秘拳のニ  トーガの検診

 八重山やえやま首里城しゅりじょうがある琉球本島から遥か南にある島々の総称だ。


 それゆえに八重山の島々に住む島人は琉球国に属しているという感覚が薄い。本島と八重山の言葉が違ったことも理由の一つだっただろう。


 どちらにせよ、八重山の島々に住む島人にとって本島の事情など異国の天気に等しかった。


 それは根森村に住む島人たちも同様である。


 石垣島いしがきじま西表島いりおもてじまの中間に点在する黒城島には、数百人の老若男女が集落を構える根森村が存在していた。


 島の大半が鬱蒼とした森林に囲まれており、不用意に森の奥へ立ち入れば猪や猿などの禽獣きんじゅうに被害を受ける危険性もあった。


 それでも約百年前に他の島から移住してきた人々は互いに協力して森を切り開き、田畑を耕して米の収穫に成功。


 他にも一年を通して新鮮な魚介類が豊富に獲れる海で日々の食料を確保していた。


 それだけではない。近年の根森村では工芸品の製造に力を入れている。


 独特の文様が編み込まれた織物や、森で採取した陶土で作る陶器などであった。


 これらを本島や明国に貿易船を出していた石垣島に持って行き金銭に代えるのだ。


 お陰で根森村は八重山の中でも富を持つ島へと変貌した。


 その証拠に茅葺の家々からは女たちが織る機織の音が途切れず、壷や皿を作る窯場からは濛々とした白煙が澄み切った青空へと昇っていく。


 そんな根森村の中をトーガは軽快な足取りで歩いていた。


 向かう先は根森村でも一番大きな釜場を持っていた家である。


 刻限は昼過ぎ。


 トーガは額に浮かんだ汗を手の甲で拭いつつ、やがて根森村で一番大きな釜場を持つ家へと到着した。


「やあ、ムガイのオジィはいるかい?」


 トーガは汗だくになりながらロクロを足で回している男に声をかけた。


 二十代半ばのアクルである。


「師匠ならここにはいないよ」


「いない?」


 アクルの言う通りだった。


 広々とした釜場を見渡しても件の人物はどこにもいない。


 釜場にいるのは工芸品の陶器作りに精を出している数人の若者たちだ。


 ロクロを回して陶土を壷の形に整えている者、緋色の炎が燃え盛っている釜を見て温度の調整をしている者、素焼きした壷に繊細な絵を描いている者など己の仕事を黙々と行っている。


「だったらオジィはどこにいるんだ?」


「ここ数日は母屋で寝たきりさ。師匠に用があるのなら母屋に行ってくれ」


「分かった。仕事の邪魔をして悪かったな」


 トーガはアクルに礼を述べると、外よりも気温が高い釜場を後にした。


 中垣を抜けて母屋の戸口へ辿り着くなり、勝手したたる我が家のように戸を開けて母屋の中へ足を踏み入れる。


「オジィ! ムガイのオジィはいるか!」


 腹の底から声を出すと、「誰だい?」と奥の部屋から中年女が出てきた。


 黒髪を後頭部の位置で結ったミンダである。


「おやまあ、誰かと思ったらトーガじゃないか。こんな時分にどうしたんだい? ティンダならまだ石垣島から帰っていないよ」


「今日はティンダじゃなくてオジィに用があって来たんだ。オジィの腰痛が悪化したって聞いたんでね。それで今日は身体を診に来たんだよ」


「そうだったのかい。いつもいつも悪いね」


 トーガは小さく首を左右に振った。


「礼を言いたいのはこっちのほうさ。オジィには昔から何かと世話になったんだ。こんなときぐらい少しでも恩を返さないと」


「あんたもクダンに似て生真面目に育ったね」


 ミンダは満面の笑みを浮かべ、水で足を洗ったトーガを座敷へと案内した。


「じゃあ、後はよろしくね。私は機織の続きがあるから」


 トーガを案内すると、ミンダは奥の部屋へと消えていく。


 板張りの座敷に入るなり、トーガの視界には布団の上に仰向けで寝ている老人の姿が飛び込んできた。


 アクルや釜場で働いていた他の男たちと同様に髪を頭頂で丸く結い、藍色の着物を着たムガイである。


「腰痛が悪化したって聞いたんだが思ったよりも重症のようだな」


「こんなもん屁でもねえ……ただ、腰が痛くて布団から出られないだけだ」


「それを重症って言うんだよ」


 天井を睨みつけているムガイにトーガは静かに歩み寄った。


「オジィ、さっそく治療したいから身体をうつ伏せにしてくれ」


「お前は俺に死ねと言うのか」


「痛い場所は腰なんだろ? だったら直に腰を診ないとな」


「動くと死ぬほど痛えんだが」


「このまま放って置くと何ヶ月も痛みに付き纏われるぞ。そんなの絶対に嫌だろ?」


「くそっ」


 ムガイは覚悟を決めたのだろう。


 激痛を堪えるために奥歯をぎりぎりと軋ませ、慎重に身体を仰向けからうつ伏せに移行させる。


「それでいい」


 トーガはうつ伏せになったムガイの着物を捲し上げ、治療場所である腰部を大きく露出させた。


 非常に慣れた手つきで骨盤のやや上を親指の腹で指圧していく。


「こりゃあ酷い。オジィ、一体何をしたんだ?」


 ムガイの腰回りの筋肉が他の部位とは違って岩のように固まっていた。


 しかも肌の温度が冷たいということは、血行の巡りが異常に悪くなったことを示している。


「何日か前に弟子が素焼きした壷を持ったんだ。そうしたら突然、腰がゴキリと鳴って激痛が走った。それからはこの様よ。おちおち厠にも行けなくなった」


「そういうときはすぐに俺を呼んでくれないと困る。これは腰痛の中でも特に酷い症状だ。病状が悪化するに従って足にも痛みが伝わっていくぞ」


「おい、まさか俺はこのまま死ぬんじゃねえだろうな」


「人間は遅かれ早かれいずれ死ぬ。それが自然の摂理ってものさ。でも大丈夫、腰痛程度じゃ人間はしなないよ」


 患部にゆっくりと指圧を加えた後、トーガはムガイがあまり痛がらないよう細心の注意を払いつつ治療を続けた。


「まったく、腰は痛えわ猪には悩まされるわ最近はどうも運に恵まれねえ」


「猪?」


 どのぐらい時間が経過しただろう。


 慎重に慎重を重ねながら指圧を行うトーガの額には生温い汗がじくりと滲んできた。


「ああ、お前も知っているだろ。俺たちは森の奥で取れる陶土を使って壷や皿を作る。だが、いつからか陶土の採取場へ行く道に大きな猪が出没してな」


「それは大変だな」


「他人事みたいに言うな。何とか撃退したが弟子の中には怪我をした奴もいるんだ」


「それで釜場で作業していた人間が減っていたのか」


 ムガイが取り仕切っている釜場にしては作業人が少ないとは思っていたが、そんな経緯があったとは今の今まで知らなかった。


 後で怪我を負った人間の家を訪問してみよう。


「まあ、森は獣の住処だからな。仕方ないと言えば仕方ないさ」


「冗談じゃねえ。俺らにとっては死活問題だぞ」


「そうだったな」


 続いてトーガは指圧の場所を腰からふくらはぎに移した。


 親指の腹で腰の経絡と繋がっている腱に沿って指圧を施す。


 その際は力任せに行っては駄目だ。経絡の流れに沿って治療を施さなければならない。


 急所は救所に通じる。


 これは数年前に他界した父親の教えだった。


 この世のすべてには表と裏があり、どちらか一方が尖り過ぎてはならない。


 なので患者を治療する場合も崖と崖の間に張った縄を渡るが如き緊張感を持って行え、と。


 それに指圧治療は想像以上に患者の体力を消費する。


 また経絡の場所を間違えれば病状を悪化させるだけでなく、下手をすれば違う病気を発症させてしまう恐れがあった。


「よし、今日はこれぐらいにしておくか」


 両掌でムガイの腰を丁寧に摩ると、最初とは違って十分に温まっていた。


 患部の緊張が解れて血行がよくなった証だ。


 この治療を行い続ければ二週間ほどで治るだろう。


「どうだ、オジィ。先刻よりも痛みが和らいだろう?」


 布団に顔を埋めていたムガイに話しかける。だがムガイからの返事はなかった。


「オジィ?」


 トーガは恐る恐る横からムガイの様子を窺う。


 いつの間にかムガイは両目を閉じて夢幻の世界へ旅立っていた。


 聞き耳を立てるまでもなく健やかな寝息が聞こえてくる。


「やれやれ、昼間に寝ると夜になったら眠れなくなるのに」


 ほっと一息ついたトーガは、両手の親指を何度も折り曲げて筋肉を弛緩させた。


「オジィの治療も終わったし次の家へ行くかな」


 片膝に手を添えてトーガは立ち上がり、戸口へ向かうため振り返ったときだ。


 座敷の出入り口の前に一人の女が両手を組んだまま佇んでいた。


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