秘拳の十九  不穏な地震

「そんなに心配するな。お前が考えているよりも俺は弱くない。勝てないまでも引き分けには持ち込んでやるさ。だから行司役は頼んだぜ」


 完全に交代を申し出る機会を失ったトーガは、力強い足取りでゲンシャに向かっていくティンダの背中を呆然と見据えた。


 何と自信に満ち溢れた言葉と態度だろう。


 これから化け物のような巨漢を誇るゲンシャと角力(相撲)で仕合うというのに、ティンダの後姿からは寸毫の恐れも感じられない。


「おい、やるなら早くやれ!」


「それとも怖気づいたのか!」


 高揚が最高潮にまで達したのだろう。


 ゲンシャの取り巻きや、群集たちからは苛烈な野次が飛んでくる。


(ここで俺が代われと言ってもティンダは聞き入れないか)


 トーガは長く息を吐くと、激しい視殺戦を繰り広げていた二人に走り寄った。


「分かった。行司役は俺が引き受ける。ゲンシャ、あんたもそれで異存はないな?」


 ゲンシャはふんと鼻で笑った。


「お断りだ……と、言いたいところだが別に構わねえよ。誰が行司役を務めようが勝つのは俺だからな」


 どうやら二人の闘いはすでに始まっているようだ。


 ゲンシャもティンダも周囲の騒音など軽く聞き流し、これから雌雄を決する相手の顔しか見ていない。


 群集の歓声が一際大きくなったとき、トーガは行司役として大声で言い放った。


「これよりティンダとゲンシャの角力(相撲)勝負を執り行う。勝敗はどちらかの背中が地面に触れたとき。それ以外ならばすべて引き分けだ。いいな?」


 トーガの凛然とした声が群集の一人一人にまで届くなり、ティンダとゲンシャは互いに相手の腰に巻かれていた無地のミンサー(帯)を掴む。琉球の角力(相撲)は大和の角力(相撲)とは違って互いに組んだ状態から始まるからだ。


(怪我だけはするなよ、ティンダ)


 胸中で呟いたトーガは、「始め!」と二人の背中を同時に叩く。


 次の瞬間、ティンダとゲンシャの角力(相撲)勝負が始まった。


 群集が飛ばしていた野次が瞬時に歓声へと変わる。


「うりゃああああ!」


「おおおおおおお!」


 そして角力(相撲)が始まったと同時に、ティンダとゲンシャの口からは腹の底から搾り出したような裂帛の気合が発せられた。


 行司役のトーガは間近で二人の角力(相撲)を食い入るように凝視する。


 凄まじい闘いだ。


 体格で勝っているゲンシャは分厚い胸板をティンダの顔に押しつけ、無数の血管が浮き出た両腕の力のみで投げようと必死の形相を浮かべた。


 対してティンダは両足の太股と足指に力を入れ、地面を噛み締めるように耐え抜いている。


 本当ならばティンダは身の軽さを利用して体を入れ替えたいところだろう。


 そのときに僅かでも隙がでれば足払いを仕掛けて投げることも可能だ。


 しかし、それをゲンシャは圧倒的な筋力と経験で培った勝負勘で阻止していた。


 さすがに角力(相撲)を自慢とするだけはある。


「ふんっ!」


 どれほど膠着状態が続いただろう。


 途端にゲンシャは勝負を仕掛けた。


 ティンダのミンサー(帯)を引きつけると、腰を素早く反転させて左足を刈りにかかる。


 瞬間、トーガはティンダの敗北を予想した。


 このままティンダは地面に背中から強烈に落とされて敗北を喫してしまうのか。


 などとトーガが奥歯を軋ませたときだ。


 ティンダの粘り強さはトーガの予想を遥かに超していた。


 何とティンダは刈られる寸前に左足を引き、ゲンシャの足払いを空に切らせたのだ。


 それだけではない。


 瞬時に体勢を整えたティンダは、ゲンシャが見せた一瞬の隙を見逃さなかった。


 相手の背中から抱きつき、そのまま後方へ投げ落としにかかったのだ。


 トーガは手に汗を握りつつ下唇を噛み締めた。


 そのときである。


「しゃらくせい!」


 ゲンシャは深く腰を落としてティンダの投げを間一髪のところで持ち堪えた。


 群集から大きな歓声が飛び交う中、ティンダとゲンシャは再び四つ組の状態に戻る。


 ここまで来ると互いの意地と矜持をすべて賭けた戦に等しい。


 勝者には英雄という名誉な二文字が与えられるが、敗者には負け犬という忌まわしい三文字が与えられる。


 トーガはいつの間にか二人の動きを余すことなく見極めていた。


 二人の体力は確実に限界へと近づいている。


 荒ぐ呼吸、顔中から噴出していた汗、真っ赤に充血した目、おそらく次に隙を見せたほうが地面に背中から落とされて負けるに違いない。


 不意にティンダは喉が枯れるほどの大声を発した。


 残されていた最後の力を振り絞り、盛大に地面を蹴ってゲンシャの両足を両手で刈りに出たのだ。


 これにはゲンシャも顔を歪めた。


 真正面から足を両手で刈りに来る人間など今までの角力(相撲)勝負でいたかどうか。


「ぐぬうう……」


 ゲンシャは咄嗟の判断で両足を大きく広げた。


 これにより両手で足を刈られる危険性は回避されたが、ティンダはゲンシャの腰周りに張りついて離れない。


 それでもティンダの勝機はまだある。


 投げられなかったものの、ゲンシャの肉体は依然として不安定な体勢のままだった。


 つまりゲンシャを大木に見立てたならば根を掘り起こされた状態なのだ。


(今だ、ティンダ。あと一押しでゲンシャを倒せるぞ)


 トーガが心中で声援を送ったときだ。


 白熱していた群集たちから悲鳴が沸き起こった。


 足場の地面が大きく揺れ、円を描くように築かれた人垣が次々と崩れ落ちていく。


 地震である。


 それもかなり大きな強震だ。


 〈手〉の鍛錬で人並み以上に足腰が鍛えられていたトーガも立っていられなかった。


 群集たちと同様に地面に倒れ込んでしまう。


 原野を襲った地震はしばらく続き、ようやく静まったときには誰も角力(相撲)の勝敗など構わず一目散に家へ帰っていく。


 無理もない。


 あれだけ大きな地震が起こったのだ。


 考えたくはないが自分の家が半壊していても不思議ではなかった。


 それでも少人数ではあったがティンダとゲンシャの角力(相撲)の行く末を気にしていた者たちがいた。


 トーガやゲンシャの取り巻きたちである。


 やがて地震により吹き上がった砂煙が晴れたとき、むくりと起き上がった人物がいた。


 全身を小刻みに震わせていたゲンシャである。


「ティンダ!」


 続いてトーガはうつ伏せに倒れていたティンダに駆け寄った。


 上半身を抱き起こし、意識を確認するために頬を叩く。


「大丈夫、ちゃんと聞こえているさ」


 ティンダの意識は完全に失われてはいなかった。


 右鼻から線のように鼻血を垂れ流してはいたものの、他にこれといった外傷は見当たらない。


「やっぱり、角力(相撲)だとゲンシャには勝てないか」


 か細い声で囁いたティンダにトーガは首を左右に振って見せた。


「いいや、よくやった。お前はよくやったぞ、ティンダ」


「止めてくれ。慰めの言葉なんていらねえよ」


「慰めなんかじゃない。ほら、見えるか?」


 トーガはゲンシャの姿が見えるようにティンダの上半身の向きを変えた。


 ゲンシャは取り巻きたちに両肩を助けられながら遠ざかっていく。


「あれが勝者の姿に見えるか? この角力(相撲)勝負は引き分けだ。ちゃんとした理由もあるぞ。お前は仰向けじゃなくてうつ伏せに倒れていた。背中から地面に倒れなければ角力(相撲)では負けと認められない。そうだろう?」


 ティンダは両頬を緩めると、口を歪めて満面の笑みを浮かべた。


「引き分けか。まあ、行司役のお前が言うんだから間違いないな」 


 だったら、とティンダは震える右手でトーガの胸倉を掴んだ。


「悪いが肩を貸してくれないか? 足に力を入れすぎて棒のようになっちまってる」


「ならば肩を貸しても歩けないだろうが。ほら、背負ってやるよ」


「おい、止めてくれよ。恥ずかしいじゃねえか」


「そんなこと言っている場合か」


 トーガはティンダの身体を背負うと、誰もいなくなった原野からティンダの家へと急ぎ足で向かった。


「おい、あんまり激しく揺らすな。足が痛む」


「男ならそれぐらい我慢しろ」


 人一人を担ぎながらも早足の速さでティンダの家へ向かう途中、ふとトーガは主だった外傷が見当たらなかったティンダよりも心配になった人間の姿を思い浮かべた。


(ユキ、ティンダを送ったらすぐに帰るからな)


 自宅に残していたユキの安否を一刻も早く確認するため、トーガは一度も休むことなくティンダの家をひたすらに目指していく。


 先ほどの地震でユキが怪我を負っていないことを強く祈りながら。

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