【第7話】 契約
「ミュシャ・ライトフィールドの願いは、理の外の選定者であり裁定者である
途中に発音が聞き取れない箇所があったが、宣誓を終えるとヴィーリアはわたしの足許に
床の朱い魔法陣からは、透き通った紫色と黒色の入り混じった強い光が放たれた。眩しくて目を開けていられない。思わずつむった目を再び開くと、床一面の魔法陣は跡形もなく消えていた。
「これで契約は成されました」
立ち上がったヴィーリアは、スラックスの汚れを軽く払った。
「……改めてよろしくお願いするわ。ねえ、ところでわたしの描いた魔法陣はどうなったの?」
「それならここに」
「ひゃあ」
突然、ヴィーリアは下ろしてあるわたしの髪を、首の辺りでひょいとまとめて持ち上げた。くすぐったくておかしな声が出てしまう。
「……本当に
よほど変な声だったのだろう。ヴィーリアが
「……哂わないでよ」
人でないとはいえ、こんな美少女の前での醜態に顔が赤くなる。恥ずかしい。
「失礼しました。魔法陣なら、ほら……ここに」
「ここって? 見えないわよ?」
「貴女の左の耳の裏側に、金貨ほどの大きさで刻まれました」
ここです。そう言ったヴィーリアの冷たい指が、左耳の裏の魔法陣をなぞる。
ぞわりと、なにか衝撃のようなものが背中を抜けた。禍々しい悪寒とは少し違う。肌が粟立つ。なんだろう? この感覚。
「どうかしましたか?」
「……ううん。なんでもないの。……でも、なぜ魔法陣をわたしに?」
「これは紋章であり刻印です。貴女が私のものであることの」
地下室を出てから厨房に立ち寄った。水音を立てないように刃を洗い、果物ナイフを棚に返す。
誰にも姿を見られないように用心しながら部屋に戻った。ヴィーリアはソファに座り、わたしの髪についた蜘蛛の巣を丁寧に取り除いてくれた。部屋の明かりは地下室から持ち帰ったランプのみ。灯りを髪にかざして、絡みついた蜘蛛の糸を解いてくれている。意外にも世話焼きだった。
「……貴女の髪は暗い色なので、糸が見つけやすいですね」
わたしの髪色は黒檀の木の色だ。完全な黒色ではなく、黒色に黄色味と緑色味が溶けて混ざったような色をしている。
蜘蛛の糸は透明だ。黒檀色の髪の上ではランプの灯りに反射して、見つけやすかったのだろう。
「ありがとう。……ヴィーリアも取ってあげましょうか?」
「私は結構です。……燃やしますから」
長い指をぱちんと鳴らすと、髪の毛と肩から火花が散った。すこし焦げたような臭いが漂う。
すごい……。これが魔術なのね。こんなに近くで見たのは初めて。
わたしについた蜘蛛の糸も、魔術で燃やしてくれたら手間がかからなかったのでは? そう訊くと、貴女の髪を焦がしたくないですからと、返された。確かに黒い色のものは燃えやすい。
この国、リューシャ公国にも魔術師はいる。数は多くはない上に、ほとんどが公国軍に所属している。そのため、公都から遠く離れた片田舎中の片田舎、リューシャ公国の西の辺境とも呼ばれるこのライトフィールド男爵のリモール領では、魔術師の姿など見ることもない。
「魔術は珍しいですか?」
大きく肯く。
ヴィーリアは一瞬怪訝な
「うわぁ。きれいね!」
「ランプだけではあまりにも暗かったので」
ヴィーリアはそう言ったが、魔術を珍しがったわたしに見せてくれたのだろう。蝶が落としていく鱗粉を両手で掬うようにして受け止める。手の中で
「……ねぇ、ヴィーリア。これでもう、願いは叶ったのよね? わたしの命が尽きて、あなたが迎えにくるまでは自由……なのよね?」
「まず、貴女の願いの件ですが、……そうですね。今のところは、半分ほど叶ったというところでしょうか」
「半分だけ?」
なんで半分? あとの半分は?
「説明しますので。ほら、また、淑女がそんな顔をされては……」
くすりと哂って、わたしの寄った眉間をこつんとつつく。
『魔術を知らないミュシャでも簡単に
魔術には法則が有るため、零からいきなり一には成らない、ということらしい。なにもない零状態から一に成るためには、要因と原因が必要だそう。要因というのは物質や条件であり、原因は魔術とそれを操る者の力量だそうだ。つまり、なにもないところからは金貨は出せない、ということらしい。金貨そのものが欲しいのなら、その元になる物質が必要ということだ。
「本当はもっと複雑です。ですが、ミュシャでも解るように、とても簡単に説明しました」
……ミュシャでも解るように、と二回言った。この際、簡単かどうかは置いておく。ついでに理解したかどうかも置いておく。問題はそれよりも……。
「なにもないからお願いしたのに……金貨の元っていったら
「金貨だけが価値があるものではないでしょう?」
「それは、そうだけど……」
…………なるほど、そうか。
価値があるものは金貨だけではない。金貨で返済をしなくても、その代わりの、同等の価値のもので返済すればいいことだ。もしくは同等の価値のものを売って、金貨を得ればいい。
やっとわかりましたか? というようにヴィーリアは肯いてみせる。
「貴女は意外に慌て者ですね。いや、意外でもない、のか……」
それはどういう意味なのか。尋ねようと口を開きかける。目を閉じたヴィーリアは、静かにするようにと人差し指を唇に充てた。
「……幸いにもライトフィールド男爵領には、リモール山脈とユーグル山脈が沿っていますね。ああ、ちょうどよい炭鉱がある……」
ぱちんと指を鳴らして紫色の目を開いた。
「……なにをしたの?」
「天然石の鉱脈をいくつか造っておきました。これでライトフィールド男爵領では、むこう数百年間は宝石が採掘されることでしょう」
……ん? 聞き間違いかな?
「ええと、今、なんて?」
ヴィーリアは面倒くさいというように、少し眉をひそめた。それからなんでもない事のようにあっさりと、もう一度同じ言葉を繰り返す。
……天然石? 鉱脈!? 宝石!!? 数百年!!!?
驚きなんぞをはるかに超えて、驚愕したままで言葉も出ない。ちょっと待って。頭の中が追いつかない。
「ああ、それは癖ですか? また淑女らしからぬ顔をして……」
冷たい両手で頬を挟まれ、開いたままの口を閉じられる。
「大規模な鉱脈ですから、何世紀かはもつはずです。……これで貴女の『上乗せ』分の願いも叶います」
その言葉に思わず、わたしの頬を挟んだままのヴィーリアの手首を勢いよく掴んだ。
ただ金貨を用意してもらったのなら、ベナルブ伯爵に返済をしてしまえば後にはなにも残らない。しかし、鉱脈を造ってもらえたのなら、原石を採掘し、加工し、販売できる。その事業に伴い様々な産業も発展することだろう。これといった主産業のなかった男爵領の特産品にもなり、領地も潤い生活の質も向上する。少しだけ欲張ったつもりの『上乗せ』の願いが、こんなかたちで叶えてもらえるとは思いもしなかった。
「すごいわ! ありがとう!! ヴィーリア」
視界が滲み始める。何回も言うが、これは目からの汗だ。
ヴィーリアの紫色の瞳が見開かれた。そしてすぐに陶然とした笑みを浮かべる。
あ、まずい。と思ったときには、すでに遅かった。ヴィーリアのふっくらとした冷たい唇がわたしの
「§▽※Σ‰∬!?」
声にならない声を上げて、掴んだままのヴィーリアの手首を押し返すがびくともしない。細い腕だが、意外に筋肉質だったと思い出す。
わたしが手の中から逃れようとしているのを意にも介さずに、ゆったりと両方の眦からこぼれた雫を舐めとった。そして恍惚とした深い紫色の瞳でわたしを見つめる。
「……だから言ったでしょう。私が貴女に召喚された時点で、願いの半分は叶っていたも同然なのですよ」
***
(注)
蝶は『
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