第4話 闇を絞る

 均と再びドライブインに出かけたのは、夏も盛りの頃でしたでしょうか。

 夕暮れ時で、蜩が鳴いていたのを覚えています。そろそろ家に帰る時間だとちみなが考えていると、あそこに行ってみようか、と均が誘うのです。

 今度こそ、お母さんの声を確かめる。

 普段は礼儀正しく、年上のちなみの言うことをよく聞く均ですがこのときは頑固に言い募りました。そして時計の間に入ります。父親がいないのでゼンマイを巻く仕事は彼の任務です。しかし彼はゼンマイを巻こうとしないばかりか、木彫のヴィーナスが掲げている置時計を一つ持ち出すのでした。

 どうするの?

 生贄さ、と彼は言うのです。神様にお願いするときは、大切なものを捧げないといけない。違うかな? そう問われてもちなみには答えられません。そのときの均の目にはどこかぞっとする怖さがあり、反対意見が言える雰囲気ではありません。外に出るとすでに太陽は木々の間に沈みつつあり、薄暮の闇が広がりつつあります。

 早足になりながら道路を進み、橋を渡りました。真ん中辺りで立ち止まった均は手にしていた時計を欄干越しに放りました。水の跳ねる音がして時計は川面に消えてしまいます。胸元が締めつけられるような苦しさを覚えました。

 橋のたもとにはぽつんと街灯が立っており白い光を投げかけています。その明るさを頼りに前回と同様、建物に侵入しました。内部はまっ暗で不気味でしたが、均は慣れているのかずんずんと進みます。

 やっぱり帰ろうよ、

 と口にしましたが均は聞く耳を持ちません。例の扉の前に座り込むと、耳を当ててじっとしています。しばらくすると、ちなみの手を取り、ほら、と導きます。鉄の扉に耳を当てるとひんやりとしていました。

 確かに女の人の声がします。笑っているようでした。

 ほんとだ!

 と叫ぶとしっ、と唇に指を当てます。再び均はしゃがみこんで耳を当てました。暗がりに目が慣れると隅に放置されている洗濯機や消火器が見えてきます。ちなみは呆然と佇んでいました。時計を差し出したから神様が母親を戻してくれたのでしょうか。そうだとすれば目の前の部屋に死者がいると言うことになります。死者と会うことなど許されるはずもありません。伝説や神話では死者を取り戻そうとする人間は必ず失敗し、手痛い目に遭うのです。気をつけないと均が死の世界に連れ去られてしまうかもしれない、そんな不安も湧いてきます。

 しばらくすると扉に耳を当てないでも声が聞こえ始めます。波のように寄せては返す不思議な叫びでした。均は眉根を寄せて難しそうな表情になります。

 なんだろう?

 扉に近づこうとしたちなみは急に立ち上がった均とぶつかり、よろめいた弾みに壁に立てかけてあった消火器に手を触れてしまいました。消火器が床に倒れ大きな音が響きます。

 ヤバイ、と均が囁きました。

 内部の声はやみました。沈黙が重い塊となって二人の上にのしかかり動けません。ちなみは息を殺したまま闇にうずくまっています。長い時間が経過したように感じました。

 ゴトゴト、と重い靴音が近づいています。

 途端に均はちなみの手を引き、逃げろ、と走り出します。ちなみも慌ててついていきました。前方はおぼろにしか見えないので、敷居につまずき、配膳口の棚にぶつかり、足をもつれさせるようにしてなんとか出入り口までたどり着きます。

 外に出ると、虫の声が一斉に耳朶を打ちました。

 四方八方から二人を取り囲んで鳴いているのです。異界からの告発にも聞こえました。逃れられないぞ、と。均は息を切らせながらも転げるように走って行きました。木々は黒い影となって広がっていますが、見上げれば満天の星でした。そんなにたくさんの星を見たのは後にも先にもそのとき一度限りです。ぶちまけられたような星屑に埋め尽くされ、真ん中を天の河が横断していました。思わず感嘆の声が出てしまいます。美しさよりも恐怖を感じました。宇宙のあまりの大きさ、人間など易々と飲み込んでしまいそうなすさまじさを見せつけられ、ちっぽけな自分のはかなさを悟ります。

 鈴木君、と呼びかけると立ち止まって待っています。街灯の光が届かないので草木が茂った道端で顔さえ判別できません。

 ただの黒い人影です。

 そこにいるのは本当に均なのか。

 ねえ、鈴木君、ともう一度確認するように声をかけました。すると、

 闇を絞らないと!

 と均は答えるのです。闇を絞る? そう、こうしてさ、と腕を宙に伸ばし雑巾を絞るようにひねるのです。暗すぎてなにも見えないでしょう。森で夜の暗さにとり憑かれたら一生取れないって聞いたことがあるよ。だから思いっきり絞るんだ。身体の上に垂らさないように気をつけてね、

 そんなふうにささやくのでした。彼の身体の周りでは闇が緩やかに沈んでいく気配があります。

 ほら、こうして。

 掌を差し伸べていると説明の言葉を裏切るかのようにほのかな光が彼の顔を照らし出すのでした。緩やかに右から左へと均を浮かび上がらせます。軌跡をたどっていくと前方の森にぼんやりと光の塊が揺れています。

 蛍でした。

 薄い緑色の光がふわっと浮き上がり流れています。魔法みたいだな、と感嘆して見やります。蛍が光るくらいでは驚きませんが、そんなにもたくさんの群れを見たのは初めてでした。

 誰かいる!

 均が叫びました。その瞬間、手足の肌が粟立ったのを覚えています。森の奥で緑色の人型が動いているのです。

 違うよ、蛍でしょ。

 人型は次第に輪郭をあらわにして近寄ってきます。本当に怖いとき身体が麻痺したように動かない、ということをこのとき経験しました。おもむろに緑色の腕が伸ばされ、おいでおいでの仕草を繰り返しています。いかにも人懐っこいのですが、行っちゃだめだ、と思いました。

 お母さん、

 均が叫んだのはほぼ同時でした。違うよ、お母さんなんかじゃない、とちなみは均に警告するのですが、彼は少しずつ森へと分け入ります。

 森は常に動いています。

 後に祖母の君江からこのことを教わりました。

 物事をわかるということは、部分にわけて組み立てを理解することです。現在の地点から、過去をふり返り検証するわけです。対照の動きを止め、静止した状態で思考は実行されます。そのとき森は死んでしまいます。森を生きたまま理解することはできません。つかんだと思ったそのそばからすり抜けてしまうのです。

 それでも森の秘密を暴くべきだったのでしょうか。

 きっとマトリョーシカ人形のように、剥いても剥いても同じ顔が現れたことでしょう。そっくりだけどどこか微妙に違う微笑がこちらを見返しているのです。人形とは異なり現実には到達点がありません。真実は覆いと覆われているものの間にあるのです。覆いを取り去った瞬間、それは消えてしまい、覆われていたものが今度は覆いとなってしまうのです。合わせ鏡のように無限に遡行してやがて消えてしまう。

 わかっていてもそれをせずにはいられない、そういう気持ちになるときもあるでしょう。そもそも夜の森に分け入る人は謎を恐れてはいない。それどころか謎を求めている。達郎もそんな人だったのかもしれません。

 あの晩、人型を見せた蛍も謎のひとつです。

 いつまでも周りを巡っていることを強要する謎です。人はそこで立ち止まり、考えなければなりません。なにを汲み出すかはご当人次第ですが、いつしか解明への筋道を見出すこともできるはずなのです。考えようによっては謎が救いにもなるのです。心を苛む欲望や絶望は謎の解明にとって代わり魂が癒される、そういうことです。

 己がどこから来て、どこへと向かっているのか。

 古の人々は理解していました。魂の取り扱いについての技術についても。その知恵を畏れ、無闇と近づかないようにしながら後代に語り伝えました。現代ではこうした智恵はあらかた喪われています。無用な迷信として社会から排除されている。ですが魂が消えたわけではないのです。

 あの晩、ちなみはどうして良いのかわからず呆然と均の影を見送っていました。

 やがて彼もまた蛍に包まれて緑色の人型となるのです。顔は消えていました。そこにあるのは二つの光芒でした。動いていく命の塊でした。いつかは消え去る、そうとわかっていても戻ることもできずに流されていくはかないものたちの姿かたちでした。

 均だけではありません。

 ちなみ自身も光の乱舞に包まれて方途を失っていたのです。


 帰宅したちなみは祖母にこっぴどく叱られました。女の子がこんなに真っ暗になるまで外で遊ぶなんて論外よ、鈴木さんにも注意しなきゃ、と。ちなみは黙っていました。ドライブインのことも均のお母さんのことも、蛍のことも。

 隅で様子を見ていた叔母の加奈は、食事の後、洗い物を一緒にしているときに、ちなみの脇腹を小突きます。

 肝試しでもしていたんでしょ?

 と。違うよ、と否定しましたがクスクスと笑います。あたし、知っているんだ、と。なぜだかわからないのですがすべて知っている様子なのです。その上で、

 ねえ、面白いこと教えてあげようか、

 と身を屈めてひそひそ声になりました。お化けを見分ける方法、知っていたほうがいいでしょ。一つ目は誰でも知っている。足がないの。あっても地面についていない。誰が見てもお化けよね。二つ目は影がないってこと。そして三つ目、お化けの服には縫い目がないのよ。これって怖くない?

 叔母はエプロンの裾を裏返して縫い目を晒します。

 どんな布地にも縫い目はあるのよ。だけど幽霊の服は現実の物体ではないから縫い目もない。どこにも継ぎ目がなくてつるっとした塊。それがお化けってわけ。すぐそばにいるみたいに見えるけど、本当は世界の外側にいるのよ。さわったりしたら大変、つるり、って滑って反対側の世界、つまりあの世に連れて行かれちゃうから気をつけてね、

 そんなことを吹き込むのです。

 自分の部屋に戻って、ドライブインの声と暮れがけに見た蛍の群れ、そして加奈の話についてもう一度、考えてみました。あのときあそこにいたのは誰だったのか。女の声がしたのは確かですが、他にも誰かがいたのかもしれない。均の母親であるわけはない。だが廃墟にいるとしたら、なにをしていたのか。蛍だっておかしい。あそこにいたのは鈴木均と宮原ちなみだけだったはずだ。でもあのとき、自分が別の人間になってしまったような奇妙な状態だった。あたしはもうあたしではない。いや、可能性としてはいろいろな選択肢があるのだけど、どれもが違うような気がして、そして結局、どれも選ばなくてもいいのではないか、と考えてみるのです。そうするとちなみはもはやちなみではなくなる。緑の光に包まれた人型に過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。そもそも自分はなにも知らなかったのではないか、と。

 あなたは誰? あたしは誰?

 均は答えませんでした。夜を絞ろうとして、闇をしたたらせながら、二人とも幽霊になってしまったのかもしれません。叔母の説明の通り、縫い目も継ぎ目もないこの世ならぬ存在となって漂っていたのです。

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