秘拳の二十七 襲い来る、トーガへの脅威

「ええ、決して誰にも漏らしません」


 だから安心してください、とユキは言葉をつけ足したときだ。


 屈託のない笑顔を浮かべたユキを間近で見て、トーガは己の心情の変化に戸惑った。


(本当にここ数日の俺はどうかしているな。手刀に込められた裏の意味や隠し手のことまで教えるとは)


 いくらユキがティーチカヤー(手の使い手)ではないとはいえ、一度ならず二度までも技を披露するなど愚の骨頂である。


 ましてや二度目は自分から見せたのだ。よく考えれば蔦を払う程度なら手刀打ちを使わずとも普通に手で引き千切ればいい話だった。


 それに、とトーガは手刀打ちに使った右手を見下ろす。


 右手の小指と手首の中間――手刀を用いた場所に薄っすらと血が滲んでいた。


 蔦を断ち切った際に負傷したのだろう。傷口からは手首に向かって赤糸のような細い鮮血が垂れていく。


「大変です、トーガさん。手から血が出ていますよ」


「切られた蔦に復讐でもされたんだろう。でも心配するな。こんなもの掠り傷さ」


 そう言うとトーガは懐に常備していた細布を取り出し、慣れた手つきで裂傷した右手に何重にも巻きつけた。


 その直後である。


 不意にトーガは眉間に皴を寄せ、険を含ませた眼差しで周囲を見渡した。


「どうしたのです? 急に怖い顔を作って」


 そこまで言ったとき、ユキもようやく気づいたのだろう。


 険しい表情を作って視線を四方に彷徨わせる。


「トーガさん。どこからか奇妙な音が聞こえませんか?」


「ああ、俺にも聞こえている」


 トーガは片膝を地面につけると、顔を傾けさせて右耳を地面に密着させた。


 地面から異様な音が聞こえてくる。馬が駆けるときに生じる馬蹄音とは微妙に違う。


 ならば何の音だ、とトーガが思考したときだ。


「いたぞ! トーガだ!」


 後方から張りのある男の声が響いてきた。


 トーガは機敏な動作で立ち上がると、耳に付着した土も払わずに身体ごと振り返らせる。


 これにはトーガも目を瞠った。


 根森村の集落へと続く曲がり道から男が続々と現れ、咄嗟のことで頭が混乱していたトーガとユキに駆け寄ってきたのだ。


 男たちは総勢六人。


 全員がツカサであるカメが見込んだ男衆たちだった。


 海に潜っても漁の邪魔にならないように切られた短髪に、着物の隙間から覗く肌は強烈な日差しで焼けた褐色。


 角力(相撲)で鍛え上げられた肉体はたとえるならば肉の壁である。


 嫌な予感を覚えたトーガは、はたと我に返るなりユキを背中に回した。


 男衆たちの意識から少しでもユキの姿を逸らすためだ。


「トーガさん」


「ユキ、俺の背中に張りついていろ。特に白髪を見られないようにするんだ」


 トーガが放った重く静かな指示に触発されたのだろう。


 ユキはトーガの背に身を預け、言われた通りに頭を低くする。


 男衆たちが三間(約五・四メートル)先で立ち止まるや否や、他の男たちとは頭一つ分は背が高い男が剣呑な声で尋ねてきた。


「これは驚いた。てめえには浮いた話が一つもねえから、てっきり女には興味がないとばかり思っていたぜ」


 トーガは胸中で激しく舌打ちする。


 男衆でもある取り巻きたちを掻き分けて現れたのはゲンシャであった。


「まあ、そんなことはどうでもいい。今は何も言わずに俺たちと一緒に来るんだ」


「何のために?」


「何のためだと?」


 ゲンシャは鼻先を強く親指の腹で擦った。


「トーガ。てめえには黒城島に異変を起こした罪人として捕縛の命が下されている」


「俺が黒城島に異変を起こした罪人? ふざけるな! 言いがかりも甚だしいぞ!」


「そんなことは知らねえよ。ツカサ様の命令なんだ。言っとくが断ることはできねえぞ」


 トーガは少しばかり間を置いた後に「分かった」と了承した。


「どうやら面と向かって誤解を解く必要があるみたいだな。だが一度だけ家に帰らせてくれないか? 実は大量に汗を掻いていて着心地が悪いんだ。それに今は生憎と連れがいる」


 どういう理由でカメから呼び出されたのかは不明だったが、ゲンシャたちの身体から放出されている雰囲気が如実に物語っていた。


 納得のいく説明なしに断れば力尽くで連れて行かれそうな言い知れぬ迫力を感じる。


 ならば尚更に家へと帰りたい。


 本当のところ着替えはどうでもいいとして、ゲンシャたちに見られる前に白髪のユキを何としても家に匿いたかったのだ。


 しかし――。


「俺たちは今すぐトーガを連れて来いと言われたんだ。汗を掻いて着心地が悪かろうが女連れだろうが家に帰る暇なんて与えられるはずねえだろ」


「そこを何とか折れてくれ。四半刻(約三十分)もかからない」


「いいから俺たちと来るんだよ!」


 短気者でもあったゲンシャは、多少食い下がった程度で怒声を吐き出した。


 それだけではない。苛立ったゲンシャは力強い足取りで歩み寄ってくる。


「待て、そう熱くなるな」


 トーガは右手を前方に突き出したが、ゲンシャの歩みを止める力は働かなかった。


 二間半(約四・五メートル)、二間(約三・六メートル)、一間半(約二・七メートル)と確実にゲンシャとトーガの間合いが縮まっていく。


 やがて一間(約一・八メートル)まで距離が詰まったときだ。


「止まれ、それ以上俺たちに近づくな!」


 トーガの裂帛の気迫に押され、ゲンシャは身体を一瞬だけ震わせて歩みを止めた。


「てめえ、ツカサ様の命令を無視するつもりか!」


「誰もそんなことは言っていない。ただ一度だけ家に帰らせて欲しいと頼んでいるだけだ。そうすれば俺は大人しくあんたたちに付いていく」


 だから、とトーガは低い声を漏らした。


「一度だけ家に帰らせて欲しい」


「カシマサン(うるせえ)! ごちゃごちゃ抜かさずにさっさと来ればいいんだよ!」


 要求を一蹴したゲンシャは、トーガの襟を掴もうと分厚い右手を突き出してくる。


 このままでは強引に襟首を掴まれて身体を拘束されるだけでなく、背の後ろに隠していたユキの姿まで視認されてしまう。


 そう思った瞬間、トーガの脳裏に遠い昔の記憶が蘇った。


 琉球人と大和人の間に生まれた半端者としてゲンシャに苛められた忌まわしい過去の記憶がである。


「さあ、大人しく俺たちと」


 互いの間合いが一間(約一・八メートル)よりも狭まり、ゲンシャの右手が今にもトーガの襟首を掴もうとしたときだった。


「忠告はしたからな」


 トーガはゲンシャの右手を同じ右手で巻き込むように受け流すと、極限まで脱力させた右足で無防備だったゲンシャの股間を軽く蹴り上げた。


 予想もしない奇襲を受け、ゲンシャは眼球が飛び出るほど表情を苦痛に歪ませる。


 そんなゲンシャにトーガは容赦なく追撃した。


 鋭い踏み込みと同時に右手の掌でゲンシャの顔面を突いたのだ。


 接近戦において凄まじい威力を発揮する掌底打ちである。


 周囲に拍手を打ったときのような乾いた音が轟き、顔面を強打されたゲンシャは盛大に鼻血を噴出させて後方に吹き飛んだ。


「ユキ、俺と一緒に来るんだ!」


 ゲンシャが背中から地面に倒れた様を見届けると、すかさずトーガは状況を判然とさせていないユキの腕を取って走り始めた。


 小道の先に点在する家にではない。あらゆる多年草が鬱蒼と生い茂る森の中へだ。


「おい、お前ら見たよな? トーガが連れていた女の風貌を」


 トーガとユキが森の奥へ姿を消した後、呆然と事の成り行きを見守っていた取り巻きの一人がぼそりと呟いた。


 分厚い唇が特徴的なニクロである。


「見た見た。着物や肌だけじゃない。髪の毛まで白かった年若い女だったぞ」


「ティンダと同じだ。けれど根森村の中でティンダ以外に白髪の若者などいない」


「だったら、あの女は誰なんだよ」


「まさか……マジムン(魔物)?」


 取り巻きたちの顔から血の気が引いたとき、背中から地面に倒れたゲンシャがむくりと起き上がった。


 全身を小刻みに震わせながら鼻血で赤く染まった自身の顔に触れる。


「おい、誰でもいいから今すぐツカサ様に報告しに行くんだ。トーガは命令に従わなかった上にマジムン(魔物)と思しき女を連れて森へ逃げた。だから――」


 血が付着した右手を固く握り締めるなり、ゲンシャはこめかみに青筋を浮かばせながら地面に拳を叩きつける。


 へこみこそしなかったものの、ゲンシャの突きが凄まじい威力を有していたのは舞い上がった砂塵の量で判断できた。


「少々痛めつけることになるとな!」

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