「あっ」音海は小さく叫び、つと右手で左手を握り隠した。顔には儚げで複雑な影が差した。が、一瞬のこと。彼女は繕うように、何気ないかのように、「ああ、これはね」と言う。「前に占い師の人から左手薬指に指輪を着けるといいって言われて、それでしてたの。結婚してるわけじゃないから安心して」

「ほーん」

 俺の脳裏にいくつかの疑いが一個の生き物のように有機的に連関し合いながら渦巻いていた。

 ──指輪焼けは本当は結婚又は婚約指輪によるものではないか。

 ──洋ロック好きだと言っていたのに邦ロックの[Alexandros]をリクエストしたのは、その配偶者又は婚約者が好んでよく歌っていたからではないか。

 ──その男の趣味の歌を九割九分九厘他人である俺にリクエストしたのは、もうその男本人に歌ってもらえない関係、すなわち離婚又は婚約解消済みだからではないか。

 しかし、これらの推測に疑問を投げかける思考もあった。

 ──でも、それなら何でわざわざ占い云々としょーもない嘘をついたんだ? 結婚か婚約してた過去ぐらい話せばいいじゃねえか。ほかにも何かあるのか? それとも、推理が土台から的外れなのか?

 答えの出ない思考の袋小路ふくろこうじに立ち尽くして首をかしげるかのような心持ちで俺は言う。

「なあんかいまいち信用できないんすよねー。占いってのも取って付けたみたいに聞こえるしぃ?」

 音海の、さりげない目頭切開ラインの巧みな瞳を見つめる。互いのまばたきが無言の会話をするかのような奇妙な沈黙の外には、やけっぱちにすら聞こえる調子外れな誰かの歌声。

 やがて音海は、「ううん、ま、いっか」とつぶやいた。「ごめんね、ちょっとだけ嘘ついちゃった」うつむいた視線は膝の上の左手に落とされている。のだろうか。「わたしね、ちょっと前まで婚約者がいたんだ」

「じゃあその薬指は」

「うん、婚約指輪の面影」音海は気恥ずかしそうに、自嘲するように淡く笑った。「振られちゃったんだよねー、わたし。婚約破棄ってやつですな」

「なるほど」と俺はうなずいた。「それで下半身が寂しくて男をあさってたんすね」

 ぱしっと太ももを叩かれた。「言い方、言い方」と不満げだが、苦笑の色もある。

「原因は秋帆さんの浮気っすか?」

 ぱしっ。再び太ももを、しかもまったく同じ所を叩かれた。「違うから。浮気なんてしないし」

「ふうん」今さっき、彼女持ちだと認識してる高校生を食おうとしていた性的人間が言っても説得力は皆無である。

「でもさ、わからないんだよね」困ったように眉をひそめた。「どうして振られちゃったのか。嫌われるようなことは何もしてないはずなのに」

「その彼は何て言ってたんすか?」

「『ごめん、ほかに好きな人ができたんだ』──」物真似のつもりなのか、音海は変に声を低くして言った。「──だってさ。その人は社会人なんだけど、会社の新人の子に夢中なんだって」

「新人っても秋帆さんより年上なんすよね?」

「たぶんそう、彼の会社は基本的に大卒以上しか採らないから」

「三十路を過ぎて小じわが目立つようになってきたおばさんを捨てて会社の若い子にワンチャン懸けるみたいな話はたまーに聞きますけど、秋帆さんの場合、逆っすからねえ。ありえないとは言えないっすけど」

「そんな理由で約束を反故ほごにする人じゃないと思ってたんだけどなあ──」そこで音海は、ううん、と悲しげに首を振った。「今も思ってる」もう未練たらたらですよー、とおどけるように笑みの形を見せた。

「となると、表面上は仲良くやってるふうにしてたけど内心では不満が溜まってた、とかっすかね? それが限界を超えちまって秋帆さんを切った」そういうのは普通、女側がやりがちなんだが、と小さく言い足した。

「ううん」音海は考える顔で天井のくすんだ電灯に視線を向けた。「それはわたしも考えた。でも、わたしそこまで鈍感じゃないよ? ただの友達や知り合いなら、正直そんなに執着してないから気づかないこともあるかもしれないけど、彼のことでっていうのは流石にないかなって」

「今でも連絡は取れるんすか」

 音海はふるふると弱々しくかぶりを振った。「ブロックはされてないけど、それだけ。うんともすんとも」

 二十六度に設定した冷房が、ごうんごうんと獣じみたうなりを発している仄暗い小部屋に、更に暗く沈んだ音のないメロディーが漂う。

 ふいと外の歌声も止まり、世界から切り離されたかのような澄んだ静寂──と、その時だ、矛盾を抱えた男の、哀切に彩られた声がそっと心の膜に触れた。

 そして、すべてのピースが一瞬で繋がった。

 隣だろうか、誰かが随分と拙い英語のオク下でONE OK ROCKワンオクロックを歌い出した。よりによって結婚式で定番の『Wherever you areウェアエバーユーアー』だ。

 皮肉だな、と思わず苦笑が洩れた。音海も少し苦い顔をしている。

 もしも俺の推理が正しいのなら、

「[Alexandros]はその元婚約者の趣味なんすよね?」

 唐突だったからか音海は、「え」と少しまごまごしてから、「うん」と首肯した。「そうだけど、それがどうしたの?」

「も一つ質問」と音海の問いを横に弾いた。「こっちのが重要なんすけど──」

「うん、何かな」

「その元婚約者は、右目の目尻に泣きぼくろがあるんじゃないっすか?」

「へ?」はとが豆鉄砲を食ったよう、と言うべきだろうか、音海は間抜けな表情を浮かべた。そして、俺の求めている言葉を口にした。

「どうしてわかったの?」

「会ったことがあるかもなんすよ、その男と」

「え、本当に?」音海は窺うようだった。

「その男からは嘘つき呼ばわりされましたけど、今のは嘘じゃないっすよ。名前は──」と脳内の〈どうでもいい〉フォルダの記憶を今一度ひっくり返してそいつの情報を確認してから、俺は言った。

「薬研拓巳──違いますか」

「……違うくない」それから音海は、「世間は狭いね」と恐れと期待をまぜたような声で言った。

「秋帆さんは真相を、薬研さんの真情を知りたいですか」静かに問うた。彼のことは潔く諦めて新しい愛を探したほうがいいかもしれねえぜ? と言外に伝えたつもりだった。

 それを読み取ったのか音海は悩ましげに眉をひそめたまましばしの間、口を閉ざしていたが、やがて彼女は愁いの──あるいは自嘲の──微笑をたたえた。

「知りたい。振られるにしても彼の口から本当の理由をちゃんと聞いてからじゃないと納得できないよ」

「別れなんてのは、特に捨てられるほうは、完全には納得できない場合のが多いんじゃないっすか? 納得できないままぐちゃぐちゃの感情を飲み込むのが普通だと思うっすよ」

「……そんなのわからないよ」音海は悲しげに視線を足の先に落とした。「わたしは拓巳さんしか知らないし」

「それなのに高校生にがっついてたんすか? たいした自信っすね」

「うるさいよ」

 ぱしっという勢いではなく、音海の手のひらはしんなりと俺の太ももに当てられた。そのウェットな熱は、悲しみにほとびる彼女の心から伝わってきているのかもしれない──なんてな、と内心で自嘲する。たまにくだらないことを思うかすれた声がして、それを嗤うのはいつものことだ。

「朝陽君はわたしが本当のことを知らないほうがいいと思ってるみたいだね」音海が不意打ちのように言った。

 軽く下唇を突き出して肩をすくめた。「さあ? どうすかね。自分の感情が一番よくわらかないっすから」

「何それ」音海はおかしそうにころころと笑った。「変なのー」

「ちなみに」と俺はいまだ解明されていない謎について尋ねる。「何で婚約破棄されたことを隠してたんすか?」

「えー、だってぇ」音海は急に頭空っぽの尻軽女子大生のような声色になり、「婚約破棄されたって言うと地雷女って思われちゃうかなって。朝陽君に嫌われたくなかったんだもん」

「……」俺はぽかんと口を開けていた。

「あによ」音海はやや不満そうに声を尖らせた。

「当たり前のように未成年を調教しようとしてたくせに乙女なとこもあるんすね」

「全部乙女だっつーの」

 ぱしっ!



 ──推理の正誤を確かめてからにしたいから少し時間をくれ。

 音海にはそう言ってこの日は別れた。

 その際、「スイーツはまた今度でいいの?」彼女は律儀にも尋ねてきた。

「いいっすよ。どうせまたすぐ会うでしょうし」

「次に繋げるのが上手いですなー」

 なんて言って笑っていた。

 家に帰り着いたのは午後の四時を回ったころだった。リビングダイニングから人の気配がする。母さんがいればいいのだが、と思いながらドアノブをひねった。

 ──銃声が鼓膜を震わせた。

「あ゛?」一人で海外ドラマを観ていた母さんが、振り向きつつ腹の底に重く響く柄の悪い声を寄越した。「あんた、今日は女遊ぶんじゃないの」

「何も話してないのに把握するのやめろや」

「母親の勘ね」いわゆる母親らしさのまるで窺えないところの母さんは口の右端だけを歪めて、「ミスって逃げられたの?」とからかいの口調。

「どちらかというとミスらなかったから逃げることができた、かね」

 へえ、と母さんは目を細めて見通したような顔つき。「訳ありの子なの?」

「ああ」俺は首肯した。「それで頼みがあるんだ」

 とりあえず聞くだけ聞いてやる、というような顔で母さんはゆっくり、かつ小さく顎を引いた。

 母さんの右斜め前にあるソファーに腰を下ろした。端的に事情を説明し、要求を伝えた。

「バレたらまあまあまずいわね、それ」そう言う母さんには、しかし怖気づいた様子はない。

「バレなきゃいい」論のあたわぬ真理でもって言葉を返した。「観測されなけりゃ連続殺人鬼だって、幾人も殺していながら誰一人殺していない邪悪かつ善良な一市民のままだ」

「まあね──」けど、と母さんは嗜虐の目になり、「リスク分の対価は貰わないと引き合わない」

「わかってる」俺は言う。「何をすればいい」

「そうねえ」母さんは二秒ほど思案げだったが、「あんた、チェス強いのよね?」と嗜虐なんて良心的な言葉では足りない、てらてらと濡れた真っ赤なグロテスクを溢れさせた。「世界のトッププロ相手にどこまでやれる?」

「……一箇月の準備期間があれば負け越すことは絶対にない、とは思うが」何をやらせたいんだよ、世間に顔をさらしたくはないんだが? と文句をぶつける。

「十分ね」母さんは、ぞっとするほど愉快そうな顔。「わたしからの要求は、一年以内に参加可能な最も大きいチェスの大会に参加して──」

 俺は、それはそれは嫌な予感がしていた──いや、予感ではなく確信していた。なぜなら、うちの母さんの性根は俺以上にひん曲がっているから。

 母さんの薄情そうな薄い唇はその確信を裏切らず、

「──本気でチェスをしている健気けなげな凡人どものプライドを徹底的に、完膚なきまでに叩き潰してあげて」で、と彼女はいっそ純粋そうに笑って続ける。「運悪く夢を見られる環境に生まれてしまった凡人どもが絶望する瞬間を、わたしに鑑賞させてちょうだい」

「……」うわあ相変わらずこの人、終わってんなあ。

 ……まあ、とはいえ、だ。身近にこういうSSR級玩具キチガイゲスビッチがいると退屈しなくてすむから、親ガチャはむしろ成功しているほうだとも思ってはいるが。

「あ」と母さんは唐突にリアルな声を出した。「言うまでもないことだけど、賞金は全額わたしが頂くから」

 やっぱ親ガチャ失敗かもしれん。

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