第1章③

 ひとまず危機は去ったと見ていいだろうか。マスター・ディアマン、ではなく社長の雇われ秘書として普段は活動している私、柳みどり子は、本社ビルの近くの公園のベンチで、まったりランチタイムをすごしていた。

 カフェでランチどころか、コンビニすら贅沢だから、今日も今日とて手作りのお弁当である。社長には「僕の分も作ってくれる?」と頼まれたことがあるのだけれど、その時にとんでもない金額の材料費を渡されて以来お断りしている。人間、身の丈に合った生活をすべきものである。

 あ、今日の卵焼きは成功だな。菜の花の苦みがいい感じ。さて次は……とラップに包まれたおにぎりに手を伸ばしたその時、ぐうううううううううう〰〰〰〰と豪快な唸り声のような音が聞こえてきた。

 反射的にそちらを見遣れば、ふらふらとこちらに向かって歩いてくる青年がいる。

 えっこわ。顔色は悪く、足取りはおぼつかず、明らかに体調が悪そうである。その光のない視線がなぜかこちらへずっと向けられていて、下手に動くこともできずに私は硬直したまま見つめ返すことしかできない。

 やがて青年は、私の目の前で、ばったりと倒れた。そりゃもう頭からばったりと。

 あまりのことに悲鳴を上げることもできない。このまま見なかったことにして放置して会社に戻ったら駄目かな。駄目なんだろうな。

 とりあえず立ち上がって、パンプスのつま先でつんつんと倒れ伏している青年をつつく。

 ぴくり、と彼の手が動いた。

 

「は……」

「は?」

「腹減った…………」

 

 ぐううううううううううううう〰〰〰〰とまたしても盛大な唸り声、ではなく腹の虫が鳴く音が響き渡る。

 めちゃくちゃ無視したいところだったが、そこまで非人道的にもなれない私はビジネス悪の組織の女幹部。

 

「……あの、おにぎりでよければ、食べます?」

 

 ラップに包まれたおにぎりを差し出すと、がばりと起き上がった青年は、ラップを引きはがすが早いか、勢いよくおにぎりにかぶりついた。

 あ、ああああ、せっかく今日は贅沢にも鳥南蛮を具にしたのに……! お腹がすいているとはいえ、もう少し味わってくれてもいいのではないだろうか。手作りだって当たり前だけどタダじゃないんだぞこら。

 そんな私の非難の視線に気付いて……は、まったくいないらしい青年は、あっという間におにぎりを食べきり、あろうことかもう一つのおにぎりへと視線を向けてきた。じいいいいいいいいいっと、それはもうとんでもない熱視線である。こちらが睨み返しても、彼の視線はおにぎりに釘付けでまったく意味がない。

 ――――ああもう! 仕方ない!

 

「どうぞ」

「っありがとう!」

 

 はい、と差し出した二つ目のおにぎりも、青年はあっという間に食べ終わってしまった。ああ、さよなら私の鳥南蛮握り……とそっと目がしらを押さえた私の手が、突然掴まれる。

 目の前の青年が、輝かしい笑顔で私の手を取ったのだ。

 

「ありがとう、本当においしかった。あなたは命の恩人だ」

「……それはどうも。命の恩人だなんて、大袈裟ですね」

「いや、本当なんだ。一週間前からろくに食べ物が喉を通らなかったのだけれど、あなたのおにぎりは本当においしくて。だからお礼を言わせてほしい」

「…………はあ」

 

 一週間とは、これまた大きく出たものだ。どうせ口から出まかせだろうけれど、この綺麗に整った顔立ちのさわやかなトンデモイケメンが言ったら、おそらく大抵の老若男女が「そうなんですね!」と納得してしまうのだろう。うちの社長にも言えた話だけれど、つくづく美形とはお得にできている。

 このイケメン、おにぎりを食べたおかげが、まーもーまばゆいばかりにかっこよろしい素敵なイケメンぶりを見せ付けてくる。うちの社長とはまた違った種類のイケメンだ。

 私はイケメンよりもおにぎりの方が好きなのだけれど、とりあえずいいものを見せてもらったと思うことにしよう。そう思わねばやっていられない。ああ、私の鳥南蛮握り。

 

「何かお礼をさせてもらえないだろうか。俺は朱堂すどうあか。あなたは?」

「柳みどり子……っていやいいです覚えなくていいです忘れてください」

 

 いくらイケメンであるとはいえ思わず名乗ってしまった自分の失態に涙が出そうだ。別にお知り合いになりたいわけではないのである。

 社長との長い付き合いの間に、私は学んでいる。美形とは観賞用に限ると。お側にはべりたいなんて思うもんじゃないと。

 おかげで何度ひどい目にあったか……って、ああああああ、「柳みどり子さんか。いい名前だな。覚えたぞ」なんて頷かれちゃったよぽいずん‼‼

 何か、何か話を逸らして私の名前を別の記憶で上書きせねば。何か、なにか……っそうだ!

 

「一週間もごはん抜きなんて、そんなにもショックなことでもあったんですか?」

「えっ」

 

 私の話題ではなくこの朱堂さん自身の話題に持っていけばなんとかならんか⁉ という気持ちで問いかけると、なぜか朱堂さんは硬直した。

 見る見るうちに凛々しく整った顔が赤くなっていき、視線が泳ぎ始める。

 なにこの反応。まじでなんかあったのか。これはやめとけばよかったかな、と思っても、もう遅い。

 

「実は、その、一週間前に、とある女性に無礼を働いてしまって……」

「はあ」

「彼女を泣かせてしまって、それ以来彼女の顔が頭を離れなくて……」

「はあ」

「謝ればいいことは解っているのだけれど、その、職業上、軽率に謝るものではないと同僚に諭されて……」

「はあ。ちなみにその無礼? とやらは、一体何をやらかしたんですか?」

 

 軽率に謝るべきではない職業ときたら、社長のようなお偉いさんだろうか。まあどうでもいいのだけれど、女性を泣かせてしまったのならば、早めに対処した方がいいと思う。昨今のSNSは怖い。私はそれを思い知ったばかりなのだ。

 私の問いかけに、朱堂さんはますます、これ以上ないほど顔を赤くした。沸騰したお湯にぶちこんだ新鮮なタコのようである。彼はそのまま完全に口ごもってしまった。

 ほんとに一体何やらかしたのこの人。気にならないでもなかったけれど、そこまで興味があるわけでもなく、私は朱堂さんが握り締めていたぐちゃぐちゃのラップをひょいと受け取って、いまだに赤い彼の顔を見上げた。

 

「どんな理由があろうと、女性を泣かせたならば、責任を取るのが男性の務めでは?」

「‼」

「では、私はこれで」

 

 まるで雷にでも打たれたかのように固まる朱堂さんを置いて、私は会社への帰路に就くのだった。

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