第1話 魔法仕掛けのクリスマスケーキ(2)

 戸惑いつつも、足が勝手に石畳を踏み、開け放たれた扉へと向かう。老紳士に迎えられてエントランスに入ると、その小さな場所にそっと守られるような心地がした。


 扉が閉まると、しんとした静寂が降りる。時が止まったみたいだ。


「申し遅れましたが、私は当店の執事しつじ・デュボワと申します。北条様、コートをお預かりいたしましょう」


 こういう気分を夢見心地というのだろうか。妙にふわふわしながら、言われるがままにコートとマフラーを取り、日本語が流暢りゅうちょうなデュボワさんに預ける。

 

 導かれるまま室内へと進むと、そこは確かにアンティークな内装のティーサロンだった。磨き抜かれた飴色の床、花や植物を意匠いしょう化したモスグリーンの壁紙、数席しかないテーブルで揺れるキャンドルの灯り。

 カウンターもあるけれど、客席として使われてはいないのか、ガラスのドームに入れられたケーキや焼き菓子がずらりと並んでいた。急にお腹がきゅるる、と間抜けな音を立てる。


 真っ赤になってデュボワさんを見上げると、彼は「さあ、奥のお部屋へどうぞ。お腹が待ちきれないみたいですから」と微笑みながら、たった3段だけの階段のほうを指し示した。

 奥にあるのは、扉のない半個室のような小部屋だった。そこに通されるや否や、私はしみじみとため息をついた。


 テーブル正面の大窓の先に、白く輝く百合の庭が広がっていたのだ。重たげな花々は、その身に受けた月の光を、惜しげもなく溢れこぼして揺れている。

 夜の青い影が落ちる部屋に切り取られた景色は、まるで一枚の絵のようだった。


 やがて椅子が引かれ、私は静かに腰を下ろした。淡いグリーンと白でまとめられたテーブルセットの上で、温かなキャンドルの火が揺らめく。

 間もなく、金で縁取られたティーカップがサーブされた。


「寒い夜にぴったりのホットチョコレートです。身も心も温まりますよ」


 注文を取られていないけれど、そうだ、私はこれが飲みたかったんだ、と自然に思えた。メニュー表は私の心の奥底にあるのだ。

 薄いカップに唇を当てると、轟く喜びをつれて、濃厚な甘さが押し寄せる。ビロードのような舌触りを残しながら、温かいチョコレートがこっくりと喉に流れていく。

 鼻に抜けるカカオの香りは清々すがすがしいほど豊かで、私は思わず目をつぶって深呼吸をしていた。


 おいしい。あまりにもおいしい。痺れるように甘いのに、最後に残るのはチョコの上品で切ない苦味だ。

 甘さの余韻が次のひと口を呼ぶうち、気づけばカップの底が見えるまでになっていた。


「お気に召しましたか?」


 青い瞳を柔らかに細めて、デュボワさんが聞く。すでにお腹の音を聞かれてしまっているわけだし、もう取り繕わなくてもいいかな。


「ええ、すっごく。子どもの頃、ミルクココアが好きでよく母に作ってもらっていたのを思い出しました。もちろん、こんなに上等な味ではなかったけれど」


「よかった、リラックスしていただけたようですね」


 そう言うデュボワさんの手には、いつの間にか白いお皿があった。見れば、そこにはひとり用とおぼしき、小さなホールケーキが乗っているではないか!


「ジャパニーズスタイルのストロベリーショートケーキ、クリスマスバージョンです」


 食い入るように見つめる目が、輝いているだろうことが自分でもわかる。純白のケーキの上には、ふかふかの雪のような生クリームがデコレーションされている。

 さらには粉雪のかかったイチゴ、それから砂糖菓子のサンタさんが雪の上に乗っていて、上品だけど華やかでかわいらしかった。

 感嘆のため息をついて言う。


「すごい、なんてかわいいの!」


「魔法を思い出してくださいましたか?」


 ぱちり、とウインクをしたデュボワさんになんだか照れてしまう。そこで、話を変えるようにして「あの、ジャパニーズスタイルって……?」と聞いてみた。


「ああ、失礼いたしました。実はふわふわのスポンジに生クリーム、そしてイチゴをトッピングしたケーキというのは、日本で生まれたものなのです。最近は海外で有名になり、憧れているお若い方々も多いそうですよ」


 そうだったんだ。子どもの頃のクリスマスケーキといえば、必ず生クリームにイチゴのショートだったから、なんだか不思議な気持ちだ。

 幼い頃のわくわくと懐かしさ、それから「世界で人気なんだなぁ」という新鮮な驚きが心地よい。


 きっとデュボワさんは、コーヒーを淹れてもらう間ずっとケーキを見つめている私を、待てをしている犬みたいに思ったに違いない。

 彼はくすりと微笑むと「どうぞごゆっくりお楽しみください」と残し、去っていった。


 ホールケーキをひとりで食べるのって、長年の夢だった。

 大人になったらやりたいなと思いつつ、実際にやってみたらどうせ半分も食べきれないのが目に見えているし、味にも飽きるだろうしと、挑戦したことがなかった。

 でも、最高の形でその願いが叶うなんて。


 いただきます、と小声でつぶやいて、雪山にフォークを入れる。右手になんの抵抗も感じないほどの軽さと柔らかさに、思わず慄いた。


 ぱくっと一口頬張ると、ああ、生きてきてよかった、と思わずにはいられなかった。ミルクの香り漂う生クリームは爽やかで、ふわふわのスポンジは舌にばかりか心にまで優しい。

 かと思えば、次の瞬間には、甘酸っぱい苺の果汁が口いっぱいに広がっていく。うーん! と唸ってまたひと口。

 ふわふわで、じゅわっとして、幸せ。小人になってこのケーキの上で寝転べたらいいのに。


 ふと、窓の外の幻想の景色に瞳を移す。そこで私はあらためて、ほうっと大きくため息をついた。夢うつつの美しさとお腹に満ちる安心感のおかげで、固くなった心と体がほぐれていく。

 今日、ここに来られて本当によかった。


 昨晩遅く、学生時代からの親友で、今でも毎週のように会っている羽美うみからメッセージが届いた。


『鈴菜! あのさ、告白うまくいったよ! 付き合うことになりました~』


 だよね、と思った。私が男でも、羽美に告白されたらうれしい。


『だと思ってたよー! おめでと! また話聞かせてよ』


 でも、今晩はもう遅いから、と電話もしなかった。よかったね。私、ちゃんと羽美を応援してた。

 ほんとだよ。いつもより、だいぶ真剣な恋なんだなって伝わってきてたから。

 なのに、胸からお腹にどんよりと暗いものが流れていく。


「毎回ひと夏の恋で終わっちゃうんだよね~冬に彼氏いたことない」とぼやく羽美の隣で、私はずっと「まあまあ、女ふたりのクリスマスもいいじゃない」と笑っていた。

「それを何年やるんだって話よ」とまんざらでもなさそうに言う羽美と、ショッピングセンターでオーナメントを見たり、どこのケーキがおいしそうか調べたりするのが冬の楽しみだった。


 私が七面鳥を食べてみたいと言ったら、急に「なんか焼き鳥の口になってきた。ねぎま食べたいな~」なんて言い出したのがおかしくて。

「そんなクリスマス許さないから!」って言ったら、羽美は「いや、クリスマスじゃなくて今日ね、今日! このあと焼き鳥屋に行かない?」ってちょっと焦ったみたいに笑ってた。


 楽しかったな。奇跡的に夏場にしか恋人がいない大親友と、ずーっとクリスマスを過ごせて。


 この世では、友達より恋人のほうが優先度が高いのが常識みたいだ。

 どんなに仲良しの女友達も、クリスマスという特別な日を、毎年変わるようなくだらない男にあげちゃうのが悲しかった。

 この歳になってもそんなことを思っているなんて、私はきっと変なんだろう。子どもっぽくって、恥ずかしいことなんだろう。


 だけど、普段は大人として押さえつけて、すっかり固くなってしまっていた気持ちが、あったかいホットチョコレートとふわふわのケーキのせいで、涙になって溢れてしまう。

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