秘拳の二十九 ティンダの決意
「正直に話せばトーガの捕縛は失敗しました。奴はゲンシャさんに手傷を負わせると森の中へ逃げ込んだんです。しかも十五、六歳と思しき白髪の女を連れていました。あれはきっとマジムン(魔物)に違いありません」
トーガがゲンシャに手傷を負わせた。
これだけでも十分驚くに値する事柄だったが、ティンダが気になったのは別のことだ。
「十五、六歳と思しき白髪の女? そんな女は根森村にいないぞ」
「だからマジムン(魔物)じゃないかって皆で疑ったんだ。そのすぐ後だったよ。激昂したゲンシャさんがトーガを追って森へ入ったのは」
唾を飛ばすほどニクロが声を荒げた直後、カメは渋面のままティンダに顔を向けた。
「ティンダ、お前は石垣島に伝わる蛇神の婿入りという逸話を聞いたことがあるかい?」
「蛇神の婿入り……ああ、それなら聞いたことがある。年若い美貌の男に化けた白蛇がとある女に自分の子を産ませようと企んだが、男の異変に気づいた両親が物知りのオバァに相談して孕んだ蛇の子を堕ろすことに成功した話のことだろう?」
そこまで言ったとき、ティンダはカメの真意を理解した。
「まさか、トーガは蛇神に誑かされたのか!」
「それはまだ私にも分からない。ただニクロの話を聞く限り、トーガが不審な女を連れていることは分かった。もしかすると、その白髪の女は蛇神ではなく人魚かもしれんぞ」
「人魚ってザン(ジュゴン)のことじゃないよな?」
「ザン(ジュゴン)のことじゃない。私が言っているのは別の人魚のことだよ」
本来、琉球で人魚と言えば馬に顔立ちが似ているザン(ジュゴン)を指す。
そして琉球国王はザン(ジュゴン)の肉こそ不老長寿の薬と広め、漁で捕獲したときは速やかに塩漬けや燻製にして献上するよう八重山にまで通達していた。
けれども本島で暮らしている琉球国王は知らないのだ。
八重山で人魚と聞けばザン(ジュゴン)よりも人間の胴体と魚の尾を持つ奇怪な化け物を思い浮かべることを。
「もしもトーガが人間に化けた人魚を密かに匿っていたとしたら大変だよ。近いうちに黒城島は津波に飲み込まれて壊滅する。蛇神も同様さ。蛇神ならばトーガは気を狂わせられて島人に甚大な被害を与えるかもしれん」
ティンダは木槌で軽く叩かれたような頭痛に見舞われた。
「ニクロ、よく聞きな」
不意にカメは恐怖で震えていたニクロに人差し指を突きつけた。
「お前はトーガの捕縛を拒んでいる男衆たちに今の話を伝えるのだ。トーガは蛇神か人魚の化身かもしれぬ女を連れて森に逃げ込み、このままでは黒城島の存続に関わる危険が出た。故に徒党を組んで速やかにトーガと女を捕縛しろとな」
「は、はい! 承知しました!」
カメの命令を受けたニクロの動きは迅速を極めた。
颯爽と踵を返すなり、サンダを突き飛ばして戸口へ疾走していく。
一方で突き飛ばされたサンダは壁に後頭部を打ちつけ、間が抜けたことに白目を剥いて気絶してしまった。
それでもカメの関心はサンダにはいかず、表情を曇らせたティンダに向けられた。
「ティンダ、お前はどうする? トーガが人外の者を連れて逃げたのなら親友として見逃す範疇を大きく超えておるぞ」
「そんなことは分かっている。分かっているさ」
気乗りしないティンダにカメは行動を起こさせるため〝とどめ〟を刺した。
「親友を捕縛したくないと言うのなら仕方ない。だが、手傷を負わされたゲンシャはえらく激昂していたそうじゃないか。だとしたら誰よりも早くトーガを捕縛して安全を確保したほうがいいのではないか?」
これにはさすがのティンダも反論できなかった。
伊達に根森村の統治者としてツカサを任されたカメではない。祭祀を取り纏める手腕だけでなく、人心を巧みに操る術も十二分に会得していた。
「分かったよ。俺もカメバァの命令に従おう」
ナズナの荒い息遣いが聞こえていた中、ティンダは諦念を含ませた声で了承した。
「ただし俺が捕縛するのは蛇神か人魚か知らん女のほうだ。あんたたちと違って俺はトーガという男をよく知っている。きっと今のトーガは混乱の極みに達しているはずだ。だからこそ女を連れて森へ逃げたのさ」
「どうしてそこまで言い切れる?」
「伊達に童子の頃からの付き合いじゃない。ニクロが言っていたゲンシャに痛手を負わせたこともそうだ。大方、恐怖で突き出した拳が偶然にも鼻頭にでも命中したんだろう。それで恐怖に駆られたトーガは咄嗟に女を連れて森へと逃げ込んだのさ」
「つまり、お前はあくまでも異変の元凶は女のほうと主張するわけかい?」
「他にもトーガが白髪の女に誑かされていることも考えられる」
ティンダの言い分を聞いてカメは深い溜息を吐いた。
「まあ、お前はお前で好きに動くがいいさ。だけど肝心なことを忘れるなよ、ティンダ。すでに私はニクロを通じて他の男衆にトーガの捕縛を命じたことをね」
「カメバァこそ忘れるなよ。あんたが思う以上にトーガに対する島人たちの評判は高い。それは男衆とて同じだ。事情を訊いたとしても真剣に動くのは半分以下だろうよ」
「半分以下でも十分すぎる数さ。何せ男衆は五十人の屈強な男たちばかりだからね」
確かに男衆は有事の際を考えて結成された約五十人の男たちだ。
そんな男衆の半分以下が動くとしても、約二十人近い男たちがトーガの捕縛のために森へ入ることになる。
ならば事態は一刻を争う。
何としても他の連中よりも早く女を捕まえなければ無実であるトーガの身が危険に晒されてしまう。
「くそっ、こんなことならニクロを無理にでも引き止めておけばよかった」
ティンダは表情を引き締めると、開けっ放しだった戸を抜けて廊下に出た。
そのまま足早に戸口へ向かっていく。
完全にティンダの気配が消えた頃、カメは皺だらけの顔を骨ばった手で覆い隠した。
「やはり大和人の血を継ぐ者を村に置いていたのが間違いだった。こんなことになるのならもっと早くに島から追い出しておくべきだったよ」
などと冷たい声で囁いたカメは未だ気づいていなかった。
布団に寝かされていたナズナの目蓋が徐々に開き始めたことに。
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