第5章④

 ひえ、と思いつつそちらを見ると、桜ヶ丘さんが「あたしも見てもいい?」と問いかけてくる。その視線が、私が抱えるキャリーケースへと向けられているのを理解して、断る理由もなく頷きを返す。

 桜ヶ丘さんは一歩踏み出して私のすぐそばまで近寄ってくると、キャリーケースを覗き込んだ。この近さだからこそ感じる、彼女から香るあわい花の香りに、ひゃああ、と内心で悲鳴を上げた。美人はいい匂いがするとは本当だったらしい。

 

「ふふ、かわいい。この子達でしょ、深赤がお世話してて、あなたに託したのって」

「あ、は、はい」

「名前は?」

「え、っと、三毛がみたらしで、白がしらたまです」

「へえ、いい名前じゃない。深赤のやつ、ミケとシロってそのまま呼んでたんだもん。別に悪かないけど、もうちょっと考えてあげてもいいと思うのよね」

 

 ツン、と、桜ヶ丘さんは、こんな時間なのに綺麗なピンク色のリップがきちんと塗られた唇を尖らせる。見れば見るほど美しい、おひめさまみたいな人だなぁと改めて思いながら、私はキャリーケースを抱え直した。

 ふみゃふみゃすぴー、と、小さな寝息が二つ、確かにキャリーケースの中から聞こえてくる。かわいいかわいい、私の家族達。この子達を取り戻せたのは、朱堂さんとしろくんのおかげだ。

 その朱堂さんは、この子達のことを、確かにミケとシロと呼んでいたはずだ。桜ヶ丘さんの言うこともごもっともである。もっと他に何かあったのでは、と思えるくらいにそのままの呼び名だ。

 でも、この件で朱堂さんを責める気にはなれない。だって。

 

「朱堂さんは優しいですよね」

「……え?」

 

 きょとん、と、桜ヶ丘さんの、くるんとはね上がる長くて濃い睫毛が瞬いた。思ってもみなかったことを言われた、みたいな顔に、思わず笑う。キャリーケースを抱き締め直して、その中の存在を感じながら、続ける。

 

「名前を付けると、愛着わいちゃうじゃないですか。みたらしもしらたまも、どっちも朱堂さんにもっと懐いちゃって、でも、一緒にはいられないなら、二匹とも傷付いちゃってたと思います。見た目そのままで呼んでいたのは、朱堂さんなりの優しさなんじゃないでしょうか」

 

 そりゃあジャスオダに加入していたら、おいそれと子猫を二匹も引き取るような真似はできなかっただろう。レディ・エスメラルダに惚れただの腫れただの結婚してくれだのなんだのと迫ってきた彼は、だいぶ頭がおかしい部類に入るとは思うけれど、いとけない子猫達の前ではまともであってくれたことがありがたい。だってだからこそ、私はこの子達と家族になれたのだから。

 まあそれにしても頭はおかしいけれど……ともう一度同じ台詞を内心で繰り返すと、桜ヶ丘さんは私のことをじっと見つめて、不意に軽く笑った。花が咲いたみたいにかわいい笑顔だ。

 

「……そうかもね。まああたしから言わせたら、それは優しさじゃなくてあいつの甘っちょろさだけど」

 

 愛らしい笑顔のわりに、情け容赦のない、実に手厳しいお言葉である。

 あまりの遠慮のなさに苦笑すると、桜ヶ丘さんはそのかわいらしい美貌に大真面目な表情を浮かべて、私を見つめてきた。

 

「ねえ柳さん、今夜あなたがすっごく疲れてるのは承知の上で言うんだけど、いい?」

「な、なんでしょう?」

 

 そんないきなり改まって言われると怖い。この上さらに何が来るのかと身構えると、桜ヶ丘さんは「お願いがあるの」と神妙に続ける。

 お、お願い……? と視線で問い返せば、彼女は続けた。

 

「この後、深赤のところ、行ってやってくんない? もうそろそろ目が覚めてるはずだから、あなたの無事な姿、見せてあげてほしいの」

「えっ」

 

 嫌ですけど。普通に絶対めちゃくちゃ嫌ですけど。とは、言えなかった。桜ヶ丘さんの表情があまりにも大真面目で、神妙で、どこか必死さすら感じるものだったからだ。

 だからこそ私は、気付けばこくこくと頷きを返していた。桜ヶ丘さんの表情が、安堵の笑みへと変わる。

 

「ありがとう。案内するわね」

「……よろしくお願いします……」

 

 私は馬鹿なのではないだろうか。間違いなく馬鹿である。どうしてまた、ここにきてもまた、またしても、こんな自分の首を絞めるような真似をしてしまったのか。

 後悔してももう遅い。後悔とは後で悔いると書いて後悔なのだ。ぽいずんぽいずんぽいずんぽいずん……と念仏のように内心で唱え続けていると、いつの間にかとある階でエレベーターは止まっていた。

 

「柳さん、こっち」

 

 ついてきて、と言われたので、逆らうことなんてできるはずもなく、大人しく彼女の後に続く。ぴっかぴかの廊下はひとけがなく静まり返っていて、余計に緊張感があおられる。

 そして辿り着いたのは、医務室と思われる部屋だった。病院の個人用病室と言うと解りやすいかもしれない。しかも普通の病室ではなくて、いわゆるVIPのための豪華なアレだ。

 こう言っちゃなんだが、どこまでもお金のにおいしかしない。匂いというべきか、はたまた臭いというべきか、悩ましいところだ。

 流石ジャスオダ、公的機関なだけはある。カオジュラは一般企業、しかも悪の『秘密』組織なので、怪我をしたとしても自分達でなんとかするしかないのに。この扱いの差、やっぱりぽいずん。しろくん、じゃなくてマスター・ディアマンはそろそろ“上”にキレていい。

 いやでもしろくんのことだから、“上”が口を挟んでくることの方がわずらわしいし面倒くさいとか言いそう。自分達でまかなった方が早いし楽だとか言いそう。

 これだから感覚で何事もできてしまう天才肌は……! と現実逃避を続けていると、目の前に桜ヶ丘さんの手が差し伸べられた。

 

「ここで深赤は寝てるから、適当に相手してやって。柳さんの今日の部屋の鍵はこれ。ここと同じ階の、女性専用フロアの中にあるから、すぐ解ると思うわ」

 

 はい、と渡されたのは、三桁の数字が刻まれたタグ付きの電子キーだ。ここでもさらにお金のにおいが以下省略。いや、っていうか。

 

「あの」

「なぁに?」

「桜ヶ丘さんは一緒にいてくれるんじゃないんですか……?」

「どうしてあたしが?」

 

 心底不可解そうな顔と声だった。そんな顔も声も魅力的だけれど、それでごまかされてはたまらない。いきなりこんな素性の知れない女と、自分のとこのボロボロなリーダーを二人きりにして、心配になったりしないのだろうか。

 そんな私の戸惑いは、ちゃんと彼女に届いているらしい。桜ヶ丘さんは「大丈夫よ」とぽんぽんと私の肩を叩いた。

 

「心配しなくたって、深赤は女に困ってないし、ここであなたに手を出すほど腐った馬鹿じゃないわ。これで相手がレディ・エスメラルダだったりしたら血迷った真似をやらかしていたかもしれないけれど、あなたなら大丈夫よ」

 

 いや全然大丈夫じゃない。まったくぜんぜんこれっぽっちも大丈夫なところがない。私が心配しているのはそこじゃない。朱堂さんがここで私にあれこれやらかすような人ではないことくらい解っている。問題はそこじゃない。

 ああ、ここで「私がレディ・エスメラルダなんですけど⁉」とでも叫べたら、どんなに楽であったことか。

 もちろんそんな真似ができるわけもなく、私が沈黙したことを同意と見なしたらしい桜ヶ丘さんは、ひらりと手を振って踵を返す。

 

「それじゃ、またね。寝不足はお肌の大敵よ? 柳さんもさっさと切り上げて眠ることをおすすめするわ」

 

 いやいやいやいやだったら置いていかないでください、とすがることもできず、桜ヶ丘さんは颯爽と去っていった。残されたのはみたらしとしらたまが入ったキャリーケースを抱えて立ち尽くす私、柳みどり子である。

 もはやここまで。いざ出陣するより他はない。ごくりと息を呑んで、軽くノックしてから、扉をそっと静かに開ける。

 想像以上にそれはそれはご立派な造りの病室の片隅、カーテンで仕切られた区画に近付く。この期に及んでもなお尻込みしてしまう私を責めないでほしい。本当になんでこうなった。

 

「あの、朱堂さん……?」

「……柳さんっ⁉」

 

 カーテンを薄く開いて中を覗き込むと、朱堂さんが慌ててベッドから身体を起こそうとする。どうやらとうに目覚めていたらしい。あちこちにガーゼや絆創膏が貼られ、そこかしこ包帯で巻かれている姿は、想定以上に痛々しい。

 なんとか身体を起こそうとしている彼を押しとどめつつ、ベッドサイドの椅子に座る。ちなみにキャリーケースはその足元に置いた。

 みどり子さんに降りかかった災難なんてちっとも知らずに、いまだにすぴょすぴょと健やかに眠っているみたらしもしらたまも大物だ。将来がとても楽しみである。もちろんたただの自慢なので聞き流していただいて構いません。

 

「柳さんがどうして……」

「桜ヶ丘さんに様子を見てきてほしいと頼まれまして。……まあ、その、私も改めてお礼を伝えたかったですし。みたらしとしらたまのことだけじゃなくて、私のことも守ろうとしてくださって、本当にありがとうございました」

 

 ベッドの上に再び沈んだ朱堂さんに、深く頭を下げる。朱堂さんがいなかったら、私はみたらしもしらたまも取り戻せなかったし、私自身も無事では済まなかった。

 いや、レディ・エスメラルダに変身したらあんなパチモンなんておちゃのこさいさいなんだけども。まあそれは言わぬが花、沈黙が金、口外したらすなわち社会的な死。

 改めてマスター・ディアマンにもお礼したいなぁと思いつつ、粛々としてベッドの朱堂さんに頭を下げると、彼は「頭をあげてほしい」と、らしくもなく弱弱しい声で続けた。

 

「俺は結局、何もできなかった。しかも柳さんは、俺の正体を知ってしまったからこそ、ジャスティスオーダーズに加入することになってしまったんだろう?」

「あ、ああー……まあはい、そうですね……」

 

 なんだ、もう朱堂さんにもその話は伝わっているのか。すごいなジャスオダ、報連相までばっちりらしい。

 カオジュラだと私以外の面々はどいつもこいつも好き勝手にやらかしてはすべて始末書提出で終わらせてるので、こういうちゃんとした報連相を見ると「やっぱり本来はこうあるべきだよなぁ」と感心してしまう。

 

「あなたを守るつもりが、逆にあなたを戦いに引きずり出す羽目になってしまって、本当にすまない」

 

 ええまあそれはね、心の底から反省してほしいですね‼ とは思っても口に出さなかった私は偉い。

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