第2話 均の秘密

 均の父親は留守がちで、会社の秘書が運転するベンツで出入りしていました。母親はいないのです。病気で亡くなったということで兄弟もいない均は昼間の間、大きなログハウスに一人、過ごしているのでした。それを聞いてちなみはどことなく寂しそうな彼の表情に得心しました。

 秘書の若い女性は髪の長い都会的な人で、いつも父親と一緒でした。その人が事実上の母親代わりを果たしているというわけです。

 あの人たち、できているんじゃないの?

 と加奈が言うと、君江は眉をしかめて、あんた、学校の先生なのになんていう口のきき方するの、と嗜める。加奈はちろり、と舌を出すのでした。

 数日後、ちなみは均に誘われてそのログハウスを訪れました。

 祖母と叔母が毎日、立ち働いている宮原の家とは異なって、人気のない大きな建物の内部はしんとしており重い空気が立ちこめています。吹き抜けになった巨大な玄関には鹿の頭の剥製が掲げられ、猟銃が並んで掛けられています。

 リビングも天井の高い大きな部屋で、石組みの暖炉がありました。その前には毛足の長い絨毯が敷かれ、ちなみの知らない香りが立ち込めていました。それは建物に使われているログ材と、葉巻と、獣の皮と、その他、舶来のいろいろな品物が醸す独特の臭気なのです。

 奥からは大きな犬が出てきました。長い灰色の毛を垂らした穏やかな性格の犬で、じっとちなみを見上げています。マルクスっていう名前だよ、と均が教えます。マルクス? そう。よく知らないけど偉い人の名前だよ、と。マルクス、と呼んでみますが犬は首を傾げるだけで動きません。昼ごはんを作ろう、という話になって台所に入るとこちらも初めて見るアメリカ製のシステムキッチンでいちいち驚かされます。

 残念ながら冷蔵庫にはたいした材料もなく、できあいのカレーを暖め、卵焼きを作るくらいしかできませんでした。ちなみが嬉しかったのは高価なメロンがあったことで、二人ではしゃぎながら食べてしまいました。

 皿を洗っていると表でエンジンの音がして、黒い車が止まるのが見えました。

 途端に均は緊張します。

 重い革靴を床板に響かせ、甘い葉巻の臭いを漂わせた社長の登場です。大きな身体がリビングの入り口に立ちはだかりました。室内が暗くてもサングラスははずしません。

 よう、元気か。

 均に声をかけるのですが息子は返事もしません。レンズの奥で瞳が動く気配があります。ちなみは慌てて頭を下げ、隣の家の宮原ちなみです、夏休みでおじゃましています、と挨拶しました。ああ、と父親は短く答えストーブの脇に置いてあったロッキングチェアに足を組んでふんぞり返ります。重い沈黙が訪れ、どこかで小鳥が鳴いているのが聞こえました。しばらくすると秘書の日下部さんが微笑を浮かべながらコーヒーポットの載った盆を手に現れました。夏場でも涼しい軽井沢ではホットコーヒーを飲む人も多いのです。あなたたちにはジュースでも差し上げましょうか、と言われたのですが、大丈夫です、と断わりました。

 私の父親は、商社マンでね、と父親は誰にともなく窓へ向いて語り始めました。

 猟銃の免許を所持し、狩を趣味としていたというのです。子供のころフランスで過ごし、貴族は狩猟をするものだ、と考えていたとかでなんとも優雅な話でした。

 でもね、

 と氏はようやくちなみを見つめます。父はあまりそっちの才能はなかったみたいで、残してくれたのは別のものでした、と。あたかもちなみが自分の客であるかのように、子ども扱いするのではなく対等に話しかけられたのでちなみはすっかり当惑していました。

 あなたは時計に興味はありませんか?

 時計? と考え込んでしまいます。鈴木氏は曖昧な微笑を浮かべて立ち上がり、こちらへどうぞ、と重厚な樫の扉を開いて隣の部屋へと案内してくれるのでした。均は俯いたまま動こうともしません。マルクスが主についていくので、ちなみも慌てて立ち上がりました。

 奥は小さな物置部屋になっていました。

 かさかさと虫が草を食むような響きが聞こえています。それは莫大な量の時計が時を刻む音だったのです。窓のない空間に赤い壁紙が巡らされ、大小さまざまな意匠の時計が待ち構えているのが目に飛び込んできました。前後左右、すべて文字盤です。中央にはガラスケースが並び、腕時計が陳列されています。

 時の渕です、

 と鈴木氏は自慢げに振り返りました。フチ? ええ、父がそう呼んでいたので。商社に勤めながら世界中を旅して集めた時計ですよ。これだけのコレクションはなかなかない。ブランド物や高級アイテムもありますが特に貴重なのは普及版のモデルです。しかもほとんど現役。父には時計職人の友人がいて、自分でも手入れをしていました。たまにこの部屋にこもっていると不思議な気分になってね。これらの時計は使っていた人たちの息吹と言うか、彼らの生きた瞬間を伝えていて、無名な人々の業としてここに響き続けている。終わってしまった時間がここにはまだ淀んでいる。だから渕なのでしょう。わかりますか?

 そう言われて眺め渡すと表示されている時刻はばらばらで、時折、鐘が鳴り、鳩時計の鳩が飛び出してきたりします。無数の針の動きが輻輳し、真剣に観察していると気がおかしくなりそうです。氏が主張している通り、動いていることに意味があるのでしょう。止まっていればただの骨董品ですがこうして動かされると魔力さえ感じられます。一つ一つの文字盤が顔に思え、それぞれの時間を押しつけてくるのでした。ちなみはやっと鈴木氏の態度に慣れてきて、

 なぜ時計にこだわられたのですか。

 と質問しました。

 機械が好きだったみたいですね、他にも蓄音機とか写真機なんかも集めていたけど、結局、これしか残らなかった。性に合ったと考えればそれまでだけど、時計には特別の魅力があると言っていたな。それも針のある時計に限る、デジタルで数字が表示されるようなものはだめだと。晩年はこの部屋にこもっている日も多かった、

 こんなふうに会話しながらも氏は部屋のあちこちに眼を配って点検しています。ほとんどがぜんまい式で、三日に一度ほど巻き上げないと停止するのです。止まっていれば鍵束を手にして文字盤を開き、ねじを巻きます。耳をそばだて、チッチッチッ、という音を確認すれば完了です。高い位置にあるものは梯子を用いて作業するのだそうです。

 ある種の弔いなのです、

 と文字盤を見上げながら氏は満足げに頷きます。父親が生きていたときと同じように部屋の状態を保ち、いわば時の渕の渡し守となるのが定めなのだと。

 時計に限らず機械は動かしていないと傷んでしまう。いずれにせよいつかは壊れるものだから無意味かもしれない。だけどこうせざるを得ない。渕はいずれ流されてしまう。淀みも消えて、きれいさっぱりなくなる。でも自分の代で断絶するのは嫌なのです。だから均にも頼むつもりですよ。きっと彼が継いでくれますとも。

 後ろに掌を組みながらしみじみとそんなことを言うのでした。


 すごいね、とリビングに戻って話しかけても均はなぜか不機嫌な様子で、会話に入ろうともしません。なんとなく気詰まりな雰囲気になります。挙句に、外に出よう、と均は言うのでした。

 天気のいい日で、空は東京では見られないような澄んだ色でした。天頂部は深い青を宿し、下がるに連れて緩やかに淡くなりながら透明な水色へと変化していきます。ところどころ薄く刷いたような雲が流れ、太陽は黄金色に輝いていました。気温も上がったようで汗をかいてしまいます。

 道の先に行ってしまう均に、どこに行くの、と問うと立ち止まって前方を指差します。舗装されている道路に入るのですが、アスファルトが破れているところがあったりして、車はほとんど通っていません。古い道なのだろう、とわかりました。

 十五分ほど歩いたでしょうか。もう疲れたよ、と言うとあそこだよ、と均は言うのです。小川の流れを跨いで橋がありその先にドライブインがありました。近づくにつれて廃墟であることがわかります。看板が落ち、駐車場には雑草が茂り、窓ガラスが割れているのも見えました。バイパスができて交通量が減ってしまったため客がいなくなったのでしょう。

 探検なんだ、

 と彼は言うのです。宝物があるかもしれないしさ、と。「探検」とか「宝」という単語にちなみは噴き出しました。物知りで大人びた態度を見せる均ですがやっぱりまだ幼いのね、と考えたわけです。

 なにがおかしいんだよ、

 と彼は怒りました。宝物ってなによ、と返すとむっとした表情でうつむき、秘密だから教えられない、と呟きました。ますます子供じみた話ではないですか。

 あらそう、と突き放し踵を返すと、待ってよ、と戻ってきます。誰にも言わないって約束してよ、と均は暗い視線を送ってくるのでした。

 約束できる?

 もちろんよ。

 なら言うけどさ、あそこに行くと母さんの声がするんだ。

 お母さんの?

 そうなんだ。病院で会ったのが最後だよ。病気で死んだってみんな言っている。葬式もあったしお墓参りもした。だけど本当はまだどこかで生きている。僕はそう思う。

 ちなみは絶句します。

 お母さんがあのドライブインにいるの?

 わからないよ。そんなはずはないってわかっているさ。だけど声が聞こえるんだ。お化けなんかじゃない。昼間でも聞こえるから。

 確かめたいのね。いいよ。きっと風の音かなにかよ。

 風?

 均の横顔に暗い陰がよぎりました。ちなみは父親の芳郎からお化けのからくりについてよく聞かされていました。テレビの番組ではいかにも出そうな雰囲気を盛り上げて視聴者を惹きつける必要があるのです。

 怖さとは予感なのだ、と芳郎は言うのです。お化け自体が不気味なのはもちろんだが、恐怖は出現の前にこそ高まる。出るかもしれないという不安が恐怖の正体で、相手の動きがまるでわからない、ということが理由なのだ。そして怨念。怖さは後ろめたさとも連動している。悪いことをしているから祟られる、というわけだ。日本の幽霊の場合は、気候に関係しているのか、湿っているイメージもある。

 霧の立ち込める夜の墓場、ひそかに忍び寄る影。

 こうした状況設定だけでもう幽霊が出たような気分になっている。後は、風が吹けば亡霊の呼び声に聞こえるし、落ち葉が触れればぎょっとしてふり返る。ネズミでも走ろうものなら、出たァ、ということになる。たいていの怪談はそうした勘違いなのだ、と芳郎は笑うのです。

 テレビは面白くなくちゃいけないから、できるだけ本当らしく作るけどさ、と。

 取材現場の一つに交通事故が多発する不気味な橋があったそうです。見通しの良い直線道路で事故の原因は不明でした。事故に遭った一人が橋に差しかかったときに人影が見えた、と証言してから「お化け橋」と呼ばれるようになって地元の人はなるべく夜の通行を避けるようになりました。暗い時間に通過すると事故の犠牲者の霊が出て川底へと誘い込むのだ、という話になっていました。

 現地に出かけて事故の様子を再現しようとしていると、撮影用の車を運転していたスタッフがアッ、と叫んだのです。確かに誰かいる! と。車を止めて検分していると、どうやら橋のたもとに撮影用に仕込んだ照明がトラスを照らして対向車線に映し出した影らしいとわかりました。通過する車両の運転席からだと、ほんの一瞬ですが、あたかも人の姿に見えるというわけです。

 つまり科学的に説明できるのよ、とちなみは均に話してみました。そうかなあ、と彼は控えめな抵抗を示します。

 問題の建物はコンクリートの平屋建てで、ガラス張りのレストランになっていた部分は概ねベニヤ板で覆われています。「スカイパーク」という名称が四角っぽい字体で記されていました。

 威勢のいいことを言っても怖かったのは事実です。

 人が通れる程度にガラス戸が開いている入り口からはひんやりとしてカビ臭い空気が漂ってきました。窓の部分が覆われているので薄暗いのですが、左側が食堂で右側が売店らしいのはわかりました。テーブルや椅子は隅に積まれていてがらんとしています。逆さになったテレビやアイスクームの冷蔵装置、ビールケースなどが壁沿いに並んでいます。均が破れてヌードグラビアがむき出しになった雑誌を拾ったので、そんなもの見ちゃだめ、と捨てさせました。大人の見るものなの、と。均は初めて照れたような笑いを見せました。

 こっちだよ、

 と彼は店の奥に向かいます。厨房があり、業務用の鍋が並んでいる様にちなみは目を見張りました。こんなふうになっているのか、と。なにもかもが新鮮なのです。壁には野球選手のポスターや日に焼けた古いカレンダーが吊るされたままで、足元にはスリッパやハンガーなどが散らかっていました。

 均が立ち止まったのは突き当たりの扉でした。この向こうだよ、と。

 鍵がかかっていてハンドルは回らないそうです。鉄製の重たいドアで触れるとひんやりしていました。押しても引いてもびくともしません。均はしゃがみこむと扉の下部にある通風孔に耳を当てます。

 しばらく神妙な表情をするのですが、はかばかしくないようです。

 どれどれ、とちなみもスカートのすそが乱れないように手を添えながら腰を下ろします。すると均は気をつけろよ、と言うのでした。うちの父さん、スケベだから、と。ええっ? とちなみは顔を上げます。さっき宮原さんのことやらしい目で見ていたよ、と言うではないですか。ちなみは真っ赤になりました。まさか、と。

 そのとき、しっ、と指を口に当てて均は耳を強く押し付けます。ただならぬ気配にちなみもドアの隙間に意識を集中しました。

 緩やかに空気が動いています。

 聞こえない?

 均は目をつぶります。ちなみも瞼を閉じました。軽井沢に着いた晩に見た夜中の幻のように女の歌声がするような気もしました。ですが確かめようとするといかにもたよりなく、気のせいかとも思えます。

 どれくらいそうしていたでしょうか。

 母さんは照れ屋なんだ、と均は言います。知らない人がいたからあまり近づかなかっただけで通っていればそのうちわかるようになるさ、と。

 うん、とちなみは素直に頷きました。

 そうしなければいけないなにかを感じたからです。裏にまわってみよう、ということになり二人はいったん建物の外に出て、敷地の奥へ進みました。業務用の搬入口があり、トタン葺の車庫に、タイヤのないバンが放置されていました。ライトも落ちてしまい正面から見ると泣いている顔に見えます。

 裏口も鍵がかけられており入れません。小さな窓がありますがブラインドが下ろされて、内部の様子はわかりません。きっと金庫でもあるにちがいない、とちなみは思うのでした。もしかするとドアの隙間から流れる風が歌に聞こえるのかもしれない、そんなことを考えてみます。均はドアの前に座り込んで耳を当てていましたが、首をふりながら立ち上がりました。やっぱり今日はだめだ、と。

 お母さんとはどんなことを話すの、

 とちなみは尋ねてみました。

 言葉がよく聞きとれないんだ。でも、僕を呼んでいるような気がして。

 ドアを開けないの?

 開けたらダメだ。二度と会えなくなる。

 なぜ?

 わからない。でも我慢しなければならない。それは確かだよ。

 ちなみは黙って頷き返しました。

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