秘拳の三十三 ティーチカヤーと角力

「何が言いたそうだな、トーガ。いいぜ、何か言いたいことがあるなら遠慮せず言えよ」


「なぜ、ユキを放していない? 俺との約束は……」


 一言一言喋るたびに口内から血が溢れ出す。


 あまりにも頬を蹴られ過ぎたせいで口の中に何箇所も切り傷ができていたからだ。


「おいおい、何か勘違いしてねえか。いつ俺がてめえと約束なんざ交わした? てめえが勝手に約束しろと言っただけだろうが。それにマジムン(魔物)の女を自由にしたら根森村に害を及ぼすかもしれねえだろ」


 ただ、とゲンシャは美しい顔立ちのユキを繁々と見始める。


「この女が本当にマジムン(魔物)かどうか確かめて見るのもいいな。マジムン(魔物)の類ならツカサ様の元へ連れて行くが、そうでなく本物の人間の女だったとしたら」


 ゲンシャは突き出した舌でユキの首筋を下から上へ舐めた。


「ここで味見でもしてみるか」


(味見だと?)


 トーガはゲンシャの蛮行にかつてないほどの怒りを覚えた。


 ゲンシャは思っていたよりも最低で下劣な男だったからだ。


 約束を平気で破ったのみならず、この期に及んでユキの身体を力尽くで汚すつもりなのか。


 ならば遠慮は無用である。


 怒りで苦痛を追い払ったトーガは右手で一握りの土を掴むと、身体を反転させつつ右手に握った土を前方に振るいかけた。


 取り巻きの四人は目を疑っただろう。


 無抵抗かつ瀕死の状態だったトーガが、一瞬の隙をついて土を振りかけてくるなど夢にも思わなかったはずだ。


 それゆえに取り巻きの四人は肉体を強張らせた。


 トーガが振るった土が両目に入って一時的に目の働きが使い物にならなくなったからである。


 上半身だけを起こしていたトーガは、取り巻きの四人を下から睥睨した。


 意識が覚醒していたトーガは素早く四人の取り巻きたちの状態を把握。


 四人の中でまともに目潰しを受けたのは左側に立っていた二人のみ。


 なのでトーガは目潰しを逃れた右側の二人を最初の標的と見なした。


 尻餅をついた状態からトーガは片膝立ちの状態に移行すると、正面に立っていた男の股間に正拳突きを放った。


 下帯を伝って拳頭に睾丸を殴打した特有の感触と温もりが感じられた。


 けれどもトーガの意識はすでに睾丸を殴打した男から離れていた。


 次は右斜向かいに立っていた男だ。


 睾丸を殴打された男の口からつんざくような悲鳴が発せられた中、トーガは片膝立ちから正常立ちに戻る力を利用して攻撃を放つ。


 狙いは相手の首元だ。そこへトーガは手刀を打ちつける。


 効果は抜群。首元に深く手刀打ちを食らった男は両膝から地面に崩れ落ちた。


 一拍の間も空けずにトーガは残りの二人に蹴りを放った。


 残りの二人は目潰しが最も効いていた者たちだ。


 そんな二人が本気になったティーチカヤー(手の使い手)であるトーガの攻撃を防げるはずがない。


 とめどなく溢れてくる涙を手の甲で拭っていた二人は、無防備だった股間に真下から跳ね上げるような蹴りを受けて悶絶した。


 金的への二連蹴りだ。


 トーガは口内に溜まっていた血をすべて地面に吐き捨てると、ゆっくりと振り返って呆気に取られていたゲンシャに視線を固定させる。


「てめえ……一体何者だ?」 


 ゲンシャは微妙に裏返った声で尋ねてきた。


「俺のことよりも自分のことを考えたらどうだ?」


 トーガはゲンシャに向かって固く握り締めた右拳を突きつける。


「あんたは俺との約束を守る気はないと言った。それなら俺も約束を守らんぞ。ユキを放さないならこの拳で助けるだけだ」


 口を半開きにさせて唖然としたゲンシャにトーガは言葉を捲くし立てた。


「だが俺は余計な争いは好まない。あんたが大人しくユキを放すなら見逃してやる。さっさと取り巻きの奴らを連れて失せろ」


 耳の奥で聞こえていた鼓動が十回を超えたときだろうか。


 ようやくトーガの言葉を理解したゲンシャは低い声で笑った。


「そうか、てめえはティーチカヤー(手の使い手)だったのか」


 さすがに日頃から角力(相撲)を鍛錬していたゲンシャである。


 取り巻きの四人を倒した技を見て、素人の攻撃ではないと見抜いたのだろう。


 それとも以前に別のティーチカヤー(手の使い手)と面識でもあったのだろうか。


「他の村のモーアシビ(毛遊び)に参加した際に聞いたことがあったぜ。琉球のあちこちの島には戦場で発展した武術――〈手〉とやらの技をこそこそと受け継いでいる奴らがいるってよ」


 ゲンシャはユキを突き飛ばすように放すと、岩のような巨体からは想像もできないほど身軽に茂みから飛び出てきた。


 そして河原に着地するなり毅然と歩み寄ってくる。


「それなら俄然に興味が湧いてきたぜ。一度、ティーチカヤー(手の使い手)とやらと勝負したかったんだ。俺の角力(相撲)が〈手〉に匹敵するか知るためにな」


 ゲンシャは二間(約三・六メートル)先で立ち止まると、両足を肩幅よりも広げて腰を深く落とした。


 前傾の姿勢のまま軽く突き出した両手を開手にする。


「呆れたものだな。取り巻きたちの仇討ちやツカサ様の命に従うことよりも、角力(相撲)のことしかあんたの頭にはないのか?」


 トーガは角力(相撲)とは一線を画す〈手〉の構えを取った。


 しかし、今のトーガはゲンシャの角力(相撲)に付き合う気はさらさらなかった。


 当然である。


 これから始まる勝負はモーアシビ(毛遊び)の余興で開かれる角力(相撲)ではなく、下手をすれば命の危険性もある仕合いだったからだ。


「俺がてめえに勝てばあいつらの仇討ちにもなってツカサ様の命も果たせる。だから呆れられる筋合いはねえよ。それに」


 直後、ゲンシャは盛大に地面を蹴って猛進してきた。


「ティーチカヤー(手の使い手)に勝てば俺の名前にも箔がつくってもんだ!」


 二間(三・六メートル)の距離が瞬時に縮まり、間合いに入ってきたゲンシャはトーガの帯を狙って左手を突き出してきた。


 反射的にトーガは両手の拳を固く握る。


 生前のクダンから〈手〉を学んでいた頃、トーガが一番恐ろしく神経を使った鍛錬が変手であった。


 変手とは互いに自由な攻防を行う鍛錬であり、相手の攻撃が予想できない点が実戦の力を養えるとしてクダンは〈手〉の鍛錬の中でも重要視していた。


 その通りだとトーガは今でも思っている。


 角力(相撲)も組んだ後は自由に攻防を行うには違いないが、相対した瞬間に勝負が始まる〈手〉から見れば実戦とは程遠い代物だと再確認できた。


 組んだ状態から始まるからこそ、まず相手の帯を取ることに意識が向いてしまう。


 ならば角力(相撲)を得意とする人間の心理さえ読み取れば、ゲンシャが相手だろうと恐るるに足りないと思ったのだ。


 トーガは数瞬の間に幾つかの攻撃方法から一つの技を選ぶと、真っ直ぐ帯に向かって飛んでくるゲンシャの左手を迅速かつ確実に壊せる技の体勢に入った。


 前蹴りである。


 これまで何千、何万回と鍛錬した前蹴りならばゲンシャの手首から先の部位を粉砕できるに違いない。


 そう思った矢先、トーガの背中に強烈な悪寒が走った。


(この場に立っていては駄目だ!)


 ティーチカヤー(手の使い手)の本能が働いたのだろうか。


 トーガは前蹴りを放つ行為を止めるや否や、両膝の力を抜いて左斜め前に迅速に身体を移動させた。


 次の瞬間、一刹那前に顔があった場所に突風を纏った〝何か〟が通過する。


(角力(相撲)取りが突き技だと!)


 これにはトーガも驚きを隠せなかった。


 一刹那前に顔があった場所に通過した〝何か〟の正体はゲンシャの右拳だったのだ。


「おりゃあっ!」


 だが真に驚いたのは右拳を躱した後だった。


 右拳を回避したのも束の間、ゲンシャは間髪を入れずに追撃を放ってきた。


 横に円を描くように裏拳が飛んでくる。


 飛んでくる場所は顔面だ。まともに食らえば頬骨を打たれて歯が砕けるだろう。


 だからこそトーガは地面を蹴って大きく後方に跳躍し、ゲンシャが続けざまに放ってきた裏拳をやり過ごした。


 それでもゲンシャの裏拳を完全に躱すことは適わなかった。


「どうやら本当にティーチカヤー(手の使い手)みてえだな。最初の突きはともかく返しの拳まで避けられるとは思わなかったぜ」


 ゲンシャは二発とも虚しく空を切った自分の右拳を口元に近づけると、指の隙間に挟まっていた数本の髪の毛を息で吹き飛ばした。


 トーガの髪の毛だ。


 皮膚にこそ触れなかったものの、ゲンシャの裏拳はトーガの前髪を数本だけ捉えていたのである。


「琉球の角力(相撲)取りが突き技とは落ちたものだな。得意の組み技はどうした?」


「抜かせ。土の目潰しで不意を衝かれたとはいえ、普段から俺と同じ角力(相撲)で肉体を鍛えていた四人を瞬く間に打ちのめされたんだ。あんなものを見せられて正直に組みに行くわけねえだろ」


 ゲンシャは分厚い唇を半月形に歪ませた。


「だから、ここは琉球の角力(相撲)じゃなく大和の角力(相撲)を取ることに決めた。聞いたところによると大和の角力(相撲)は遠い間合いから始まるんだってな。何でも組み技の他に突きや蹴りが許されているからだとか」


「俺のことを半端者と罵っていたわりに大和のことに詳しいんだな。本当は大和の人間や慣習に興味があるんじゃないのか?」


「勘違いするな。俺が大和のことで興味があるのは角力(相撲)のことだけだ。本音を言えば琉球の角力(相撲)には物足りなさを感じていた。その点、突きや蹴りが含まれている大和の角力(相撲)は使い勝手がいい」


「突きや蹴りを自在に繰り出すのはティーチカヤー(手の使い手)でも難しいんだ。俺の動きを見た程度で使えると思うのは浅はかな考えだぞ」


「確かに本物のティーチカヤー(手の使い手)からすれば、我流で磨いた俺の突きや蹴りなど付け焼刃だろうよ。だがティーチカヤー(手の使い手)がどれほど凄いと謳っても、しつこく何十発も打てば一発ぐらいは当たるだろう。そうなれば」


 ゲンシャは下卑た笑みを浮かべたまま上唇を舐めた。


「俺の勝ちだ」

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