第4話 救い①
純文学では、多くの作品の最後に、救いが訪れる。大きなものであれ、小さなものであれ。
読者として小説に触れていると、その救いにほっとすることも多い。曇り空の中を当てもなく彷徨い続けた先に、一筋の光を見つけたような気持ちになる。
しかし、作者として小説の最後、その救いのことを考える時、私は少しだけ、辛い。
理由は2つあると思う。ここでは1つ目について書く。
1つ目。
自分の中にいる「少年」が、救いを素直に受け入れようとしないから。
「少年」というのは、何も男の子に限った話ではない。性別をとっぱらった、年齢的な基準としての「少年」、すなわち「中高生くらいの人間」である。
自分の中には幼い自分がいて、だからこそ自分より年若い主人公を設定することができる。
しかし、少年である自分は素直ではなく、年相応にひねくれている。
語弊のある言い方かもしれないが、例えるなら『エヴァンゲリオン』のシンジくんが、心の中に住み着いているような感じである。
その少年は、容易に救いを受け取ろうとしない。なぜなら、「救い」というものが全て偽善的に思えるからだ。
少年にとって、世界は悪ばかりに見える。大人になれば、世界と折り合いをつけ、必要悪と自分を納得させるものだが、少年にはその柔軟さが無い。だから、「救い」というものに偽善臭さを感じ、それをつっぱねる。
それはある意味では正しい。
「救い」が、救いを与える者の自己満足、という場合もあるからだ。
しかし、私の中の少年は、偽善と真の善の区別をせず、すべてを突っぱねてしまう。たとえ、自分の中にいるもう1人、「大人の自分」から与えられた救いだとしても。少年は耳をふさぎ、うずくまっているから、誰が手を差し伸べたのかさえもわからない。
それに、仮に自分からの救いだとわかったとしても、自分からの救いなんて反吐が出る、と言うかもしれない。やっぱりひねくれていると思う。
この文章を書いている私は、一応は大人だ。
そんな私は、自分の中にいる少年の私に、納得して素直に受け止めてもらえるような救いが描けたらな、と思っている。温かい日差しのように、思わず顔を上げてしまうような、自然で、安らぎに満ちた救いを。
その点で言えば、私は私のために小説を書いている節もあるのかもしれない。
しかし、それはとても難しい。文章力の問題だけではなく、自己理解も絡んでくるからだ。だから、私の中の少年は、まだ引きこもったままのようにも思える。
自分が自分に与える救いは、偽善なのだろうか? その答えは未だ出ない。なぜなら、その判断を下すのも、また自分だからだ。
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