秘拳の三十一 脅威、再び

「何せティンダとナズナはツカサ様に平然と軽口を叩ける数少ない人間たちだからな。このまま森に隠れ続けるよりもティンダかナズナに仲介役を頼んだほうが遥かにいい」


 ユキは差し伸べられたトーガの手を握り、着物に付着した土を丁寧に払い落としながら立ち上がった。


「ですが二人で会いに行くのは危険でしょう。私はここで待っていますからトーガさんだけで会いに行ってください」


「そうはいかん。大木が立っている平地から家まで向かうとはわけが違う。こんな広大な森の中で逸れたら一昼夜程度では絶対に互いを見つけられないぞ。だからこそ二人で行くんだ。君が心配するように危険も大きいが現状を打破できる希望も大きい。いいから俺を信じてくれ、ユキ」


 たった数日間の付き合いしかない相手を信じろと言うのは少々無理があったものの、ユキに伝えたことは紛うことなき真実だった。


 二人が身を潜めている周囲にも目印になるような木々が何本か見受けられたが、この場所は普段は立ち入らない森の深奥である。


 さすがのトーガも一度でこの場所を特定できるほど記憶力に自信はなかった。


 だから二人一緒に行動しようとトーガは提案したのだ。


「分かりました。トーガさんの言うことに私は従います」


 すかさず返ってきた言葉にトーガは呆気に取られた。


「ずっと疑問に思っていたんだが、君は俺のことをそんなに信用できるのか? たった数日間の付き合いしかないんだぞ」


「信用できますよ」


 ユキは一瞬の間も置かずに笑顔とともに答えた。


「トーガさんは信用に値するほど健全で実直な人です。そうでなければ私を匿う条件として私は身体を汚されていたことでしょう」


 顔を紅潮させたトーガはさっとユキから顔を背けた。


「年頃の女が身体を汚されるなんてはしたない言葉は使うな。それに正直に話せば俺もそういった欲がないわけじゃない」


「でも、トーガさんは事に望もうとしませんでした」


「当たり前だ。いくら俺でも女に対する礼儀は弁えている。それに君を匿ったのは心の底から君の身を案じたからさ。それは理解してくれ」


「ですからトーガさんのことは信用していると言っているじゃありませんか」


 ふふふ、とユキは女童のように無邪気に笑った。


(まったく、変なことを言って調子を狂わせないでくれよ)


 前髪を掻き毟りながらトーガは生唾を飲み込もうとしたときだ。


 上手く唾が飲み込めない。


 今の今まで呼吸を整えることと先行きの不安を解消する打開策を思考していたので気づかなかったが、唾を飲み込めないほど喉が渇ききっていた。


「なあ、ユキ。喉は渇いていないか?」


「喉ですか……いえ、別に渇いていませんけど」


 そうか、とトーガは自分の喉を軽く摩った。


「だが生憎と俺は渇いているんだ。それで少しばかり喉を水で潤したくてね」


「でもここに水はありませんよ」


「水ならあるさ」


 トーガは自分たちが逃げてきた方向を見据えると、今度は根森村の集落があると思われる方角に顔を向けた。


「この森には水源が豊富にあって根森村のカー(井戸)へと繋がっているのさ。もちろん、俺の家の近くにもカー(井戸)はあったが戻らないし戻れない。だったら話は簡単だ。周囲に気を配りつつ歩き回って水が湧き出ている場所を見つければいい」


「トーガさんはそんな簡単に水を見つけられますか?」


「前にムガイのオジィから聞いたことがある。集落から陶土の採掘場までの間に大きな沢があるらしい。それでなくとも岩場から湧き出ている水源の一つで見つかれば喉の渇きなんて一発で解消するんだがな」


 うろ覚えだった記憶を漏らしたとき、ユキはトーガとは真逆の方向に視線を転じた。


「岩場から染み出る水源の場所は分かりません。けれど清水が流れている沢の場所ならば何となく分かります」


 意外なユキの言葉にトーガは頓狂な声を発した。


「こちらです。私についてきてください」


 言うなりユキは軽快な足取りで歩き始めた。


「おい、ちょっと待ってくれ。沢の場所が分かるって一体――」


 尋ねる暇もなくユキは足場の悪い道なき道を進み、ときには藪漕ぎをしながら方向感覚を狂わせられる森の奥へと進んでいく。


 そんなユキの後を追うトーガはただ驚くばかりだ。


 山歩きは想像以上に困難を極める。


 緩急が激しい道を歩くのは男の足でも相当に体力と精神力を消耗し、常に周囲の木々や足場に注意を払わなければ怪我をしかねない。


 にもかかわらず、女であるユキは一度もナカユクイ(一休み)をせずに四半刻(約三十分)以上も歩き続けたのだ。


 その結果、トーガは驚愕の事実を目の当たりにする。


「嘘だろ。本当に沢まで辿り着いた」


 トーガの目に映る光景は幻ではなかった。


 河原の手前には涼しげな音を奏でて清水が流れている。


 晴天の日ならば水面が美しく陽光を反射させることだろう。


 ただ島の異変は沢にまで影響していた。聞いていたよりも水量が明らかに減っている。


 これではカー(井戸)の水が枯れ始めてもおかしくない。


 だが完全に干上がってはいなかったため、十分に喉の渇きを潤すことはできるだろう。


 それよりも、とトーガはユキに視線を転じた。


「教えてくれ、ユキ。君はどうやって沢の在り処が分かったんだ?」


「トーガさん、そんなことよりも今は早く喉を潤してください」


 逆に言い包められたトーガは低く唸った。


「分かった。だが喉の渇きを潤したら教えて貰うからな」


 トーガは茂みから河原に飛び出ると、我慢できないとばかりに沢へ駆け出した。


 沢の手前で片膝をついて手勺で水を掬って口に含ませる。


(これは旨い水だ)


 心からそう思わせるほど沢の水は冷たく喉越しが爽やかだった。


 喉が極限まで渇いていたトーガは、手勺では飽き足らず顔全体を水中に沈ませた。


 気だるげな熱さが吹き飛ぶと同時に喉の渇きも一遍に潤されていく。


 やがて盛大な水飛沫を上げてトーガは顔を水中から引き戻した。


「ユキ、君も飲んだほうがいい。これは予想していたよりも旨いぞ」


 と、茂みに置いてきたユキに顔を振り返らせたときだ。


「そりゃあ旨いだろうさ。女を連れて森の中を逃げ回っていたんだからよ」


 トーガは忌々しく舌打ちした。


「さっきは随分と世話になった。だからこうして礼をしに来たぜ」


 続いてトーガは血が滲むほど下唇を噛み締める。


「鼻頭を殴られた礼をな」


 ユキの細首に左手を回して肉体の自由を奪っていたゲンシャは、口内に溜まっていた唾を地面に吐き捨てた。


 精一杯の悪意と憤怒を込めて。

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