第4章⑥

 突っ伏したままの私の上に、振ってきた声。反射的に顔を上げると、そこにあったのは、見慣れたとまではいかないけれどそれなりに知った、凛々しく整ったイケメンの顔。

 

「す、どう、さん」

「柳さんだよな? 久しぶり、でいいかな。どうしたんだ、こんなところで。立てるか?」

「あ、は、はい」

 

 そう、朱堂深赤さんだ。当たり前のように手を差し伸べられて、何も考えることができずにその手を取って立ち上がる。

 どこからどう見ても満身創痍の私の姿に、朱堂さんはいかにも心配そうに眉尻を下げた。

 

「大丈夫……じゃ、なさそうだな。どうしたんだ?」

「……みたらし」

「は?」

「しらたま」

「…………甘味処の話か?」

「っ違うううううっ! みたらしもしらたまも猫! 私の家族! うあ、うわあああんっ!」

「⁉」

 

 もう、限界だった。涙腺が決壊して、自分でもどうかと思うくらいに大粒の涙が次々とあふれ出す。

 なにこれ。幼い子供でもあるまいに、私はこんなところで何を泣いているのだろう。泣いている暇があったら、みたらしとしらたまを探さなきゃいけないのに。みたらし。しらたま。早く会いたい。お願いだから帰ってきて。

 そのままえぐえぐと泣きじゃくる私に、慌てたように朱堂さんはわたわたと挙動不審になっていたけれど、やがて肩からかけていたタオルを私に押し付けてきた。

 

「ランニング用のタオルだが、今日はまだ、その、ほとんど汗を掻いていなくて、たぶん綺麗だから。嫌なら使わなくていいんだ。もし必要なら使ってくれ」

「……あ、りがとうございます」

 

 おそらくとても慎重に言葉を選びながら差し出してくれたタオルを、ありがたくお借りすることにした。それでも涙は止まらなくて、ぼたぼたぼたぼた、涙がタオルに吸い込まれていく。

 やだもう。なにこれ。私、こんなにもみっともない。でもどれだけみっともなくたっていいのだ。ただ、あの子達が無事でいてくれたら、ただそれだけで。

 

「とりあえず話を聞かせてもらえないか? 何か力になれるかもしれない。猫、と言ったけれど、もしかして、俺が柳さんに託した、あのミケとシロのことか?」

 

 その言葉に、ぎくりと身体が強張った。朱堂さんの言うミケとシロは、まさしくみたらしとしらたまのことで、そうだ。そうだとも、私、この人からあの子達を“託された”のに、私、わたしは。

 

「う、うううううううっ」

 

 あ、だめ、また涙が。だから泣いている場合ではないっていうのに。

 朱堂さんのタオルに遠慮なく顔を押し付けて、くぐもった泣き声を上げる私の肩に、不意にそっとぬくもりを感じた。

 ぐちゃぐちゃの顔を持ち上げると、朱堂さんが困ったように、それでも私を安心させようとするかのように、苦笑を浮かべながら「とりあえず」と背後を振り返った。

 

「いつもの公園がそこにあるから、ベンチで話を聞かせてほしい。構わないだろうか?」

 

 うそ。私、いつの間にかもう会社の近くまで来ちゃってたの?

 いくらアパートから近いとはいえ、みたらしとしらたまがここまで来られるとは思えない。引き返してもう一度、という気持ちが込み上げてくる。

 でも、朱堂さんは、「まずは落ち着こう」と私の頭をぽんぽんと優しく叩いてきたものだから、なんかもうどうしようもなくなってしまった。

 大人しく従うことしかできなくて、そのまま一緒に、いつもの公園のベンチへと向かう運びになった。

 いまだに止まらない涙でもうこれ以上なくぐちゃぐちゃの顔のまま、事の次第を朱堂さんに説明する。それだけでまたしてももっと涙があふれてくるから本当に本当にほんっとうにどうしようもない。借りたタオルはもうびたびたである。


 

「――つまり、空き巣に入られた際に、ミケとシロ……じゃなくて、みたらしとしらたまが、部屋から出て行ってしまったんだな」

「はい……」


 

 つまるところの要約を確認され、頷きを返す。朱堂さんは怒るかな、と、泣きすぎてぼんやりする頭で他人事のように思った。

 もともとみたらしとしらたまは、朱堂さんがお世話していた子達だ。事情があって保護できなくて、それでも放っておけなくて、やっと私に託してくれたのだ。

 それなのにその私ときたら、あろうことか二匹ともまとめて脱走させてしまったのである。完全に有罪。ギルティ。私が裁判官なら極刑を申し渡したくなるくらいに許しがたい顛末だ。

 ……それなのに。

 

「柳さん、みたらしとしらたまにマイクロチップは?」

「え、あ、それは一か月後に動物病院を受診する時に、去勢と避妊の手術とまとめてする予定で……」

「そうか。警察と保健所には届けた?」

「ま、まだです」

「しらたまとみたらしの写真は、今出せるだろうか?」

「あ、その、スマホ、バッグと一緒に落っことしてきちゃって、その、手元になくて」

「解った」

 

 朱堂さんはポケットからスマホを取り出した。真っ赤な色の、わざわざデコレーションしたらしい、派手だけどかっこいいデザインのスマホだ。

 それで彼は、どこかに連絡を取り始めた。私が話した内容と、みたらしとしらたまの特徴を伝えて、すぐにまたスマホをしまう。

 

「知り合いに頼んで、警察と保健所への連絡と、SNSでの情報の拡散を頼んだ。後はいったん、柳さんの家に戻った方がいいな。みたらしもしらたまも子猫だからそう遠くにはいかないだろう。柳さんの家の、みたらし達のトイレと、おやつをドアの前において……ああそうだな、捕獲用のケージも必要だから」

 

 てきぱきと迅速に、私がぜんぜん考えてもいなかったことを挙げ連ねた朱堂さんは、そうして、優しく私に笑いかけた。

 

「大丈夫だ、柳さん。一緒に探そう。絶対にみたらしとしらたまは、柳さんの元に帰ってきてくれる」

「……!」

 

 その、言葉に。根拠なんてほとんどないに違いない、慰めにするにはあまりにも無責任な言葉に。それでも、私は、その言葉に、安心させられてしまったのだ。

 気付けば止まっていた涙が、またぼろりとこぼれた。朱堂さんがまた慌て出すけれど、どうすることもできない。

 みたらし。しらたま。私、絶対に、あなた達をまた抱き締めてみせる。

 

「ありがとう、ございます、朱堂さん。……朱堂さん?」

 

 なぜこちらをそんなにも凝視しているのだろう。メイクも何もかもぐちゃぐちゃのこの泣き顔なんてそうまじまじと見られたいものではないのだが。

 首を傾げてみせると、朱堂さんはこれまたなぜか、夜闇の中ですらそうと解るほど顔を真っ赤にして「なんでもない!」とぶんぶんとかぶりを振った。そんなにも首を振ったらそのまま取れてしまうのでは、と危ぶまれるほどの勢いだ。いったいなんなの。

 私が訝しげにさらに首を傾げたのをごまかすためか、朱堂さんは「それより!」と声を張り上げる。夜の公園で騒いではいけないと書いてあるのだがいいのだろうか。

 

「いくらみたらし達を探すためとはいえ、こんな時間に女性が一人で出歩くものじゃない。ご家族が心配なさるんじゃ……」

「いないです」

「え?」

「心配してくれる家族なんて、いません。私には、みたらしとしらたまだけが家族です」

「……どういうことだ?」

「あ、それ聞きます? つまんない話ですよ」

 

 そう、つまらない話だ。ただ私の父親がどうしようもなくクズで、母親がどうしようもなく弱い人だったという、それだけの話。

 父親はありきたりに酒と女と賭博におぼれて、途方もない借金をこさえて蒸発。

 母親はそんな父のことをそれでも好きで仕方なくて、父が蒸発した後も借金の返済を続けていた。私のことを、奨学金前提であったとはいえ高校まで行かせてくれたことには感謝している。

 でもあの女は結局弱かったから、私の高校の卒業式の日に自殺した。母の遺書には、「やっと楽になれる」とだけ書かれていた。それは、私に対する彼女の復讐であり、呪いでもあったのだろう。

 そこを狙ったのか、はたまた偶然だったのか。蒸発していた父親が、私の元にその日やってきた。蒸発した先でもさらに借金を重ねて、とうとう手を出してはいけない闇金にまで手を出して、もう後がなくなったあの男は、私を売ろうとしたのだ。

 どこに売ろうとしていたのかは知らない。良くて闇風俗行き、悪くて臓物の切り売り、くらいが妥当だったのかもしれない。

 うーん、思い返すだにしみじみと、どうしようもない両親だった。ろくでもない両親だったのだ。

 朱堂さんは言葉を失った様子で、呆然と私を見つめている。

 こんな風に誰かにこの話をするのは初めてだ。面白い話じゃないし。繰り返すけれど、つまらない話でしかないから。

 朱堂さんはきっと、こんな世界が本当に存在しているなんて、あまり考えたことはないのだろう。だってどう見てもちゃんとしたおうちでちゃんとまっとうに育てられた好青年だし。

 別にうらやましいとは思わない。住んでいた世界が違っただけだ。

 そう、そしてそんなどうしようもなくろくでもない私の世界には、住んでいる世界が違うのに、手を差し伸べてくれる人がいた。

 

「でもね、朱堂さん。こんな私にも、ヒーローがいたんです」

「……ヒーロー?」

「はい。一応言っておきますけど、ジャスティスオーダーズじゃないですよ」

「そ、れは、流石に解るが」

「それは何より。私のヒーローはね、幼馴染なんですけど、彼がいいとこのおぼっちゃんで。借金の肩代わりをしてくれて、私は幸運にも無事にこうやって平凡な暮らしを送ってるんですよ」

 

 今でもまざまざと思い出せる。ううん、忘れたことなんて一瞬だってない。

 高校の卒業式のあの日、オーバードーズした母親の遺体が転がる部屋で、私を『味見』しようとした闇金の男達をその拳で半殺しにしたしろくんは、呆然と座り込む私の頭を、優しく撫でてくれた。


 

 ――――大丈夫だよ、みどり子ちゃん。


 

 その一言に、どれだけ安堵したか。どれだけ、救われたか。

 本当にどれだけ、ねえどれだけ嬉しかったか、朱堂さん、あなたにはきっと解らないでしょう。

 小さい頃、公園でいじめられて泣いていた私に、手を差し伸べてくれたしろくん。そうやって初めて出会った時からずっと、どういうわけかずっと縁が続いていた幼馴染は、そのまま私を保護してくれた。あっという間に闇金に手を回し、クソ親父が私に押し付けようとした借金を完済してくれた。

 しろくんは、「僕のポケットマネーだから気にしなくていいよ」と言ってくれたけれど、それは私が嫌だった。つまんない意地とプライドだ。途方もない金額だと解っていたけれど、一生をかけて返済するとしろくんに約束して、だから私は現在わりと極貧生活なわけである。

 ちなみにご厚意に甘えて、利息は免除してもらっている。それでも借金はとんでもないのだからあのクソ親父は本当に以下省略。

 

「だから私にはみたらしとしらたまだけなんです。朱堂さん、その節はありがとうございました。私、自分に家族ができるなんて想像もしたことなかったんですけど、家族っていいですね」

 

 当たり前に「おかえり」と言ってくれるあの子達の存在の大切さは、もう計り知れない。

 みたらし。しらたま。なぁお、ふなぁお、と鳴くあの子達の愛らしい鳴き声を思い出すと、そんな場合ではまったくないのに自然と笑顔がこぼれた。

 

「あ」

「はい?」

「い、いや。その、やっぱりあなたは、泣き顔よりも、笑顔の方がずっと素敵だと思っ……いやすまない! 忘れてくれ!」

 

 顔を真っ赤にして両手で宙をかき混ぜながらあばあばと焦りまくっている朱堂さん。

 おやまあこれはまたなんて使い古された口説き文句。

 朱堂さん自身にもその自覚があるのだろう、他意がないにしても誤解を招く発言をなんとか取り消そうともがいていらっしゃる。いや私だって今更誤解なんてしませんけども。身の程はわきまえておりますとも。

 それでもその姿があんまりにもコミカルだったから、ぷっと思わず吹き出してしまった。

 

「そういう台詞は、あなたが言っていた惚れた女性に言うべきですよ」

「そ、その通りだ……」

「ふふ。さて、それじゃあ今度こそみたらしとしらたまを見つけなきゃ。その、朱堂さん、本当に手伝っていただいてもいいでしょうか?」

「当たり前だろう?」

 

 ……こうやって、『当たり前』だと即答できる善良な好青年、しかもイケメンはとっても貴重なんだろうなぁ。きっとモテてモテて困っちゃうMMKなんだろうなぁ。

 いつもだったら深く関わり合いになりたくないタイプなんだけれど、今回ばかりはそうも言っていられない。先ほどの対応といい、どうやら迷い猫の捜索においてとても頼りになりそうだ。申し訳ないけれど、甘えさせてもらおう。

 よーしよし、気を取り直して捜索開始! 気合いを入れてベンチから立ち上がった、その時だ。

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