丸っこいガラス瓶から茶色のスパイスをガツンガツンと振り入れた。そうすると尖っていた香りがふわりと柔らかくなって、星型が五角形になる。角はあるけど広角で突き刺さらない。そこで火を止めて蓋を戻した。


「カレーは寝かすの?」


「寝かすっていうか、蒸らし。ガラムマサラの香りを開かせるために」


 言いながら、冷蔵庫から陶器のボウルを取り出して、私に寄越す。


「テーブルに運んでおいて」


「はいよー」


 受け取って覗き込む。サラダは二人では食べきれないんじゃないかってほど、どっさりある。アボカド、ゆで卵、鳥肉、レタス、トマト、ブルーチーズ。そしてそして、生ハムがたっぷりと散らしてある! 


「ひゃっはーい」


 小声で快哉かいさいを叫んだのが聞こえたらしく、佐渡くんが、くっくっくっとしのび笑いを漏らす。うわあ、小憎たらしい笑い方。いつもなら腹が立つところだけど、今日は平気。なんせ生ハムが目の前にあるし。いや、そうじゃないか。私もリラックスしてるんだ。


「ビール飲む?」


 問われて勢いよく振りかえってしまった。しかし。


「いやあ、さすがに朝からは」


「休日だよ」


「休日だよね」


「ブランチだし」


「だよねー。飲んじゃう」


 冷蔵庫からよく冷えたグラスが出てきたということは、私が断らないと確信していたというわけで。とても良い判断だと思う。

 香ばしい匂いがするコンロを覗きに行くと、フライパンがもう一つ火にかけられて、ナンが焼かれていた。


「フライパン、いくつ持ってるの」


「三つだけ。あと、小ぶりだけど中華鍋ならある」


「もしかして佐渡くんって、本格的に料理する人だったり?」


「本格的だなんて、とてもとても。趣味の範囲だね。調理道具やスパイスを集めて楽しんでる」


「趣味と実用を兼ね備えるって、こういうことを言うんだ」


「実用じゃなくて、実益。結構、言い間違い多いなって、いつも思ってるんだけど」


「そんなことないでしょ」


「あるよ」


「ないってば」


「まあ、どっちでもいいか。そういうことは、ビールで流しちゃうのが一番だよ」


「賛成」


 特に意味のない会話をしているのが新鮮。会社では、そりゃ少しは雑談もするけど、基本は仕事の話だから。


 カレーは大きな白いお皿に注がれた。貴婦人の帽子を逆さにしたようなデザイン。頭のところにカレー、つばの部分にナンを乗せる。なるほど、無駄がない。

 サラダ用の取り皿を見て、そわそわしてしまう。よそ様のお宅で、勝手にサラダを取り分けちゃうのは行儀が悪いかな。


「遠慮しないで好きなだけ生ハム取ってよ」


「お言葉に甘えて!」


 行儀のことなんかかなぐり捨てて、トングを右手に立ち上がり、サラダをごっそりお皿に取る。生ハムもほとんど取ってしまってから、ハッとした。佐渡くんの分を残さなきゃ。

 そっと生ハムを挟んでボウルに戻そうとしていると、佐渡くんが腹を抱えて笑いだした。


「いいって、遠慮しないで。妙なところで律義だなあ」


「妙じゃないよ。大切なことじゃない。食べ物のことはきちんとしないと、禍根を残すし」


「恨まないよ。鳥子さんのために準備したんだから」


「そう? そうなら、もらっちゃおうか……」


 ん? 今、鳥子さんって言った?

 ちらりと見ると、佐渡くんはいやに真面目な顔をしている。


「ため口なのに沖野さんって呼ぶの、アンバランスだよね」


「そうだね」


「鳥子さん、俺の名前、知ってる?」


みなとくん」


 にっこり笑う。


「その方がいいよね」


「そうだね」


 返事はしたけど、どうしたらいいかわからなくなって、そっと座った。

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