【第2話】 朔の夜 2




 最初はなにも感じなかった。しかし徐々にぴりりと沁みるような鈍い痛みを覚える。ナイフをひいた線の上にじわりと、小さい赤い血の球が浮かび上がってくる。そのまましばらく指先を見ていた。

 ……なんだか思ったようには血は流れてこない。もっとこう、なんというか、指先からぽたぽたと滴り落ちる様子を想像していたけど……。


 薬指の先の傷からは、ゆっくりとゆっくりと、赤い血が球になって滲んでくるだけ。依代となる血液を滴らせるように魔法陣に注ぐためには、もっと深くナイフで切らなければならないのか……。


 「……いや、ムリ……」


 思わず呟く。今でさえ、薬指の先にはじんじんとした痛痒いような感覚がある。これ以上に深く切るなんて。しかも自分で切るなんて、怖すぎてムリ。


 仕方がないので左の手のひらを下に向けて、血が魔法陣に落ちるように大きく上下にぶんぶんと振ってみる。ほんの少量だが振り落とされた血液が魔法陣にかかる。


 魔術古文書グリモワールには依代となる血液を魔法陣に注ぐとあった。どれくらいの量を注ぐかという具体的な注釈がなかったから、まあ、これでも間違いではない。と思いたい。とりあえず、指の血を舌でぺろりと舐めて傷をきれいにしておく。瞬く間に鉄の味が口の中に広がった。


 次は召喚呪文の詠唱だ。


 腕の中の魔術古文書グリモワールを開く。三百年ほど前のリューシャ語で記されているために、今の言葉とは文字も読み方も少し異なっている。召喚呪文を練習するために同じページを繰り返し開いた。そのために癖がついてしまった頁も自然と開かれる。指も覚えてしまった。


 いざ呪文を詠唱をしようとしたそのときに、足元にもやのような煙のような、ゆらりとした白いなにかが見えた……ような気がした。


 「?」


 足元を見廻すと、魔法陣からしゅうしゅうと音を立て、半透明な白い煙が立ち昇っている。


 「……ん?」


 なにこれ? こんなこと魔術古文書グリモワールには書いてなかったよね? そもそもまだ召喚呪文の詠唱もしてないけど? あれ?


 慌てて魔術古文書グリモワールの頁をめくる。こんな不測の事態について、なにか対処方法は記されていなかっただろうか? 


 この計画を決めてから不備があってはいけないと、魔術古文書グリモワールを隅から隅まで何度も読んだ。だけど……こんな状況の記述はなかったように記憶している。だとしたら対処方法など、記されているはずもない……よね?


 半透明の白い靄だか煙だかよくわからないものは、次から次へもくもくと魔法陣から湧いて出てきた。もうすでに腰から下は白く覆われてしまった。この調子で湧き続ければすぐに地下室いっぱいに充満してしまうだろう。


 そのうちに靄なのか煙なのかわからないものは、突然にきらきらと光りだした。

 白い色の中に金色、虹色、白銀色のきらきらとした光の粒子が混ざりだす。魔法陣から次々に湧き出してくるその様子は、まるで光の洪水だった。

 やがてそれらの光は一箇所に集まってゆく。人型をり始めているようだ。


 どうしよう? これはいわゆる失敗? わたし、逃げた方がいい? でも。逃げてどうする? どうにもならないでしょ!


 魔法陣の中心で、不測の事態に為す術もなく……。

 この世のものとも思えぬほどの美しい光の乱舞になかば魅入られてしまい、その場から動けなくなった。あとの半分の理由は訳の分からない非常事態に足がすくみ、動かすことができなかったからでもある。


 しばらくして金色、虹色、白銀色の光は、かたどった人型に吸い込まれるようにして消えていった。靄のような煙のようなものも光の粒子と一緒に、霧が晴れたように消えていた。


 天井から吊るされたランプは、きぃきぃと耳障りな音を立てて左右に揺れている。そのせいで地下室が不自然な角度で橙色の灯りに照らされていた。影が大きく揺れては、また元に戻ることを繰り返している。


 その揺れる影に照らされたモノを茫然と見ていた。目の前には突如としてソレが現れた。きらきらとした美しい光の粒子が消えたあとに。


 そう。そのときはまだどういう状況で、どうなっていたのかもわからなかった。だからやっぱり、ソレはまさしくソレとしか呼べなかったのだ。





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