第2話 グリューワインとフラミンゴのお菓子の家(2)

 気づけば私は外にいて、満月の下、充電が切れたスマホの画面を見ていた。彼からの連絡は着ていないだろうし、そもそもうれしい要件では鳴らないから問題はない。

 彼の愚痴を繰り返しながらも、絶対に別れない私にうんざりした友達たちも、だんだん離れていってしまった。


 手の中の真っ黒な画面をコートのポケットに放ると、やんわりと世界と繋がっていた最後の糸さえ切れたような気がした。

 それはそんなに悪いものではなく、部屋を出てからの最初のひと呼吸みたいに新鮮だった。


 道なりに歩き続けるうちに、どこを目指して歩いていたのかわからないことに気づく。そもそも、何をしに外に出たんだっけ。


 急に心細くなってきたうえ、道は突き当たりになっていた。もうどこにも行けない私を迎えるように、小さな洋館が建っている。

 玄関ポーチにはカンテラが提げられていて、オレンジの火が燃えていた。


 ぼーっと立っていると、やがてからんからんとベルの音をさせて扉が開いた。

 現れたのは、タキシードらしきぴしっとした服を着た若い男性だった。長い黒髪をハーフアップにしており、切れ長の瞳は煌々こうこうと赤い。悩ましげに微笑んだ彼は、うやうやしくお辞儀をして言った。


「お待ちしておりました、為家ためいえ彩夏あやか様。『ティーサロン・フォスフォレッセンス』にお越しいただき、誠にありがとうございます。

 為家様のためだけに心を込めてお作りしたスイーツと特製ドリンクで、今宵精一杯おもてなしいたします」


 イケメンだ、という心の声が漏れ出してしまっていたんだと思う。彼はくすり、とそよ風みたいに笑って続けた。


「申し遅れましたが、私は執事のセノイと申します。為家様、さあ、お手をどうぞ」


『ティーサロン・フォスフォレッセンス』という小さな看板がかかっている鉄のガーデンアーチをくぐって、私はすんなりと彼に手を預けた。

 セノイって言うんだ。セノイ。どことなくエキゾチックな雰囲気だけど、漢字は背ノ井さん、とか?


 エントランスで彼にコートを預け、案内されるまま中に入ると、焼き立てのお菓子の匂いが充満していた。バニラや卵がふわっと甘い、お日様みたいに温かな香りだ。

 それだけで、なぜだか涙が込み上げそうになる。


 同時に、雑誌とか映画なんかの中だけでしか見たことのない、素敵な洋館の室内に胸が高鳴った。深みのある色合いの木の床はぴかぴかで、落ち着いたグリーンの壁紙にも惚れ惚れする。

 カフェっていうか、本当にティーサロンって呼び方がふさわしい。


 カウンターには所狭しと焼き菓子やカップケーキが並べられていて、そのどれもがガラスのドームに収められている。


「宝石みたい」


 思わずそう口にすると、セノイさんは「作品をお褒めに預かり光栄です」と微笑んだ。


「セノイさんが作ったんですか?」


「ええ、パティシエも兼ねておりますので」


「すごい。じゃあ、これも?」


 私は入り口すぐの、壁際の小さな丸テーブルに目をやりながら聞いた。作りかけっぽいお菓子の家があったのだ。

 ベージュと茶色のほっこり系みたいな、自然派っぽい感じの家の壁はまだ半分しか建っておらず、屋根や煙突の素材だったとおぼしきクッキーがお皿に散らばっている。


 彼は「もちろんですよ」と首を傾げて言うと、なんとぱちっとウインクをしてみせた。

 ひっ、と息を呑む私に、セノイさんはおもしろそうに忍び笑いをし、「でも、作りかけではなく建て替え中なんです」と付け足す。


「今宵は為家様に特等席をご用意いたしました。奥の半個室へどうぞ」


 促されるままカウンターを横目に過ぎ、3段だけの低い階段を上がると、私は再び息を呑んだ。

 上品にセットされたテーブルの向こうに、白い月明かりを浴びて輝く百合の海原うなばらが広がっている。

 もちろん窓を通して見る景色だけど、揺れる花々があまりに艶めかしくて、一気に現実との距離感がつかめなくなった。あまりに魅入られ過ぎてしまうと、もうこちらには戻れなくなってしまいそうだ。


「美しいでしょう。我々が丹精込めて世話をしている、自慢の庭なのです。ああ、しかし。百合園だけでなく、どうぞお茶とお菓子も思いきりご堪能くださいね」


 椅子に腰掛けて、はい、とセノイさんを見上げながら返事をすると、なんと彼はすでに銀のお盆に透明なカップを載せていた。

 はて? この人、私をここまで案内してから、キッチンに引っ込んだりしたっけ?


 そう思ったのもつかの間、セノイさんの白くて華奢な手がカップを運ぶと、私はその湯気のあまりのかぐわしさに感嘆の声を上げていた。

 ほっかほかの蒸気さえスパイシーで、甘くて、口の中がじゅわっと潤う。


「そんなに待ち遠しくしていただいて恐縮です。こちら、フォスフォレッセンス特製のグリューワインでございます。

 ぶどう酒にさまざまなスパイスや柑橘かんきつ類、シロップを加えて煮込んだ、ドイツの冬の定番カクテルです。現地の方々はこれを飲みながら、寒空の下で行われるクリスマスマーケットを満喫するそうです。温まりますよ」


 透明のカップをそっと両手で包むと、ゆっくりと指先に血が巡り出す。手の中のいかにも滋養がつきそうな飲み物に、自然と喉が鳴る。

 なみなみとした赤ワインには分厚めにスライスされたレモンとオレンジ、それからシナモンスティックが2本も入っていて、何やら星型のスパイスらしきものまでもが浮かんでいる。しかも、結構大きめだ。


「そちらはスターアニスです。八角はっかく、と言ったほうが伝わりやすいでしょうか? シナモンとはまた違った、パワフルで高尚な香りです。必ず為家様のお口に合いますよ」


 香辛料なんて結構好みが分かれるものなのに、上品なお店の執事さんが、こんなに強気に言い切ることあるんだ。いや、高級なお店の誇りある店員さんって、そういうものなのかも?

 へえ、とこぼしながらあれこれと頭を巡らせる私に、セノイさんが流し目で微笑んだ。


「為家様もパワフルで高尚な方ですから」


 口をつけたばかりのグリューワインを、思わず吹き出しかけた。危ない。純白のテーブルクロスが、殺人現場みたいになるところだった。

「熱いですからお気をつけて」なんて笑っているけど、この人、おもしろがって殺し文句を言ってない? そう思いながら、いつの間にか私も一緒に笑っていた。


 肝心のグリューワインの味は、最高としか言えなかった。お砂糖と蜂蜜の効いた赤ワインを口の中で転がすと、鼻の奥でたっぷりくすぶったスパイスの香りがすうっと抜けていく。

 ごくりと喉が鳴るたびに、甘いワインが胸を、お腹を、まるで温かな涙のように流れていく。全身の血管がふわりと開き、血が巡り出し、しなびていた体が喜んでいる。そして、頬がぽっと熱くなる。


 思い出した。まるで恋に落ちたときの気分だ。震えるほど甘く、刺激的で、最後にほんの少し残る苦味さえ切ない。

 心臓の奥に、何か失われてしまっていたものが戻ってくるような感覚が芽生えた。控えめに佇んでいたセノイさんが、私が人心地ひとごこちのついたタイミングで声をかけてくれる。

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