第03話 旧神との契約

 刹那。


 赤い閃きが目の前の悪魔に突き刺さる。

 バチバチィッと稲妻がぜ、大蛇の姿をした悪魔は塵のように霧散していく。


 こんな所で、雷――?


【俺に願ったなら……助けてやらないことも、ねェぜ?】


 当惑するイスメトの頭に響くのは、少ししゃがれた気だるげな男の声だった。

 慌てて周囲を見渡すも、話者らしき人影は見当たらない。

 代わりに視界に入ったのは――


「……っ!?」


 部屋中にうごめく闇だった。

 羽虫の群れのような闇がどこからともなく生まれ、集い、あのおぞましい大蛇の形を再び取り戻そうとしている。


【アレはアポピス。こんとんの化身】

「こ、混沌……?」


 原初の世界にあったとされる闇。

 それがあの大蛇の正体だと声は言う。


【アレに物理的な攻撃は効かん。俺と同じく、神の次元に存在するモノだからな】

「神の……」


 事実、実体を持たない闇が怯んだのは、ホルスの護符を投げつけた時だけだった。

 神の力ならば、あの闇に通用するということなのか。


「あ、貴方あなたは……神様……?」

【いかにも】


 声はあっさり肯定する。

 しかし、安堵するにはまだ早かった。


【望むなら、何でも一つ願いを聞いてやろう。オマエかその娘、どちらかの命と引き換えにな】

「え――」


 物語に登場する神様は、絶対にこんなこと言わなかった。


【こちとら目覚めたばかりでねェ。色々と物入りなんだ】


 しかし、嘆く暇も、悩む時間も、他の選択肢もない。

 目の前には、形を取り戻そうとうごめく闇。

 腕の中には、気を失ったままの少女。


「っ、……わかりました」


 イスメトは、エストのきやしやな体をそっと祭壇の上に横たえる。

 もとより自分と彼女の命とでは、天秤が釣り合うはずもなかった。


「ぼ、僕の命を捧げます! だから……エストを助けて下さいっ!」

【クハハッ! 即答かよ。オマエ、大したイカれ野郎だな!】


 男の声が、確かに笑った。


「――っ!?」


 瞬間、足下から生じた風が、砂を孕みながらイスメトを取り巻いていく。

 まるで砂嵐の中へ閉じ込めるかのように。


 慌てて砂避け用の赤い首巻きを口元に押し当てたところで、ふと気付く。

 先ほどから、あの息苦しさが消えている。


 砂にかすむ目を擦ると、ぼやけた視界に一人の男が映し出された。

 えらくガタイの良い戦士然とした男。

 それが目の前に浮いている。


 それだけでも正気を疑う光景だというのに――


「……っ!?」


 男の黒くたくましい肉体の上には、赤い目を凶悪に光らせる狼か、馬か、 ししか、あるいはそれに類する全く別の何かの頭部が乗っていた。

 頭頂には二本の長い立て耳も確認できる。


 人じゃない。動物でもない。化け物だ。


 燃えるような赤い長髪が炎のように揺れなびく。

 その様はまるで砂漠に揺れるしんろうのようで、一層この光景の現実味を否定していた。


「ま、魔獣……」

【ハッ! 俺を魔獣呼ばわりたァ育ちが知れる。ここは有り難がるところだぞ、普通】


 異形は先ほどの声で不機嫌そうに呟く。


【まァいい。契約は契約――だ!】


 イスメトが何事かを返す間もなく、体に衝撃が走った。


 恐る恐る目を落とす。

 自分の胸に、異形の腕が食い込んでいる。

 だが痛みはない。血の一滴すら落ちない。


 あの大蛇と同じだ。異形の手には実体がないのだ。


 しかし、イスメトの気分はすこぶる悪かった。

 まるで生命力そのものにでも触れられているかのような感覚に、冷や汗がどっと吹き出す。


 やがてゆっくりと体から引き抜かれた異形の手には、赤くて小さな何かが握られていた。


(え……これって……)


 実物を見たことはない。

 それでも、ソレが何なのかは不思議と分かった。


(僕、の……心臓?)


 異形はソレをひょいと頭上に放り投げ――その長い馬面の口で丸呑みにした。


【――契約、完了だ】


 途端、異形の姿は見る見る砂となり崩れ、風に混ざって消えていく。

 その風がやむと、その場にはイスメトだけが立っていた。

 穏やかだったその紫紺しこんの瞳に、赤く獰猛な光を宿らせて。


「【ハッ、残念だったなクソ蛇野郎! コイツはもう俺の体だ!】」


 何が起こっているのか、イスメトはすぐには理解できなかった。

 自分の体が、勝手に地を蹴り跳躍する。それも、ありえない高さまで。

 その足元を間一髪で食い破ったのは、あの黒い大蛇だった。


「【〈支配の杖ウアス〉!】」


 さらに自分の口が、意図せぬ言葉を叫ぶ。

 すると手元に一本の杖が現れた。


 武器にも祭儀用にも見えるそれの先端は、先ほど見た異形の頭とそっくりな形をしている。

 目の部分には赤い宝石が光り、全体は光沢のある黒。

 部分的に金色で装飾されている。


 赤い稲妻をまとったそれは、神像が握っていた金の杖よりも美しく雄々しく、輝く。


「【テメェは大人しく闇の底で、自分の尾ッポにでも喰らいついてろッ!!】」


 投擲された戦杖せんじょうは、矢のごとき勢いで混沌アポピスを地に縫い止めた。

 その衝撃で巻き上がった粉塵が、互いに擦れ合いエネルギーを蓄積していく。

 時折チカッと光るのは、砂の粒子から生じた小さな稲光。


「【――〈嵐神の怒轟シエラ・アストラフィ〉!!】」


 刹那、赤い稲妻が四方八方から大蛇へと突き刺さる。

 闇のとぐろがうごめき、地響きのような唸り声で大気を揺るがした。


(す、すごい……)


 初めて目の当たりにした神術しんじゅつ――

 それも神官ではなく、正真正銘の神が生み出した超常的現象に、イスメトはただ見入っていた。


 アポピスの体はズタズタに引き裂かれ、塵となって爆散する。

 焦げた地面には無傷の戦杖だけが突き立っていた。

 神はその杖を引き抜き、肩に預けて息をつく。


【ハッ。まァ、試運転としては上々――】


 しかしその時、不穏な気配が部屋の隅を這いずっていく。


【――逃した、だと? この俺が】


 それは大蛇の尾の部分だった。

 体の大半を失ったというのに凄まじい速さで地を駆けていく。

 向かう先には、少女の横たわる祭壇。


「っ、エスト!」

【コイツ、まさか――!】


 イスメトはそこで初めて声が出せることに気付く。

 しかし、何ができるでもなかった。


 敵の狙いに気付いた神は得物を構えるも、時すでに遅し。

 細かく分裂した闇は少女の全身へ幾重にも巻き付き、そのなかへと逃げ込んでいく。

 まるで人質を取るかのように。


「【チッ!】」


 神は振りかぶった得物を放たず下ろす。

 アポピスの狙いもまた自分と同じく、体を得て人間界に顕現すること。本来なら、このまま戦杖ウアスで少女を貫くのが最も賢い選択だと神は心得ている。


 しかし――


【面倒な契約ねがいだなクソが! テメェの命を守れッてんなら楽だったのによォ!】


 今の神に、その選択だけはできなかった。


「【――は流砂。かたきを沈める執念の足枷にして、|怨恨のひつぎ――】」


 アポピスに体を乗っ取られ、身を起こそうとする少女。

 その周囲を、巻き上がる砂の渦が包囲していく。


「【――〈愚王の棺獄ロアス・サルコファガス〉!】」


 神の命令に従い、再び世界の秩序はねじ曲がる。


 石造りの祭壇がぼろぼろと崩れ落ち、流れる砂となって少女の身を絡め取る。

 そのまま全身を飲み込むや、砂は凝縮し元の石材へと戻っていく。

 その形状を、全く別の物へと作り変えながら。


【ハッ……まさか、封印だけで手一杯とはな】


 そうして少女がいた場所には、一つの石棺が出来上がった。

 少女をその内に閉じ込めて。

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